ル・プティ・シュヴァリエ Le Petit Chevalier 5 Vein Ⅱ
にわか雨は止み、すぐに洋館を出発した。
日本中で多発している異常な現象によるものなのかわからないが、住宅街は閑散としていて、滅多に人とすれ違うこともなかった。
アンリの指示に従いながら、なるべく複雑なルートで次のクダへ向かう。無駄な戦闘を避けるためだ。
通りがかった倉庫で、大声で指示を出しながら働く人たちを見かけ、世界から完全に人間が消失してしまったわけではないのだと、少し安心した。
市の中心部に近づいているのか、商店や飲食店が増えてきた。
古いこじんまりとした洋食レストランが見えた。
「アンリ、ちょっとミーティング。朝から食べてないし、入ろう」
時刻は十七時を回ったばかりで、ディナーの時間だったが、まだ客は一人もいなかった。五十代くらいの夫婦だけで切り盛りしている店のようだ。注文を受けるとき、女性は不安そうな顔で俺を見つめ、ニュース見ましたか? と訊いた。
ネットニュースを見ることは禁じられていたが、現状がどのように報じられているのか、ずっと気になっていた。
いえ、見ていませんと答える。
「この数日、関東から北海道にかけて異常気象みたいなことが起こってるの、ほんとこわいわよねって、さっきまで話してて」
「ああ、ここへ来るときも、空が変でしたね」
「今朝から北海道が大変なことになってるらしいんですよ。行方不明の人もいっぱいいるんですって」
妙だ。真砂さんがゴーストと出会ったのが二週間前。そして世界の終わりはその前から進行していた。だがあきらかに、真砂さんや俺がフィギュールを認証してから異常が顕在化している。
不自然に思われないように、ワイアレスフォンをつけてアンリに話しかけた。
「それについては私もわかりません。磔の庭と私たちが共鳴している可能性もあると思います」
その可能性は高い。
「訊きたい。消えた人たちはどこへ行くの?」
「上位世界です。いわゆる死後の世界と同一と考えてください」
思った以上に事態は深刻だった。つまり、消えた人間は俺たちが任務を完遂しても戻らないということだ。
オムライスを運んでくるとき、女性から、まわりには西に移住すると言っている人もいると聞かされた。
俺は、避難するのはいいかもしれません、でも移住する前に終息すると思います、と伝えた。女性は不思議そうな顔でこちらを見ていた。
レストランを出ると陽は暮れかけていた。
先刻よりいっそう空を埋め尽くす星雲は近く、めまいのするほど輝いていた。
またしばらく歩き街から離れていく。
やがて地上は夜に変換され、人通りも車通りも途絶えた。
退屈な旅路を、天空の狂ったプラネタリウムだけが癒してくれた。
急な勾配の坂を上り詰めると広い敷地の寺院がある。
朝から連続して襲撃を受けてきたのが嘘のように、平穏無事に次のクダへ到着した。
「あそこに見える東屋です」
すでに閉ざされた門越しにアンリが指し示す。
時刻は二十一時を過ぎていた。門はカギがかかっていない。音を響かせないようにゆっくりと鉄の門をスライドさせ、薄闇に浮かぶ寺の敷地内に侵入した。管理事務所の窓に灯りが見える。もし誰かに声をかけられたらお墓参りと言い訳すればいい。
木製の椅子とテーブルが設置された東屋の内部に立つ。
椅子には夕方の雨でついた水滴がまだ残っていた。
カードを掲げる。
例の圧迫が起きて夜の闇が震え、やがて昼も夜もない色彩の増殖に包まれる。
窓から差し入る銀河の光に照らされた部屋が現れた。
胸躍る新しい世界が広がりそうな静寂。
規則的に穴の並ぶ壁。
窓際天井にはくるくる巻かれたスクリーンのようなもの。
「ここは?」
「宇都宮市の小学校です」
学校の視聴覚室に飛んだらしい。
懐かしい、とひとりごちて、淡々とした足取りで外へ向かう。
校門に足をかけてジャンプして外に出たとき、ちょうど赤ん坊を抱いた父親と母親が通りかかり、二人と目が合った。俺の前を横切ってから、父親が一瞬だけ訝しげにこちらを振り返った。
そういえば家族を作りたいと思ったことなんてなかったな。彼らは俺と同世代の家族だ。この状況が進行したら西に避難するのかもしれない。俺は昨日まで仕事に忙殺されるだけの毎日を送っていた。家族がほしいような気もするし、いらなような気もする。複雑な気持ちで遠ざかる親子連れを見つめていた。
学校は最寄り駅の裏手にあり、すぐにビジネスホテルを見つけた。
入り口に三日月のオブジェがある。
チェックインしたのは、窓はないが安価でこぎれいな部屋だった。
となりのコンビニで買ったお菓子と飲み物を出してベッドの枕に寄りかかる。襲撃とともに朝は始まり、猫を預けてから三体のフィギュールと戦った。二十キロ以上は歩いている。
急激に眠気が押し寄せてきた。
またいつ襲撃されるかわからない。いまのうちに寝ておこう。
そう考えると、シャワーも浴びずに眠ってしまった。
目が覚めたのは昼近くだった。
身体は異様なほど覚醒していて力がみなぎっていたが、思考だけがおぼつかなかった。もう少し寝ようと思いつつ、ニュースを見るために液晶テレビをつける。
予想はしていたが、各局臨時放送に切り替えられ、現在日本中で起きている奇怪な現象について特別編成で報じていた。コメンテーターも、何の専門家かわからない専門家も、みな揃って困惑の表情を浮かべている。
北海道は封鎖されていた。
救助のために派遣された自衛隊が丸ごと現地で消えたらしい。
政府の緊急対策室が発表した調査結果によれば、数日のあいだに北海道から大半の人間が消え、ほとんど無人島のようになっているが、情報が乏しいため、何が起こっているか正確に把握できていない。
北海道で起きている現象は東北、さらに関東やほかの地域に波及すると見込まれており、暫定的な避難措置の要請、早急な原因究明が求められている。国民には慎重を期して行動するように呼びかけていた。
展開が早すぎる。
真砂さんの話だと、一ヶ月かけて徐々に世界は終わっていくはずだった。
だが、このペースだとリミットは数日以内といったところだろう。早急に片をつけないと日本は無人島になる。東京さえ人が消え始めているのだから。
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