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雑誌『Subsequence』のこと

雑誌『Subsequence(サブシークエンス)』2号目の刊行を記念する先行販売イベントが東銀座の「森岡書店」で2019年11月5日〜10日に催されました。初日には編集長の井出幸亮さんと店主の森岡督行さんが対談。そのお話の内容をご紹介します。

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森岡督行さん(左)と井出幸亮さん(右)

雑誌らしからぬ雑誌

森岡さん(以下、M):第1号が今年3月に刊行され、私も松本の「六九クラフトストリート」に持って行って販売したのですが、あっという間に完売。この時代に刊行とともに「幻の雑誌」と呼ばれる状況が起こりました。井出さんにお話を聞くと、「実はこれは雑誌らしからぬ雑誌」とおっしゃっていたのがすごく印象的なんですけども、まずはそのあたりからお聞きしたいと思います。

井出さん(以下、I):えっと、まず幻の雑誌といっても、創刊号は2,000部だけ刷ったので、もともと数が少ない雑誌で、それもふまえて雑誌らしからぬ点のひとつかなと思っています。雑誌って価格が安くてたくさんの人に伝えるものだと思うんです。これは定価3,800円なので、雑誌にしてはすごく高いですよね。サイズもすごく大きいですし、定期刊行物でもない。いちおう年2回発行ということなんですけど、その半年のスパンを全然守れていない。3月のあとが11月なので、来年は2回出さないという感じなんですけど・・・。雑誌が持っている速報性から完全にはずれてしまっている。

M:そもそも今の時代になぜ紙の雑誌を作るのか、お聞きしたいです。

I:この『Subsequence』という雑誌にはvisvimというアパレルブランドの純広告が表2(表紙を開いた最初のページ)と最後の見開きに入っています。このvisvimという会社が版元となって、彼らが雑誌を作っているということですね。僕はその編集を依頼され、やらせてもらっている。普通の雑誌であれば広告がたくさん入って、広告営業部が当然あって、いろんなところから広告をもらってきて、それを資金にして雑誌を作るのが一般的だと思うんですね。そういう意味ではこれは資金を出しているのがvisvimで、一社提供という雑誌。一社提供ですと広報誌のようなものはよくあると思うんですね。自社のブランドの商品とか製品を宣伝するための雑誌のようなものがありますが、これは基本的には中身にvisvimのプロダクトと強く結びついたものはそんなに無い。基本的には直接関係の無い文化的なものを扱う、カルチャー誌のようなものに近い。そういう意味ではちょっと変わっている。便宜上、雑誌と呼んでいるし、『Subsequence magazine』と言っている。僕自身、雑誌がすごい好きなので、そういうふうに作っているけれど、一般的な雑誌と違う点はいろいろあります。部数が少ないということもそうですし、あとは本屋さんであんまり置いていない。通常は取次という流通中間業者が版元から本を仕入れて、本屋さんにまく(配本する)のですが『Subsequence』は取次を通さず、すべて直接にお店とやりとりさせていただいている。全国の本屋さんのどこにでもあるとか、コンビニにあるとか、そういうものでは全然なくて、ごく一部のお店とvisvimのショップ、オンラインのホームページで扱い、森岡書店さんのように仕入れてくださるお店に卸している状況です。また、全ページがバイリンガルの誌面なので、海外にも流通してます。

M:海外の反応はどうですか?

I:いろいろあります。海外からメールも来ます。1号に関しては基本的にはvisvimの商品を卸しているお店とか、visvimのショップに置いていたんですが、もうちょっと海外の流通を増やしたくて、2号からはディストリビューターを海外にも入れて、もう少し本屋さんにも販売していきたいです。

雑誌作りも伝統工芸

M:visvimを主宰する中村ヒロキさんがこの本を作ろうという発起人だったと思うんですけども、中村さんご自身は何かこの本を作る経緯、きっかけみたいなのを井出さんにお話しされたんですか?

I:僕はマガジンハウスの『ポパイ』という雑誌にフリーランスとしてずっと関わって仕事をしていて、そこでvisvimのクリエイティブディレクターであり、オーナーである中村ヒロキさんの連載を担当していたんですね。そういう縁もあって、visvimのいろんな編集、ライティングまわりの仕事をいろいろやっていたんです。そのなかで中村さんからある時、雑誌を作りたいという話がありました。

M:なぜ、また雑誌を作りたいと?

