【天使のたまご】「水」に関する考察

 胎児は母親の子宮の中、羊膜に満たされた羊水の中に浮かび、臍帯(へその緒)を通して母親の胎盤から栄養を受け取り、同じく臍帯を通して老廃物を母体へ渡して排泄してもらう。胎児は羊水を口から吸っては肺まで通してガス交換を行うことで呼吸の練習をし、体内で酸素と栄養素を吸収した後は尿として水分を排出する。この循環を繰り返すので羊水の成分は胎児の成長具合によって変化するが、量は一定に保たれるのだそうだ。
 作中、少女は池や噴水や水道から「水」を「瓶」に汲み上げては飲むが、同時に池におしっこをしているシーンもある。視聴して最初は衛生面について衝撃を受けるのだが、「胎児は自分が排尿する羊水を飲む」ことを考えると、この世界における「水」とは少女のための「羊水」であり、これを循環させる少女はこの世界に孕まれた「胎児」であると考えられる。

なぜ彼女は「水」を飲むのか

「街」を探索していると、少女は「瓶」に入った赤い液体(ワイン?)を発見するが、中身を捨てて空の「瓶」に「水」を汲んで飲もうとする。「瓶=子宮」から流される「赤い液体」は血液、それも子宮内膜から剥がれ落ちて排出される「経血」を表しており、それを捨てる・受け入れないということは「(月経が発生するような)性的成熟の拒絶」と見ることもできる。
 この世界における「羊水」を少女は飲むが、これを外界から来た少年に分けようとすると断られてしまう。この世界の「胎児」である少女にとって「(羊)水」は「瓶(=子宮)」に満たして眺めれば「自分は外界から守られている」という安心感を得られ、口を通して飲み込めば自身の(現状の)維持に必要なものが補充され、少女に「胎児」としての安心感をもたらすものなのではないだろうか。だからこそ少女は少年に「飲むと安心する(羊)水」を勧めるが、外界から来た少年はそれを断ったのではないだろうか。

「方舟」の浸水に驚く少年

 少女に招かれて「方舟」の中に一歩足を踏み入れた少年は、そこに「水」が溜まっていることに気づいて一度足を止める。もちろん先程まで水のなかった場所を歩いていたのに屋内にいきなりそんな大きな水たまりができていれば驚くのは当然なのだけれど、少女に「こっちよー」と声をかけられるまで彼は立ち尽くしてその水たまりを眺めていた様子がある。
「街」を駆け抜けていく「漁師」を見て「魚が出たのよ」と言われた時には「魚?」と訊き返していたのだから、わからないことがあれば彼はすぐに彼女に訊ねることもするはずだ。しかし彼は特にその「水たまり」については何も言わない。つまり彼はこの「水たまり」について、自分で納得できる結論を何か持っているのではないだろうか。
「水=少女のための羊水」とすると、彼女の「夢」であるこの世界においてそれが存在するということは、彼女の「外界から隔絶されていたい」という願いの表れでもある。彼は「水」がこの世界において「『胎児(=少女)』を守り養う『羊水』」であること、転じて彼女が「胎児(=外界から隔絶され、何もわからない存在)」でいたがっていることの表れであると理解していて、だからこそ勧められた時にも口をつけなかったのではないだろうか。
「方舟」の中の廊下や階段の両脇には「水」を溜めた「瓶」が並んでいるが、「水」が出そうな場所や他の「水たまり」はない。本来「方舟」は「水=羊水=彼女の『胎児でいたい』という願い」とは一切無関係な場所のはずで、だからこそ彼はその入口だけとはいえ「浸水」していることに驚いたし、だからこそ彼女は「お守り」として「瓶」に「水」を満たして並べていたのではないだろうか。

