ル・プティ・シュヴァリエ Le Petit Chevalier 2 フィギュール Figures
八時ちょうどに目覚めた。
窓から覗くのは旅立ちにふさわしい晴れ渡る空だ。
世界が終わるというのに、長らく味わえなかった安眠を享受できた。
確固たる使命を与えられないことが、いかに人を慢性的な不安に陥らせるのか、生まれて初めて理解できた気がした。
アンリ、起きて。教えてほしいんだ、どこへ向かえばいいのか。
「あなたが起きているとき、私も起きています」
濡れたような結晶をゆらめかせて現れたアンリ。
「あなたがこれから向かう先は北海道の苫小牧です」
少し拍子抜けした。地球の裏側まで行く気でいたからだ。
昨夜は何も準備せずに眠ってしまった。
世界を救う任務はきっと、ディズニーランドへ赴いてミッキーやベイマックスと抱擁するようなものにちがいない。着の身着のまま行くだけさ。
それにしても、と口元に手を当てて考える。
なぜフィギュールを付与されたのが、ほかならぬ自分たちなのか。昨日真砂さんに訊けなかったことをさりげなくアンリに訊いてみた。
「任務が終わればわかります」
釈然としない答えだったが、それ以上訊かなかった。
「まずは飛行機のチケットを予約して、おはぎをペットホテルに預けて、それから……」
おはぎと離れるのは寂しかった。
一心不乱に朝ご飯を食べるおはぎを見つめる。
「明日に帰るのは無理だよね?」
「無理です。猫はペットホテルに預けてください」
「北海道に行って用事を済ませて帰るだけだと思うけど、製作者が俺たちに気づくなんて考えにくくない?」
「いいえ、もう気づかれました」
次の瞬間、ベランダの窓ガラスを粉々に砕いて侵入してきた物体を撃ち抜き、おはぎを抱えて玄関ドアへ走った。速すぎて詳細はわからないが、俺はアンリと同期して動き、アンリの指先からは何かが発射されたように見えた。
部屋の床にはミルキークオーツの鳥が横たわっていた。
胴体に空いた穴からは一滴の血も流れておらず、身体が透け始めている。
「アンリ、あれは敵のフィギュールなのか?」
結晶の鳥を指さして訊いた。
「そうです。厳密にはフィギュール本体ではなく、能力の一部です。攻撃よりもマーキングが目的でしょう」
こうして話しかけると同期が解除され、アンリは質問に答える。
「まだ支度もしてないのに困ったな。これから俺たちはどうすればいい?」
「現在、行為可能領域に敵はいません、しかし、敵のネットワークを介して次の一手がやってくるでしょう。急いで準備を済ませてください。すぐに出発します」
思った以上にヤバそうだ。俺たちと一緒にいるとおはぎにまで危険が及ぶ。
製作者側のフィギュールに気づかれないうちに早くおはぎを預けねば。
出がけにアンリから、真砂さんにはフィギュールを介して連絡するよう釘を刺された。ほかの連絡手段は諜報系のフィギュールに盗聴される可能性があるらしい。俺と真砂さんのフィギュールを接続しているネットワークであれば、絶対に情報が洩れることはない。
「任務が終わるまでスマートフォンは機内モードにしてください」
結晶の鳥は跡形もなく消えていた。
早急に支度を整え、周囲を警戒しながらペットホテルへ向かう。
商店街で他人とすれ違うたびに不安になった。
「フィギュールは認証された人間にしか見えないんだよな?」
おはぎを抱えたアンリに尋ねる。
おはぎは大人しく目を細めていた。
「もちろんです。刻印を受けた人間には見えますが、それは非常に稀にしか起こり得ません」
「なるほど」
歩きながら空を見上げると、あちこちが紫色に煙っていた。異様に明るい小さな星が青空一面に鏤められている。朝の空ではない。なんて奇妙な空。
ペットホテルでは、事前予約必須で当日の預かりは要相談と言われたが、空き部屋があったのと、緊急性が高いことを必死に伝えて契約にこぎつけた。本当は環境が変わらない訪問ペットシッターがよかったが、自宅マンションを敵に知られてしまっている以上、任務完了までおはぎを置いておくわけにはいかなかった。
さてどうするか。
どうやらマトモな手段では目的地にたどり着けなそうだ。
