【けものフレンズ2】第6話感想。演出において「他者へのリスペクトが足りないのでは?」という懸念

あと数時間で7話が始まりそうではありますが、6話が衝撃的だったので現状の整理を兼ねてnoteに感想を書こうと思います。正直いいますとこのエピソードは他でもいろいろ語られている通りかなり衝撃的な内容で、率直にいいますと違和感を感じた点が多々ありました。なお今回のnoteは、前回のnoteの考察の流れを引き継いだ形で書いております。(ケムリクサの話ですがけものフレンズの話もしています↓)

加えて以下の監督と脚本インタビューも参考にしております。

違和感その1:キュルルちゃんの行動がチグハグ

今回は前回エンディングでかばんちゃんが登場してそこを焦点として展開しておりますが、問題なのはそこよりも、5話までに築いてきたキュルルちゃんの行動・性格の積み上げが急におろそかになっている点だと感じました。

まず一番大きいのは
・人(かばん)に出会ったのに人についての質問や家の場所について相談をしない点
は致命的に雑ではないでしょうか。この子は一体何をしにここまで来たのでしょうか?家に戻るためでしょう。なのに、最初から最後の別れ際までも詳しく情報を聞かずに当てずっぽうで旅立ってしまうのは、『人』としてあんまりではないでしょうか。

・ラッキービースト(ジャングル)をバッテリーが切れたからと言って物のようにおいていく。
第4話の冒頭でモノレールのラッキーさんにわざわざサーバルたちを呼び止めてまでキュルルちゃんはお礼を言っていたので物のようにおいていってしまうのは今までの行動から理解できない点です。

・ゴリラ達のことを今後を気にかけずに終わる。
キュルルちゃんの大きな特徴として思い出を大事にしているという点があり、今までは書いた絵にフレンズの絵を加筆してプレゼントするなどそこが彼(彼女)の素晴らしい美点であるとともにけものフレンズ2期の1期とは違う大きなテーマだと思います。しかし、今回のエピソードでは冒頭にトントン相撲のおもちゃをビーストにふっ飛ばされた以降に逃げたゴリラ達の問題を解決せずに次のエリアに去っていこうとしています。いままでのキュルルちゃんならゴリラたちを心配してもう一度しっかりトントン相撲をプレゼントして仲直りを確認したり、安全な場所を確保できているシーン(例えば第1話でカルガモが無事たったシーンのように)を挿入してこなければなりません。つまり、せっかく5話までに築いてきたキュルルちゃんの『信用』を失いかねない展開だと感じました。

総じてかばんちゃんと現状のジャパリパークの謎部分にフォーカスを当てすぎたために、ぶれてはいけない主人公の行動原理がバラバラになっていると感じました。

違和感その2:演出が総じて『グロテスク』

グーグルの辞書によるとグロテスクの意味は以下のようになります。

グロテスク「グロテスク」の辞書の結果
《名・ダナ》気味が悪く、あくどい感じの様子。奇怪。異様。グロ

ここで特に今回感じたのは「あくどい感じの様子」という部分。象徴的なシーンとしてやはりかばんちゃんがラッキービーストを引き出しに雑にしまっていることは非常にグロテスクに感じました。正直1期の最終回まで見た人にはショックだったのではないでしょうか。少なくとも私は驚きました。これは意図的に入れなければ必要ないシーンなので作り手側にはそれなりの意味があるのだと考えられます。おそらくですが、1期エンディングのその後の展開として、かばんちゃんは『人』に会えたかもしれないが、ジャパリパークの朽ちていく現状に手をうたない『人』に失望を抱き、ジャパリパークに戻ってきているのが現在という設定なのではないでしょうか。その前のセリフでジャパリバスのメンテの必要性をラッキーさんに指摘されたとき、やや苛立った感じで受け答えしていたのも、そういった現状を改善できない苛立ちやパーク自体が『人』に見放されている現状を『人』の奉仕者であるラッキービーストに八つ当たりしているようにもみえます。前述の引き出しのシーンもかばんちゃんの長い苦闘の歴史を伝える演出として、ある程度の意図は理解できます。また今回のけものフレンズ2は前回の私のnoteで記載した、けものフレンズ1期の『視聴者のフレンズ化』(ある種の視聴者を幼児化させることによりキャラクターと自然物を境界を曖昧にして人とキャラクターの関係に新鮮さを取り戻す)という手法を禁じ手にしているので、そういったきびしい現実を物語に入れてくることも一定の理解できます。しかし!しかしですよ!今回のラッキーさんの扱いは1期で『フレンズ化』(心を無防備な状態)にしている視聴者に対して、全力で殴りつけるかのようなやり方は品性を疑う仕打ちだというのが私の意見です。少なくとも、引き出しのラッキーさんたちは綺麗にケースにいれられて慈しみをもって保管されているべきでした。それをしないというところに『あくどい感じ』すなわちグロテスクさを感じてしまいます。そもそも『けものフレンズ』は全体がやさしさに守られている状態でなければ、ただの幼稚な筋書きになってしまうという大前提があり、上記で記載したようなストーリーの都合でその前提を手放すのはあまりにも代償が大きいと感じます。

