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渋谷を染めいる若きアバンギャルド

ある縁があって、渋谷のとあるスペースで行われていたナカミツキさんの個展にお邪魔した。

華奢な感じのごく普通の女性で、イメージとは真逆の情熱的な絵画作品に圧倒された。

私の普段の生息場所は上野、秋葉原、神田で結ぶおじさん専用トライアングル地帯である。それに対して渋谷の人の多さ、道行く人の個性の強さ、みんな格好よく、可愛いという感じは異次元の世界に見える。我がトライアングル地帯にある秋葉原も個性的だが、渋谷は真っ向勝負という感じで息苦しささえ感じた。とにかく圧が強い。その点、秋葉原は外向きと言うより内向きの圧力というべきか?
そんな圧力高めの渋谷に彼女は自分の色を押し出そうとしている。

彼女の絵のテーマは音楽とデジタル出力にある。

現在、日本中を覆うデジタル合理化の波の中で個人はナンバリングされパーツ化され押しつぶされそうである。現在から将来に至るまで勝手に評価され決められ、整理されてしまう。

芸術がアバンギャルド化したのは19世紀後半のヨーロッパで、産業革命による大きな社会構造の変化による閉塞感が原因らしい。この大変革の背景には書籍の大量印刷により、全員が同じ概念を共有できるようになったことがあると思う。現代のデジタルDX化によるシステム化前の、書籍の大量印刷による最初のシステム化だ。大量印刷できる書籍があったからイデオロギーで集団化したり、難しい工業技術がヨーロッパ世界一律で共有できたのだ。この時点で大きなシステム化が社会を覆っていたのだ。人間を人間として扱わない工業的なシステム化は人間から感情を奪う。しかし、そういう時代であっても古典芸術は伝統の中で内向きに引き篭もっていた。しかし、アバンギャルド芸術は真っ向からシステム化に反抗し、従来の芸術にも反抗し、反芸術の芸術として人間に再び情熱をもたらそうとした。新しい芸術にも大きな役回りがあったのだ。大量印刷は社会構造を大きく変えもしたが、同時に大量の印刷物はシステム化に苦しむ多くの庶民にアバンギャルド芸術を安価に届けることもできた。

そして現代である。書籍の大量印刷どころではない。デジタル合理化の大洪水時代である。個人はとっくに窒息し、将来なんてさっさと投げ捨てた状況だ。そんな中、古典芸術に倣って絵筆を掴んでる場合じゃない。彼女は当然のごとくデジタルデバイスを掴んで反逆したのだ。彼女には伝統的な芸術のルールもルーツもない。かつての大量印刷によるシステム化に対抗してアバンギャルドアートを大量印刷して大衆に届けたように、合理化の原因であるデジタルデバイスを使って逆に感情を爆発させるアートを展開させた。それは彼女自身の病弱で鬱屈とした幼少期にも関係しているそうだ。引き籠もる彼女自身の手に届くものは、デジタルデバイスであるスマホしかなかった。今回の反逆は誰でも反逆できることを示すことだ。

渋谷の街角には時々彼女のアートが染み出してくる。マツキヨ薬局の壁、東急ストアの壁、渋谷ストリームの通路、街角のワークショップ。
渋谷の圧力にもデジタルの合理化にも負けない彼女の活動の軌跡をネットで追って欲しい。彼女は渋谷のビジネス企業とたった一人で交渉して自分の色を押し出したのだ。彼女の個展の作品はそんな活動の記念碑である。彼女に続いていろんなアーティストが渋谷の都市空間を変えていけば良いと思った。
なぜならば、彼女は普通のお嬢さんなのだ。だからこそ誰にでも可能性があることを彼女は証明しているのだ。彼女の後に続くアーティストが増えていけば渋谷の色は全く違う色となり、世界に輝くだろう。デジタルにも資本主義にも負けない人間の時代が来る。

我々を追い込んだ憎むべきデジタルデバイスを使いこなす、楽器の弾けない作曲家、絵の描けない芸術家が渋谷の街を闊歩しているのではないだろうか。


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