出発前に軽い朝食とミーティングもかねてカフェに入った。
喫煙可の純喫茶には、朝から煙草の匂いが漂っていた。トレーにはコーヒーとトーストとゆで卵のモーニング。テーブルの向かいにアンリが座る。誰もアンリに気づかない。
アンリのほうから口を開いた。
「これから徒歩で北海道に向かいます」
無表情のアンリを見つめたまま、無言でこちらの意志を伝える。それを知ってか知らずか、アンリはふたたび口を開く。
「もちろん、すべての道のりを徒歩で行くわけではありません。認証カードを持つフィギュールは、各地に穿たれたクダと呼ばれる地点から一定範囲内のべつのクダへ飛ぶことができます。クダは多くの場合、神社や寺院、教会などにありますが、それ以外の場所にもあります。敵のフィギュールはあらゆる公共交通機関に検閲を張っています。クダからクダへ渡りながら進むのが最も安全で効率的な移動手段です」
「クダ?」
「管、世界に張り巡らされた血管のようなものです」
「それにしても」と俺は口元に手をやる。
「そのクダからクダへの移動は一定範囲内に限られる。さっき襲われたときもテリトリーって言ったよね? つまりほかのフィギュールのテリトリーに入ると気づかれてしまうと」
「仰る通りです。フィギュールの機能は一定範囲内に限られます。はるか遠くからでもリアルタイムで私たちを認識できるなら、そもそもこの計画自体が成立しません」
「でもフィギュールはネットワーク化されてるんでしょ? まあすべてではないとしても、可能なわけだ。ならマーキングされたら袋叩きじゃない?」
「そうです。もともとフィギュールは製作者側が独占していた技術です。一方、反製作者側のフィギュールは、来栖ミトと真砂リサに付与されている二体のみです。数で勝ち目はありません。しかしゲリラ戦であれば必ず勝てます」
「言い切るんだ」
たしかにアンリは強そうだ。
だが敵のフィギュールとの力の差は未知数だし、なぜ必ず勝てると言えるのか?
カフェを出て気づいた。平日の午前中なのにやけに人が少ない。
アンリに従って住宅街を抜け、神田川沿いの小さな公園を通りかかったとき、思わず立ち止まった。箱庭に敷きつめられた楽園のように、色とりどりの花が光を放ち咲き乱れていた。
「アンリ」
「北東にあと五百メートルほど歩くと教会があります。そこの礼拝堂が最初のクダです」
「いや、気づいてるよね? わざとかな?」
川を隔てた欄干に肘をかけて、煙草を吸っているオールバックに眼鏡の男がいる。上下黒のスーツ。ご丁寧に赤いネクタイを締め直して、カメレオンのような眼でこちらを見る。異様な雰囲気がダダ洩れだ。
いつからそこに立っていた?
「あれはカウンター型の能力です。こちらからしかけなければ何も起こりません」
「なぜわかるの?」
「私はほかのフィギュールの能力を抽出できます」
アンリは前方を見つめたまま眼鏡の男には一瞥もくれない。
眼鏡は橋を渡りながら少しづつ距離を詰めてくる
「背後の逃げ道を塞いで挟み撃ちにするつもりです」
「挟み撃ち?」
「前からやってくる相手はこちらを視認した瞬間攻撃してきます」
前にもいるのか。
なぜか敵の攻撃をアンリの腕や足でガードできる確信があった。
それが勘違いか否か、はっきりさせたくてウズウズしている。
歩を進めると、カーブした道の先から、中折れ帽を被った花柄シャツの男が現れた。五十メートルほど先にいるのに、オフホワイトの中折れ帽には黒いリボンが巻かれていて、ツバの陰から男の血走った三白眼がこちらを睨んだ気がした。
次の瞬間、男の前方に浮かんだフィギュールが魔界の豹のようにアスファルトを蹴り二秒ほどで目の前に到達する。
左から鋼鉄も砕くハンマーのような拳が現われアンリは左手でガードしながら右へ逃れる。理科室の人体模型が結晶化したようなフィギュール目がけてアンリは至近距離から結晶の弾丸を連射し、カカカと密やかな音を発した直後にガシャンと粉々に砕けた。
勝てる。
戦闘態勢に入るとほとんど無意識にフィギュールをコントロールできる。