I:なんで雑誌を作りたいのかってことは、実はあまり深くは聞いてないんですね(笑)。でも、ずっと中村さんを担当してお付き合いしてきたので、お互いになんとなく理解しています。ひとつはvisvimというブランドは最新の技術や伝統的な技術、さまざまな文化的背景を持った技術などを使いながら職人の方と一緒に、新しいものを作ることを続けてきました。かなり徹底的なレベルでやっているんですよね。雑誌作り自体もひとつの伝統工芸ではないかと思います。言葉が適切ではないかもしれないけれど。

M:私もそう思います。

I:ひとつの職人的な、工芸的な文化じゃないかなと僕もずっと思っていたし、中村さんもそんなふうに感じてたんじゃないかな。雑誌を作るのって、本当にめちゃくちゃ面倒くさい。時間も手間もめちゃくちゃかかる。すごく大変なんですよね。非常に職人的な技術で、日本独自の文化みたいなところがある。日本の雑誌ってすごく細かいし、気が利いているし、おもしろいんですよね。僕もそう思っていたので、今の時代を考えながら、そういう技術や文化を次に伝えていくことを中村さんはやりたいんじゃないかな。

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創刊号で紹介された花紋折り。「HOW TO WRAP」を主宰する山本孝志さんが柳 宗理の心をとらえた内山光弘による花紋折りを再解釈し、制作した

タイトルの意味

M:『Subsequence』というタイトルは造語なのか、そもそもこういう言葉があるのか。このタイトルにこめられた何か背景みたいなものがあったりするのでしょうか?

I:このタイトルは中村さんが付けられたものです。

M:もともと言葉としてあるんですかね?

I:あります。「sequence(シークエンス)」っていうのは「連続」とか、「連なり」という意味。よく映画とかで「カット」とか「シーン」とか、そういうものの長いのが「シークエンス」ですね。ひとつの場面。「シークエンス」に「サブ」が付いている。「コンシークエンス」っていう言葉もあるんですけど、これは「結果」の意味。例えば、「こんな事態を引き起こした」の「事態」ですね。「サブシークエンス」は「連続して起こること」っていう意味なんですよね。何かの後に続いて起こることっていう意味です。なぜこれをタイトルにしたのかは、実は深くは聞いていないんですが、想像するに、これまで培ってきた文化とか技術とかを後に続けていくというような意味なのかなと。そう想像して作っていったという感じですかね。ちなみに表紙の文字「Subsequence」は手書きのロゴで、中村さんの奥さんのケルシーさん、本のなかでもエッセイを連載されているんですけど、彼女が自分で描いたんです。表紙の特集タイトルもケルシーさんが描いています。自分の手でやってみようみたいなことで、描いてくださったんです。

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折衷

M:今、松屋銀座で「工芸批評」という展覧会が執り行われ(11月5日まで)、井出さんもそこに出品されていて、テキストも寄せられていますが、井出さんの出品作品には「折衷」という印象的な言葉がありましたけれど、この『Subsequence』を読んでいても、「折衷」っていう考え方がバックボーンにあるのかなって思うんですけど、そのあたりはどうなんでしょうか?

