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心のバイブレーション

左の手首がずっと痛い。利き手じゃないから大した支障はないかと思っていたが、料理をするとき、髪の毛を洗うとき、着替えるとき、ちょっと力を入れる度に鈍痛が走る。生後6カ月の娘は日に日に大きく重くなっていたが抱っこをしていないと絶対に寝てくれず、娘を支える左手は気づくと腱鞘炎になっていた。「赤ちゃんは寝かたが分からないのよ」とにこやかに言った助産師の顔を思い出して少しげんなりする。寝かたが分からない?人間だって動物なのにそんなことってあるのだろうか。

その日も長時間に及ぶ抱っこの末にようやく昼寝した娘を左手で抱えたまま、そっとソファに腰を下ろし小さくため息をついた。あいている右手でスマホを開く。育休を取得してからは夫以外と話す機会がめっきり減り、突然社会から隔絶されたような毎日を送っていたので、片手に収まる小さなスマホが社会と繋がるほぼ唯一の道具だった。いつも通りSNSをざっと見て、友人の近況をぼんやりと把握する。賑やかな投稿を見ていたらそれはそれで余計むなしくなって、次にまとめサイトを開く。芸能人のくだらないゴシップや、しょうもないことで炎上しているお騒がせ野郎の記事を読んでいるほうが安心するのはなぜだろう。だらだらと流し読みをしていたとき、一つのスレッド名に目がとまった。

「大学生の間で流行っているキモいバンドトップ10wwwwwwww」

妙に悪意のあるスレッド名だなと思いつつも、こういう煽動的な字面を見るとついつい気になってしまう。開いてみるとタイトルの通り、最近勢いのあるバンドの名前と特徴がランキング形式で並んでいた。聞いたことのあるような無いような様々なバンド達が、明るい毒気とほんの少しの好意の絶妙なバランスで紹介されており興味をそそられた。10位から順に見ていく。「出オチバンド」「ラップが痛い」「キモイし汚い」など、辛辣ではあるが比較的容易に雰囲気を想像できる修飾語が並ぶ中、5位のバンドの紹介がとんでもなかった。

「肛門に常にバイブでも刺さってるかのような声であえぎながら歌うキモイバンド」。

は?と思いながらも読み進めると紹介されている曲名は「エロ」。いやいや、どんなバンドだよと心の中で突っ込みつつ思わずYoutubeへのリンクをタップする。

そこに映し出されたのは確かに「エロ」だった。歌詞の内容も、MVの内容もかなり強く性を意識したものだったし、「あえぎながら歌う」もまあ分からないでもなかった。だが、それらをすっ飛ばして耳にこびりついたのはボーカルが「今日は明日昨日になる」と繰り返す妙に詩的で切実な声だった。バンド名はクリープハイプ。なぜかすごく気になる、もう一度聞いてみようか、そう思って再生ボタンを押そうとしたところで娘が起きて「ふええ」と泣いた。左手に泣きじゃくる娘。右手に「エロ」の文字が浮かぶスマホ。その時に感じたのは、妙に心地よい背徳感だった。

その日から、娘が昼寝したのを見計らってYoutubeで「クリープハイプ」を検索するのが日課になった。どのMVを見ても、画面の中で歌う尾崎世界観という人は何かに怒っているように見えて、世の中や他人に対し粘度の高い執着を投げつけるように歌っていた。娘を産んでからあらゆることを諦めることに慣れていた私にとって、それはたまらなく新鮮であり羨ましくもあった。経歴を調べるとなんと自分と同い年で、しかも下北沢のライブハウスで歌っていたという。学生時代に下北沢でバイトをしていた私は恥ずかしくもこの出会いに運命めいたものを感じてしまっていた。

ずるずると、ゆっくりだが着実にクリープハイプにはまりつつあったが、なんとなく夫にそのことは言えないでいた。単にエロいから、ということではなく、この世界を他人と共有するのはまずい、これは一人でひっそりと楽しむ種類のものだ、と本能的に感じていたからだと思う。日々娘に振り回され自由が叶わない鬱屈した部屋の中で私が見つけた光を、揶揄されたり奪われたりしたくないという恐怖もあったかもしれない。

まもなくアルバムが出るということを知り、何のためらいもなく予約した。CDを予約するなんて、何年ぶりのことだろう?アルバムが届くとドキドキしながら再生し、ライブはどんなだろうかと想像する。過去のCDも買い漁り、夫がいない日中にたくさん聞いた。曲や演奏も素晴らしかったが特に歌詞にのめり込んだ。歌詞カードや歌詞サイトを見ながら曲を聴いては、登場人物を想像したり、行間に潜んでいる意味を探したりする時間は、育児以外のことに没頭できる至高の時間だった。どの曲も聞くたびに表情を変えたりするので何度聞いても飽きることはなく、そうやってあっという間にクリープハイプは私の秘かな趣味となり、CDの数とともに背徳感も着々と積みあがっていった。