だが、アンリの腕で敵の攻撃を受けた影響で、俺の腕まで痺れている。やはり多勢が相手の場合は、不利になることもあり得ると思った。
「アンリ、この先に敵はもういないの?」
俺は背後の眼鏡を振り返りながら前進する。
「もう一体います。背後の敵は攻撃してこないので前進するほうが得策です」
「参考までに。二体とも相手にせず逃げるのは?」
もう一度背後の眼鏡を見る。
「地形的に難しいです。背後から逃げ切れる可能性もゼロではありませんが、結界を張っていなければの話です。フィギュールが複数で敵を追い詰める場合、大抵結界を張ります。結界は敵を倒さなければ解除されません」
「じゃあ進もう」
サクッと敵を倒して真砂さんに連絡しよう。出がけにするつもりだったが、敵の襲撃とおはぎのことで頭がいっぱいだった。
ふいに昨日までの日常が他人の人生のようだと思った。
自分の欲望を偽り、演じてばかりの人生。
みんなが不幸な嘘を信じあう世界。
生ぬるい牢獄。
この瞬間、俺は腐った日常からはるか遠くにいた。
昨日までの不全感をすべて指先に溜め込むように、エネルギーを集中させる。それは爆発的に増幅していく。
「ふーん」
中折れ帽の男がいた地点からさらに十メートルほど先、托鉢僧のような恰好をした男が現れた。
すると托鉢僧の足元から緑柱石の群晶が生えてきて、猛スピードで地面を這いながら流れてくる。結晶の急流だ。群晶から、同じエメラルド色ののっぺりとしたフィギュールが顔を出し、サーファーのように急流に身を屈めて立つ。膨張するエメラルドの洪水は路上の自動車や植木を飲み込み、道路標識をなぎ倒しながら加速する。金属的なガリガリという音が一帯に響き渡る。
背後の眼鏡の横をすり抜けて回避できないか?
だが橋を渡ろうとすると、見えない壁があるかのように身体が押し返された。
なるほど、これが結界ね。逃げるのは諦めた。
俺は振り返る。
アンリは襲いかかってくるエメラルドの洪水を目前まで引きつけ、左手で右腕を支えながら、指先に溜まっていたエネルギーを一気に放出した。
巨大な溶岩の塊のように煮えたぎるストロベリー水晶が敵のフィギュールごと群晶を逆流させて粉々に破壊し尽くす。その勢いは止むことなく、托鉢僧の肉体を遠くまで吹っ飛ばした。
「二体目も余裕」
道路は凸凹に抉れ、あちこちに割れた植木鉢や土が散乱し、傷だらけで横倒しになった車、ひしゃげた道路標識や川沿いの鉄柵が、結晶の急流の威力を物語っていた。そしてそれを押し返したアンリの攻撃の威力も。
背後の眼鏡を一瞥してから先を急いだ。
危険を察知したのか、深追いはしてこない。
倒した二人の男と、そのフィギュールは、欠片も残さずに消えていた。
「アンリ、敵のフィギュール使いは、この世界の人間じゃないの?」
「その通りです。厳密に言えば彼らはフィギュールにペアリングされたゴーストです。上位世界からこの世界へ、実体としての人間を派遣することはできません」
「そっか、安心したよ」
世界の命運がかかっているとはいえ、殺人には抵抗があった。
いや、正直倒した二人に対して罪悪感など感じていなかった。
現在の俺は頭のネジが飛んだみたいに気分が高揚しているし、敵は単なる障害物でしかなかった。何か麻痺している。
気がかりだったのは、日常に戻ってからのことだ。
ヴェトナム戦争の帰還兵が深刻な心的外傷後ストレス障害に見舞われ、アメリカ社会への復帰に困難をきたした、というよく知られた挿話。彼らは殺したことによって病んだ。倒したフィギュールの使い手が人間なら、俺は立派な人殺しだ。日常世界のモラルが俺を苦しめるだろう。
「うん、殺してなくてよかった」
自分に言い聞かせるように頷く。
「真砂さんに連絡したい。呼び出せる?」
「了解しました」
アンリは俺の額に手を翳した。
手の内部がぼんやりと光る。
とくに何も感じなかったが、どうやらこれで真砂さんのフィギュールにつながるようだ。
これだけ激しい戦闘の最中も人っ子一人出会うことなく、辺りはしんとしていた。
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