I:表紙にタグラインのコピーで「Arts and Crafts for the Age of Eclectic」という長く、ややこしいのが書かれています。「 Eclectic」というのは「折衷」という意味。で、「折衷の時代のアートとクラフト」というような意味なんですね。アートとクラフトですから、美術と工芸ということ。「折衷の時代」というのはすごい深い意味で付けたわけじゃないんですけど、何かが融合したり、ミックスしたりすることがひとつのテーマで、僕は基本的にそういうものがすごい好きなんですよ。何かと何かが混ざっている。ミックスされた何か新しいものが生まれるというような。これって文化の起源とか、そういうものに関わる問題だと思うんですけどね。例えば、ハッピーエンドというロックのグループがありますよね。細野晴臣さんや大瀧詠一さんが1970年代初頭にやっていたグループ。あれは日本のロックグループですね。アメリカに起源を持つロックという音楽を日本人がやっているんですけれど、オリジナルはアメリカのもの。なので、日本人がやるのはかなり折衷的というか、日本語を使ってやるとか、当然、アメリカのロックには無い、全然違う世界観みたいなものが生まれますよね。僕はそういうものはすごくおもしろいなと思っています。オリジナルはアメリカだって言うんだけど、誰のものなのか。ルーツはロックンロールだとして、ロックンロールは例えばカントリーとか、リズム・アンド・ブルースとかが融合して生まれたものですよね。そうやって、どんどん遡っていくことができるんですけど、何がオリジナルなのかはわからないんですよね。なので、あらゆる文化は何かと何かを折衷したり、ミックスされたり、何かの影響を受けたり。それは地理的な遠くのものから、外国のものから影響を受けるとか、外のコミュニティのものから影響を受けてたりもするし、時間的な過去のものから影響を受けたりとか、ミックスされたりとかもする。時間と空間ですよね。時空ということなんですけど、両方あると思うんですよ。そういう感じで、あらゆる文化は折衷的だし、自分自身もいろんなものから影響を受けてひとりの人間が出来上がる。だから、みんなそれぞれ個性があるというか、誰もが個性を持っていると思うんですけど。そんなミックスされたもののおもしろさを『Subsequence』で表現したいんです。

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ミネソタのミンゲイ

M:そういうことから「折衷」なんですね。なんか日本の文化ってさまざまな優位的な文化の影響を受けて、それを日本なりにかたちを変える。東京駅とか、東京タワーとかいっぱいありますよね。一方で、やっぱりそれはパクリなんじゃないかという話も出てくるんだと思うんですけど、そのあたりは井出さんは何か考えるところはあったりしますか?

I:この2号はいろんなコンテンツがあるんですけれども、これは「ミネソタとミンゲイ」という記事。アメリカ中西部のミネソタ州に陶芸家のコミュティがあって、その中心になっていたウォーレン・マッケンジーという陶芸家の方が昨年末に亡くなったんですけど、彼のことを追ったルポのような記事なんですよね。僕が取材に行って書きました。ウォーレンはバーナード・リーチというイギリス人の陶芸家に師事していた。リーチは日本の民藝運動に大きく関わった方です。濱田庄司という日本の陶芸家と交流して、一緒に窯を開いて日本の民藝思想を海外に伝えたりされた偉大な陶芸家なんですけど、彼に師事していたウォーレンは濱田とか民藝の思想から影響を受けた。自分も民藝のような庶民の道具としての生活用具としての器を作り続けるということをミネソタで何10年も、50年とか60年とか、そういうスパンでやり続けた人なんですよね。彼がずっと使っていたスタジオを訪ねて、弟子だった22歳の女性陶芸家が今、彼のスタジオを引き継いで使っています。すごく日本的な、民藝的なスタイルの、かなりメインストリーム的な、民藝本流の感じの器を作っています。ギエルモ・クエラーさんという方も陶芸家で、ウォーレンとずっと一緒にものづくりをしてきた。ミネソタにはこういう陶芸家のコミュニティがあって、ウォーレンを中心にたくさん住んでいて、非常に器作りが盛んなんですよね。アメリカのミネソタに日本の民藝がずっと生きているんです。この記事にも書いたんですけど、ウォーレンは民藝の、庶民の生活道具としての器を作りたいと、安い値段で器をずっと作っていたんですね。安く売るために毎日すごく大量に作っていた。その頃、ウォーレンはミネソタのことを「ミンゲイソタ」というミネソタに引っ掛けてそう呼んでいて、同じ『Mingeisota ミンゲイソタ』というタイトルのドキュメンタリー映画があるんですね。これはYouTubeで観られるので、検索してぜひ観てみてください。すごいおもしろいので。これを観ていると、ウォーレンはスーパーの値札貼りみたいなやつで自分の器にどんどん値札を付けるんだけど、6ドルとかなんですよ。めちゃくちゃ安いので、みんなそこの無人販売所に来てお金入れて買って持って帰る。本当に庶民のための器、普通の生活道具を作り続けていて、コミュニティの陶芸家もすごく影響を受けて、ウォーレンの思想に共感して今も作り続けているんですよね。なんかそういう日本の民藝の思想みたいなものが、ミネソタの中西部の田舎に生きていたりするんですよ。じゃあ、これは本当の民藝なのかどうかとか、いろんな意見があると思うんですよね。これは民藝のパクリじゃないかって言う人がいるかもしれないですね。例えば、ギエルモさんは「自分は民藝を名乗っていない」と。民藝の影響を受けているけれども、リスペクトしているけれども、民藝と名乗っていないと。彼はそういうような考え方を持っていたりとか。文化というものは非常にいろんな所で、思いもよらない所でいろいろな影響関係があり、いろいろな広がりかたをするんですよね。