ここまで来ると、とにかく生で見たくてしょうがない。しかし娘はまだ1歳に満たなかったので私が夜一人で出歩くのはかなり困難な環境だった。見たいのに見られない。会いたいのに会えない。脳内でクリープハイプという想像上のバンドへの妄想ばかりが膨らんでいったが、母という役割を割り当てられた私にはどうすることもできなかった。CDとYoutubeを行き来して悶々とすること約1年、ようやく、ついに、その日が訪れた。

2016年1月21日。夫には「旧友とご飯を食べてくる」と嘘をついて家を出た。食事に行くわりには服装がかなりカジュアルで足元がスニーカーなのを夫に不信に思われるのではないか、とどうでもいいことでヒヤヒヤしたが彼は私の服装には全く興味がないようだった。ライブの会場は赤坂BLITZ。周りを見ると若くてかわいい女の子達だらけだし、ライブハウスが久々すぎてとにかく緊張したが、生でクリープハイプを見られると思うと心臓が飛び出しそうだった。待ち時間はあまりに長く、ときたまふと冷静が訪れると夫に任せた娘のことが心配になり少しだけ後ろめたい気持ちになったが、すぐ胸の鼓動でかき消されていった。開場から開演までの途方もなく長い1時間を経て、ついに舞台が暗転する。妙にしんと静まり返った中、メンバーのうち3人が登場し、最後に尾崎世界観がぬるりと現れた。

ライブはあまりに刺激的で、細かい内容は正直あまり覚えていない。というか、覚えていたとしても言葉にすることなどできない類の記憶で、自分で自分の感情を持て余すような感覚だった。とにかく尾崎世界観が何かに対してギラギラ、イライラしているようなエネルギーがすさまじかったのは間違いない。私は会場を一瞬で黙らせるような彼の強いまなざしにくぎ付けになり、クリープハイプが目の前で歌い演奏しているという事実を受け止めるので精いっぱいだった。尾崎世界観からは終始明らかに「場を支配してやる」という意志を感じ、それは彼らにひれ伏したくなるような、個としてのちっぽけな自分を思い出すような、不思議な感覚だった。
アンコールの最後の曲は「わすれもの」。「わすれものってなんだったっけ」と尾崎世界観が叫ぶ。いつの間にか母になり、自分のやりたいこと、見たいもの、行きたいところに自由にアクセスできなくなった自分自身にはわすれものがあまりに多すぎて、何から取り返せばいいか分からなくなって、久しぶりにちっぽけな自分のために涙が出た。

それから現在に至るまで、クリープハイプは私に色々な感情をもたらしたし、様々な景色を見せてくれた。武道館でのライブ、芥川賞候補、ナイトオンザプラネット、そして幕張メッセ。特に尾崎世界観は同い年ということもあり、彼が新しい挑戦をしきちんと成果を出す姿に、何度も何度も勇気をもらってきた。好きな曲、好きな歌詞を挙げたらきりが無い。

クリープハイプに出会って約8年、さすがに夫にもときどきクリープハイプの話をするようになったが、今でもライブに行くときは7割くらいの確率で「飲み会行ってくる」などと嘘をついている。なぜかは上手く説明できないが、たぶん出会った頃に感じた心地よい背徳感が大きく作用しているんじゃないかと思う。ある日に母になった私は他者から「本当」の役割を与えられたがその唐突さに戸惑い、育児という責務や、母という正しくいなければいけない枠組みにどうしようもない居心地の悪さを感じていた。そんな状況の中で出会ったクリープハイプは、私が私に再び出会えたいわば「真実」であり、それは誰にも見せずにひっそりと噛みしめ、ほくそ笑むことができる逃げ場だった。母であり、妻である私が懐にこっそり隠し持っている自分なりの正しさ。押し付けられた本当をぶっ飛ばした先にあったのが、クリープハイプという真実だった。

私にとっての真実とは決して美しく光り輝くようなものではなく、誰かに見せるのを躊躇ってしまうくらいの淀んだ疚しさを感じるような種類のものだ。あのとき、まとめサイトにどうしようもないスレッドを立て、馬鹿馬鹿しい言葉でクリープハイプを教えてくれたどこかの誰かに感謝している。今でもときどき懐かしくなってそのスレッドを開いてみたりするのだが、今では「肛門にバイブ」という説明に愛おしさすら感じ、読み飽きたはずのバンドの紹介文はいつだって、私に心地よい背徳感という名の真実をもたらしてくれる。あのとき震えたのは肛門じゃなくて心だった。

#だからそれはクリープハイプ
#だからそれは真実
#クリープハイプ

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