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美しいバラ

私はバラをカメラで撮影した。

その映像は美しかった。

でも、

バラが美しいのではない。

私が撮影したから美しいのでもない。

私が撮影したその時に、カメラに写ったそのバラを、私が美しいと思っただけだ。

次の日に、同じ 私が、同じカメラで、同じバラを撮影してもバラは美しくなかった。

これに関しては どうしようもない。

その時のことだったに過ぎない。


一期一会が身に沁みる。


人間は言葉によって、「同じ」としてとらえる。

私も、

カメラも、

バラも、

それぞれにおいて同じだと思い込んでいるから、

一度バラが美しいとなれば、

もうバラは美しいとなる。


人間は、変化して流転するものを「同じ」という言葉で固定化してしまうのだ。

養老孟司さんの主張だ。

東浩紀さんは「訂正する力」という本を最近出した。

養老孟司さんの主張を繋いでいる。

同じものが同じでないと分かれば、訂正する勇気を持とう。

それを許容する文化が必要だと。

養老孟司さんの指摘が真実であれば、次の一手を打たざるを得ない。

東浩紀さんは

日々酒を飲み、絶望し、文句をいうけれど、結局のところ、仕事してるなあ。

酔拳のごとく。

尊敬します。

再現性による科学的証明が真実を生み出すというロマンが、皮肉にも天動説へのロマンと変わらない。

「絶対」としか言葉が矛盾なく運用できないことに引きずられ、そう言いたいが為に、科学的証明がロマン化しているのだ。

再現しない相対的な科学的証明には誰も興奮しない。

しかし、これこそ科学だと思う。

全ては複雑であり、「同じ化」されていた物事に科学のメスを入れて相対化していく。

あまりの複雑さに驚異し、畏怖の念を持つ。

科学を信仰するのと、信仰のための科学はまるで違う。

疑念の最果てに、

徹底した分析の後に、

信仰がある。

そうせざるを得ないもの。

絶対に向う科学が、相対に向う科学になれば、再びコペルニクス的転回が起きるのではないか?

死ぬ運命にある人間が、
神の言葉を盗んでは、
死を恐れるあまり、
己の永遠を唱えてロマン化したいがため、
絶対という言葉のクセに引きずられる。

絶対に憧れ、
絶対を欲しがり、
絶対のフリをしたがる科学。
そんな科学は「懐疑の炎」に焼かれてしまえ。


「バラは美しい」というのはロマンチックなのか?

そのロマンには深い闇がある。 


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