ミックスから生まれる創造

I:例えば、visvimのプロダクトにしてもアメリカンカジュアルにすごくベースがあるし、影響を受けているけれど、日本の伝統的な技術とかを駆使して、これまで無いような新しいものを作っている。僕はそういう創造性というか、何かをミックスしたりすることで生まれる創造性みたいなこととかがすごく好きだし、応援したいという気持ちがすごくあるんですよね。今は「カルチュラル・アプロプリエーション」という言葉があって、正しくは「文化の私的利用」という意味だと思います。ちょっと過激な言い方だと、「文化の盗用」っていうことですね。要はパクリですね。権威や権力を持った人が権威や権力を持っていない非対称な関係にある人たちの文化、スタイルをパクったり、搾取して、それでお金儲けをする。今、アメリカではすごく問題になっているんですよね。ただ、自分も何かから影響を受けたり、何かをミックスしたり、何かそういうところから生まれるものをすごい肯定的に考えたいというか、搾取につながるのは絶対に良くないと思っているんですけど、これはオリジナルじゃないとか、これは本物ではないと考えるのは自分はあんまりおもしろくないんじゃないと思っていて、ある種のまがい物だったりしても、そのおもしろさもあると考えています。

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もうひとつ影響を受けて生まれるものの例を2号目の記事から挙げると、「Oyyo(オヨ)」というスウェーデンの会社が、ダーリというインドの織物の技術を使って、インドでラグを作っています。この技術はインドでほとんど消えかかっていたんですけど、この高い技術をちゃんと取り戻してデザインは彼らがやって、多彩でモダンなパターンのラグを作っている。インド古来の植物による天然染色でラグを作っているんですよね。彼ら自身も別に自分たちのプロダクト、スウェーデンのプロダクトだとは全然思っていない。インドのものでもないし、どこの国のものだとは考えていないって言ってたんですよね。とくに現代はネットの発達もあってすごく情報とか行き来がしやすくなって、情報がすごく簡単に入ってくるようになって、いろいろなミックスが盛んに行われるようになった。それによってカルチュラル・アプロプリエーションとか問題があって批判もあるんですけど、自分はそういう状況をけっこう前向きにとらえていているというか、すごくおもしろいんじゃないかと思っています。

M:ふだん私たちが使っている漢字だって中国から来たものでしょうし、純粋なものって何なのだろうと省いていったら、何が残るんだろうと思いますよね。江戸時代にもすでに本居宣長が国学という古典研究の学問を打ち立て、さまざまなものを排除していった結果、彼らは自分で文字を開発していくというところまでいったような気がしますけれども、むしろそういう考え方よりも、憧れる文化から影響を受けて、それを私たちなりに変えていくというのが、とくに日本エリアの文化の特徴というか、それがオリジナリティというか。そんな感じが私もしているところです。

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『Subsequence 2号』に挿画された、平松 麻さんの作品を飾る森岡書店

瞬間誌はしんどい

M:それにしても今、紙の雑誌を創刊するというのは勇気の要ることだとも思うんですけれども、さっき情報がすごく取りやすい時代になったと井出さんはおっしゃったのですが、その時代背景と密接に結びついているんじゃないかなって気がするんです。また、書籍「工芸批評」のなかで井出さんが書いていらっしゃったんですけれども、時代の変化を「スマートホンとSNSの時代」と言い回していて、数年前までは「携帯電話とインターネットの時代」ととらえていたと思うんですけど、そのあたりの関係性も改めてお聞きしたいと思っていました。

