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聞こえなくても

ただ一曲好きな音楽が、いつまでも聴いていたい音楽がたった一曲あるだけで昼間がどんなに死人であろうともこの夜だけは無敵と思う。
昨日と同じ、おそらく明日も明後日も同じ、この部屋はいつまでも6畳から広がることはないがわたしに見える世界は音楽ひとつで変わる。海にも行ける、風が吹く、秋に差し掛かる1ミリ手前の、さみしさを滲ませた風が涙を冷やして髪がぶつかる。もちろん想像上の涙が。だけど実体以上の涙があふれて霧散するならわたしはどこにだって行けるだろう。涙は概念であろうがわたしから生まれたもの、わたしの目を伝うものならわたしの一部であろう。聞こえないメロディーは鳴り響いて、こんな夜はわたしの体など空洞でいい。ただ音を鳴らす器であれば、音で満ちる空洞であれば。

こんなにも音が満ちる体を持つ夜は無敵だ。誰の声も聞こえない夜に。たったひとりでも無敵と思える多幸感の最果てに。
あなたのためにあしらわれたわたしの孤独を存分に使って、体の中で鳴り響く優しさよ。孤独というならそれもいい、それでも最高の夜だ。彼女以外の音楽など聞こえないこの空間など最高だ。6畳の奇跡は部屋からもたらされることはなくとも最高だ。

今思いを、構想を組み立てているひとりの女性をめぐる小説は、もしもこれが何から何までわたしの思う通りに書けたなら、おそらくわたし史上最高に「わたしが気にいる」作品となるだろう。その確信を少しでも、一日でも長く生きながらえさせるには音楽が必要だ。音楽。酔いが巡り切って正気が戻ってくる前にわたしの概念、支えて欲しい。

あなたの音楽があるならわたしもペンを握ろうと思う。あなたがまだ生きて、心削って差し出してくれるものがあるなら呼応する衝動に手を伸ばそう。

かかってきなよ、いくらでも昼間のわたしをディスりなよ、口に出さずにはいられない卑しい嫌味、誰の耳にも届かないさ。静かに全力で否定しよう、かかってきなよ、その小さな、卑屈な心でかかってきなよ。屈するものか、わたしは無敵。音楽が、この部屋に響く音楽が守ってくれる。
聞こえないメロディーが守ってくれる。世界いっぱいに広げても、どれだけ鳴らしても、聞こえないメロディーが。きっとお前が一生をかけてもこの先巡り合わないであろう聞こえないメロディーに、卑しいお前が負ける日をただただ楽しみにしているよ。

#鬼束ちひろ #chihiroonitsuka #ヒナギク #ラストメロディー

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