「雨」と「洪水」

 この世界の「水」は「羊水」であり、少女の「胎児(何もわからず世界から隔絶された存在)」でありたいという願いの表れであるとして、ならば降り注ぐ「雨」は何だろうか。
 自然現象に則って考えるなら、地上の水が蒸発・帰化して雲の形で上空にとどまり、これが一定量以上溜まると水滴となって地上に再び降り注ぐのが雨である。そう考えるならば「羊水=地上の水」が少女の「願い」である以上、それが気化して天に溜まるもの、再び地上に降り注いで洪水をすら起こすものである「雨」もまた、彼女の心情にリンクするものなのではないだろうか。
 作中「雨」が降るのは、一度ははぐれた少女が少年と再会してともに「街」を歩いている時から、そして二人が「方舟」に着いて少女が目覚めるまでの間になる。「卵は割ってみなければ、その中に何が入っているかわからないものだよ」と言われたことで怯えた少女は、距離をとってついてくる少年に「ついてきちゃダメ!」とも言うが、少年はそれを気にすることなくついてくる。少女はついてくる少年を気にし、ともすればうっすらと微笑みにも見える表情を浮かべる。
 そうして二人で「街」に入った頃には「雨」が降っていた。窓に映る自分と少年の姿を見、振り向いた少女に少年は自分のマントを広げて中に入るよう促してみるが、少女はそっぽを向く。もうこの頃には二人の距離感は相当縮んでおり、「漁師」に怯えて思わずしがみついた少女を少年は自分のマントで隠すようにし、オペラハウスでは「漁師」の脅威など忘れたように少女は窓越しに少年に語りかけ、ついに少女は「あたしの卵に何にもしないって、約束して」と条件をつけつつも、自身の塒である「方舟」に少年を連れてくる。そうして「雨」は「風」を伴い、「街」を沈めて、少女が翌朝目覚めるまで降り続ける。
「風」は最初に少女があのサイレンの響く中で「街」を見下ろしていたシーンで吹き、「水」の中に沈んでいくイメージを無理やり断ち切るように音を立てて吹き込み、また「外」から来た存在である少年を「方舟」へ招き入れる時にも吹いていることから、おそらく「外」の世界から来るもの、少女に「目覚めよ」と呼びかけるものではないだろうか。
 では「雨」は何か。「ここは雨も降らないし、温かくて…」と語る以上、少女にとって「雨」とは「水(=羊水=自分を安心させてくれるもの)」とは異なるもの、できれば避けたいものであると考えられる。
 激しくなる「雨」によって「街」は沈む。少女が「水」を汲んでいた噴水も、「ジャム」を得ていた店も、あれだけ恐れていた「漁師」も水に沈み、今や「街」は本物の魚が泳げるだけ水に浸された。「魚」は生命力の象徴であり、特に押井作品においては「(子を産める)女」の象徴でもある。少女が少年に心を開き始めてから降り出した「雨」が「洪水」となって街を浸し、「魚の影」が泳いでいた街に「(本物の)魚」が泳げる環境が生まれ、「漁師」が人形のように直立不動で水没しているということは、もはやその全てが少女にとって不要なものになったということだ。『胎児』である彼女を養う「水(=羊水)」も「ジャム(=臍帯血)」も、悪夢のように繰り返される「漁師(=男の暴力性)」と「魚の影(=「女」の幻想)」の飽くなき闘争も、少女にとってはもはや必要がない。あの「街」にはこれから本物の魚が泳ぐようになるかもしれないが、それを乱暴に獲りに来る「漁師」ももういない。
 何より彼女は「街」には目もくれず、ただ少年を追って「崖」に落ちた。「方舟」で繰り返される「胎児(何もわからず「外」の世界から隔絶された存在)」としての夢も、「街」を舞台に繰り返された「異性(の暴力性)」に怯える悪夢ももう全て終わり、彼女は本来の姿を取り戻して、少年との間に孕んだ「新しい物語(人類の再生した世界)」を産んで「聖母」として昇天する。それまでの少女が「胎児」であったとするならば、この「洪水」は「破水」を意味し、「雨」は少女自身の精神的な成熟を表すものではないだろうか。殻にこもって自分を守ることに固執するのではなく、成熟する自分の肉体を受け入れ、他者との交流を求める気持ちが、あの「雨」となって降り注ぎ、少女の依存心と恐怖心を象徴する「街」を沈めたのではないだろうか。

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