I:勇気があるのは版元だと思います(笑)。それから、なぜ紙の雑誌を作ったかというと、すごい単純な理由は僕が紙の雑誌が好きということと、中村さんも紙の雑誌を作りたいと思って出したということがまずひとつあります。今、ほとんどの人はネットで情報を得ているんですよね。「携帯電話とインターネットの時代」と「スマートホンとSNSの時代」って僕は2つを分けたんですけど、2000年前後ぐらいに「携帯電話とインターネットの時代」が始まり、ここ 4 , 5年は「スマートホンとSNSの時代」になったと。誰もがスマホを持って常時ネットにつながっている。SNSとかいろんなところから情報を得るようになって、実際ほとんどの人が9割以上の情報をネットから得ていると思うんですよ。

M:私もそうです。

I:ほとんどそうだと思います。ただ、例えばSNSとかのタイムラインでどんどん出てくる情報ってすごい速いじゃないですか? 自分がたくさんフォローしているせいなのかもしれないけれど、どんどん出てくる。いちいち全部見て、それが自分にとって必要か、必要でないかとか判断して、これは要るとか要らないとか判断して、まぁ見ようかなとか、もうちょっとじっくり見ようかなってやるだけでもすごい大変じゃないですか? 秒ごとに上がってくるから、じっくり考えたりは絶対にできないですね。一瞬で判断するほかはないですよ。僕はそれを週刊誌ならぬ「瞬間誌」と呼んでいます(笑)。昔は週刊誌で1週間に1回。『週刊文春』とか見たら、だいたい世の中の動きがわかったんですけど、今はSNSとかで超リアルタイムに誰が何を言ったとかをみんなが見ている。まぁ「瞬間誌」ですよね。で、瞬時にものを判断しないといけないのって、当然なんですけど、パッと見の世界だけになっていく。パッと見ていいとか、きれいとか、かわいいとか、格好いいとか。パッと聞きですよね。聞こえのよい言葉とか、わかりやすい言葉とか。そういうものが当然、増えていくんですよね。ネット上はそういうもので埋め尽くされていくところがあります。そういうのを日々、処理し続けなければいけない。タスクのように溜まっていくんですけど、けっこうしんどいなぁって思って、疲れるようなところもあり、僕自身がそういうのに対応できていないのかもしれないですけど、ずっとそれをやり続けるのはしんどい。

紙でしか味わえないもの

M:井出さんにとっては現状、スマホとSNSの時代だとして、この『Subesequnence』はさらにその先にあるようなものというふうに言っても過言ではないですか?

I:自分はネットで全て満足できているかというと、満足できていないことの方がたくさんあって、紙でしか味わえないものっていろいろあるんじゃないかと思っていたんですよね。僕は昔から子供のころから雑誌が好きだったんで、いろいろ読んで影響を受けた。それで、紙でしか味わえないものって何だろう?って考えたんですよね。いくつかあるんですけど、ひとつはこういう大きなサイズというかビジュアル、迫力とか。写真をスマホで見ていても何かあんまり楽しくないんです。全部同じようなベタッとしているとか。例えばインスタグラムのなかにあると写真が全部同じフォーマットで掲載されているので、全て価値がフラットな感じに見えて、あんまり響いてこない。あと、すぐ忘れちゃうとか、いろいろ感じていて、ビジュアルの迫力とかはやっぱり紙とかじゃないと味わえないんじゃないかなぁと。それがこの大きな判型になった理由のひとつです。

M:パッと忘れるっていうのは確かにそうだなぁと思っていて、少し前に直木賞作家の村山由佳さんとラジオでお話させていただいたことがあったんですけれども、私もそう言ったんですよ。「SNSって忘れますね」と。そうしたら村山さんが明確な回答をしてくださって、脳科学の分野ではしっかり証明されていると。デジタルと紙の媒体では認識する部位が違うと。なので、記憶の残りかたも違ってくる。印象も違ってくる。そこらへんに紙の媒体の優位性があるのではないかという話をされて胸を打たれたんです。その話をコピーライター川崎徹さんとしていたら、川崎さんはそんなのは当たり前だと。透過光と反射光の違いで、発光している光で見る情報と、本みたいに反射した光で入ってくる情報では全く処理の仕方が違ってくる。そうやって得た知識の出力の仕方も違ってくるだろうと答えられた。そのあたりに紙媒体の優位性はあるのかなと思います。

