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山に、登ろう。

幼いころ、家族からお前は水戸のおじさんに似てるねと言われた。水戸中心部に立つ運動具店「モリ商会」に婿入りした親戚にあたるおじさんは凍傷で両足の指を失いながらモンブラン北壁を日本人で初めて登攀したアルピニストであり、世界で最も至近で雪男に遭遇した人(角幡唯介著『雪男は向こうからやって来た』参照)、芳野満彦だ。顔が似ているのではない。勉強はそっちのけで好きなことだけに夢中になる自分と、店の経営は叔母さんに任せ山ばかり登っていたおじさんに共通点を見出されたのだろう。

そんなおじさんから小学5年生のときに子ども向けに山登りの楽しさやノウハウを伝える著書を贈られ、やさしい言葉ながら山の美しさ、厳しさ、恐さがにじむ文章に息を呑んだ。こんな壮絶な経験をしてきた人にぼくは似ていると言われたことが誇らしかったし、命を無くす危険を厭わず海という大自然に魅了され、危険な仕事に就き、何度も生還できたのも、この本の影響があったのかもしれないと今になって思う。

おじさんも叔母も亡くなり、モリ商会の建物も無くなった今、水戸への日帰り旅を計画したのを機会に、どこにいったかわからなくなった『山に登ろう』を再読したいと望み、amazonで古書を取り寄せた。届いたのは筑摩書房の再編版。大人の読書にも耐えるよう構成を直し、挿絵も芳野自身によるものに替えられていた。そつなくコンパクトな判型にまとめられた良書だけど、半世紀弱前に受けたインパクトをそのまま懐かしみたくてオリジナルの風濤社版を金沢の古書店「オヨヨ書林」から入手した。

オリジナル(下)はイラストのサイズも文字の大きさ、行間のゆとりがたっぷりしていて本と気楽に向き合う気分になれる。とくに見入ったのは山での神秘体験を綴ったコラムで、不思議な現象に山への興味を募らせた当時の記憶が瞬時に蘇り、感慨に耽った。文章への印象がレイアウトの余白しだいでこんなにも変わるのかと驚き、わざわざオリジナル版を見つけ出して良かったと酔狂な行動を自己肯定した。

易しい山への誘いを読了後、勢いに乗じて新田次郎による山岳長編小説に手を伸ばした。主人公は芳野満彦がモデル。モンブラン北壁登攀に至る山に傾倒した生きざまが圧巻の筆力で著され、むさぼるよう一気に読んだ。フィクションの体裁だが、おじさんへの緻密な取材を重ねた極めて事実に近いストーリーなのだろう。登場人物への近しい想いから感情移入して、おじさんのそばで偉業に立ち会った錯覚を覚えた。

もう、おじさんに会うことはかなわないけれど、30年前、長野県白馬山頂で酷い高山病にかかって以来ずっと敬遠してきた高い山をまた歩いてみようかと素直に欲したし、おじさんが晩年を過ごした水戸を旅してみたいと欲求もより高まった。おじさんの本に導かれるままに実行した旅については後日に続きます。

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