長い文章をネットで読むのは難しい

I:科学的な裏付けを僕はわからなかったんですけど、そういうことを感じていました。それに、もうひとつは長い文章をネットで読むのは難しいなと。ずっとデジタル・ネイティブみたいな人たちなら苦じゃないのかもしれないですけど、僕は長い文章をネットでずっと読むのはすごいしんどくて、なんか没頭できないんですよね。気が散るというか。ネットって常につながっている状態なので、いろいろ読んでいて、あっ、この言葉気になるなぁと思うとすぐに検索して他のところに飛んでしまう。この商品おもしろそうと思ったらどこで買えるのかなとか。どんどん飛べるので、気が散るというか、じっくり読むのはすごい難しいなぁと。

M:ネットサーフィンをしていると、時間を浪費している感覚が後でドッときます。

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紙は文脈を発見できる

M:それに比べて紙媒体という話になるんですけど。実は今日もすごくいい出会いがあったんですよ。2号に 井出さんの後輩の西加奈子さんの小説があるんですけど、禅の「十牛図」っていう本が小説のテーマになっている。「十牛図」って読んだことがある方ってあまりいないんじゃないかと思うんですが、岩波文庫とかに入っているものです。悟りをひらいたんだけど、無限の世界から超越して向こう側の世界に行った。行ったんだけど、その賢者はこの世の中に帰ってくるっていう、また悟りみたいなお話。それを10個のパターン化して説明している物語だと思うんです。そのことを西 加奈子さんは書いてらっしゃるんですよね。小説のテーマが「十牛図」だと知って驚きました。

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というのは2ヶ月ぐらい前に、この絵(2号のP.12に掲載)を描いた平松 麻(あさ)さんと近所のバーで会って2時間くらい話したんですけど、そのテーマが十牛図だったんですよ。十牛図について話そうと。麻さんの絵は時々、杭(くい)が出てくるんです。それは向こう側に行ってこっち側に帰ってくるときの目印だというようなことをおっしゃって十牛図の世界観を自分の絵でトレースしているということだったんですよ。そんな話を聞くと、十牛図って今、読んでおくものなのかとか思って、ちょっと十牛図読まないと駄目だと思ったりするんですけど、こういう読み筋というのも、リアルな本の醍醐味だなと。

I:編まれたものですからね。そこに文脈をいろいろ発見したりとかね。

M:そうですね、文脈を発見する。良いですね。

I:そういうようなことが本にはある。長い文章とか、没頭できるような何かとか、世界観とか。ネットにそういうのが無いとは思わないんですけど、没頭しずらいような、気が散る、疲れるようなところがあって、ネットにはネットの、SNSはSNSにしかできないすごい機能とかたくさんあると思う。それはそういう目的のためにやればいいし、紙は紙にしかできないことをやったらいいのかなと思っています。紙だから味わえることって何かなと思いながら誌面作りを考えていったということがあります。

紙媒体が力を発揮する時代

M:去年の夏、「BACH(バッハ)」の幅さんと一緒に上海に呼ばれて行ったんです。中国政府が本屋を作ることに対して巨額の予算を付けているということで、今も巨大な書店や図書館がたくさんあるんですけど、さらにどんどん作っていくという話でした。そこのコンテンツとか書店員はどんな人が良いのかとかを話することで行ったんですけれども。日本に居ると、書店とか本がすごい斜陽産業だなっていうイメージが強いんですけれども、その話を聞いたとき、まぁ確かにそうだなと自分なりに納得できたような気がします。世界の主要な都市は、例えばニューヨークだったら「ストランド(ブックストア)」とか、パリだったら「シェイクスピア(アンドカンパニー)」とか、本屋の文化があって、それがその街のある種の人々の心の拠り所となっている。店ではトートバッグとか売っていますから、観光客は買って、それを持っているだけでその都市の文化度みたいなものが伝播していくイメージがあります。中国の人は今、そういうことを意識的にしようとしているのではないかなと考えているんです。井出さんの言う「スマホとSNSの時代」って確かにそうだと思うんですけど、何かそういう時代だからこそ、むしろ紙媒体がドンと力を発揮するような気がします。

I:そうですね。紙の雑誌自体が少なくなってきているし、そこに見るべき文化とか技術とか、自分はあるはずだと思っていて、紙の雑誌を作るとなると、すごい復古的というか時代に逆行しているみたいに思われるかもしれないけども、自分としては今だからこういうものを作ったので、自分は時代を見て作っているつもり。時代の最先端だぜーみたいなつもりでやっているというところがあります。

生活のあらゆるところに創造性がこめられる

M:さっき工芸の話になったんですけれども、最近、工芸の業界の話として美術と工芸という対立軸があったりしていて、工芸は美術の若干下にあるものとか、そんな考え方を展開する対談がよくあるなぁと思っています。井出さんはこういう雑誌作りを通して、これは工芸作品だとおっしゃってましたし、工芸の作家を取り上げる機会も多いかなと思うんですけど、どんなふうに考えているのかなってお聞きしたいです。

I:アート・アンド・クラフトというのはもちろんウイリアム・モリスの言葉から取ってはいるんですけれども、ウイリアム・モリスにすごい深い意味があるわけじゃなくて、なんとなく美術と工芸というのは僕のなかでは別に境目を分けていなくて、何かしら創造的なもの、クリエイティブなもの、クリエイションということだと思うんですけど、僕はそういうものに関心があるので、物を作るってだけではないと思うんですよね。創造的にできるというのは別に物を見るだけでもいいかもしれないし、音楽を聴くとか、奏でるでもいいですけど、作るだけじゃないし、食べるとか、生活のあらゆるところに創造性はこめられると思います。創造的な暮らしは生活が大事じゃないかなと思っています。でも、創造性を奪われる機会はけっこうたくさんあると思うんですよね。自分で考えたりする前に「あなた、これを読んでください」とか、別にネットを敵視するわけではないんですけど、ネットって最適化、合理化にすごく寄与するマシーンなので、「あなたはこんなもんがよいでしょう」とか「こっちへどうぞ」とかどんどん誘導されていくので、自分で考える機会が失われていくんですよね。それは楽でいいという面もありますけど、僕は自分で考えたり、失敗しても自分で考えながら、いろいろやっていくというのがすごい楽しいなと思う。

いろいろな角度から見る

M:今年7月に中国の深センに行ってきたんですけれども、深センに行くと、東京はもう中国の地方都市かくらい近未来を感じられます。そこでも本屋のことをお話するのかなと思っていたら、まったく別だったんですよ。偉そうに登壇して話したんですよ。テーマは新しいアイデアの導き方とか、次はどの分野でイノベーションが起こるのかとかを話す係だったんですよ。そんなこと事前に何も聞いていないんです。で、なんとか頑張って話してきたんですけど、井出さんだったら何て答えますか?

I:いやぁ、わからないけど(笑)。ものをいろいろな角度から見るとかがすごい大事かなとは思います。何かを作る、創造するときにいろんな角度から見るというのはすごい大事で、正面から見るとただの四角に見えても、上から見たら円柱かもしれないし、後ろ側が窪んでいるかもしれない。正しい姿はいろんな方向から見ないと、たぶん見えないでしょう。一方向からだけ見ていたら、そのかたちにしか見えない。いろんな方向から見るというのは、ものをちゃんと見るのに大事だと思うし、何かを生み出すにも大事かなと。

M:それは折衷という・・・。

I:うん、いろんな視点を持つとか、そういうヒントを雑誌を読んだら得られたらいいなと思っていますね。これを読んで、何かみんなが考えたり、きっかけになってくれたらと。

M:『Subsequence』のいいところはボロボロになっていく経年変化が良いような気がします。コーヒーがこぼれているのもいい感じになりそうな気がしますし。

I:ぜひ。この姿が正しいわけではないので、自由にボロボロにして読んでもらいたいと思っています。



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