違和感その3:けものフレンズ2のテーマ「人間にとって家とは何なのか」を伝える態度の問題

冒頭に上げた木村監督と脚本のますもと氏のインタビューで今回のテーマが以下のように語られています。

(質問1に付随して)前作では「ヒトとは何か?」というテーマが内包されていましたが、それと同じ、または近い、もしくは発展したテーマが描かれますか? またそれはどんなものでしょうか?
木村監督
「ヒトとは何か?」というのは引き続きですが、『2』は「人間にとって家とは何なのか」を、様々なフレンズとの対話を通して描ければと思っています。
ますもと
今回は動物とのかかわりを含めたヒトが持つ社会性もテーマになると思います。キュルルはいわゆる「ホモ・ルーデンス」(※)でもありつつ、その遊びによっておうちの外で他者との関わりを学んでいきます。
また、ヒトの社会については広い目で見ると作品の中だけでなく『けものフレンズ』そのものをとりまく状況こそ、それをよく表していると思います。これは前作からの「ヒトとは何か?」というテーマにも合っていると思います。
(引用元)https://animeanime.jp/article/2019/02/19/43518.html

以上を踏まえて今後のストーリーを予測すると、
虎のビーストは、まず第1話の最後に助けてくれたシルエットのキャラであり、今回もキュルルちゃんに反応しているところから、キュルルちゃんのコールドスリープ前にかっていた動物のペットあるいはそれに類する交流のあったけものが、後にビースト化したものと考えられます。おそらく破られたスケッチブックなどもそれらに関係しており、人間にとっての家を構成する要素としての『家族』の存在に相当するものと考えられます。(お父さん、お母さんを出すには世界観的に現実的すぎるので)。よってこの『家族』を取り戻すというのが1つのストーリーの道筋と考えられ、それらの関係性の比喩として『家』というものが使われていると考えられます。また今回は『フレンズ化』で視聴者を幼稚化させる手法ではなく、昔大切だったものを思い出すという(ある意味で心の旅に出て絆を取り戻す)ことによって大人のままでもフレンズ(=キャラクター)と特別な関係を結び直すことができるという主張がテーマにあると考えられます。「キュルルちゃん~ビースト」の関係は「かばんちゃん~サーバル」の関係でもあるので、2つの同じ問題の解決に向けていくことが物語の流れと考えられます。前作と大きく違うのは『人』と『キャラクター』がそれぞれ過去を持った存在であることで、過去を持ったまま絆を取り戻すことが重要と考えているのだと思います。そのプロットであれば、ひょっとすると今後の展開で、かばんちゃんが再登場し(ベタにいえば♪ようこそジャパリパーク♪の楽曲とともに)サーバルを助けにくるというような演出も十分考えられると思います。予想があっているかは適当ですが、私としてはそのようなテーマやプロットであったそしてもそれ自体は否定することはありません。ただ私が強く懸念するのは、人と人とが社会性を築くことを肯定的に描くのであれば『お互いのリスペクト』があることが前提であるにもかかわらず、その前提が今回の不穏な演出によって成り立たなくなることが大きな問題だと考えています。
私は前回のnoteでけものフレンズ2のテーマを「フレンズ同士でも”なわばり”が重なったとしたら、それでもフレンズはみな仲良くいれるのか」と考えていると記載しました。その考えはあながち的外れでもなく、ますもと氏がいう『遊びによっておうちの外で他者との関わりを学んでいく』ということと重なる点があるかと思います。ただしどうも作り手側に作品外のいざこざを投影して素直な制作態度ができていないように感じます。
上記の引用部を再掲しますと、ますもと氏は

今回は動物とのかかわりを含めたヒトが持つ社会性もテーマになると思います。キュルルはいわゆる「ホモ・ルーデンス」(※)でもありつつ、その遊びによっておうちの外で他者との関わりを学んでいきます。また、ヒトの社会については広い目で見ると作品の中だけでなく『けものフレンズ』そのものをとりまく状況こそ、それをよく表していると思います。

といっています。
制作会社が変わって1期ファンに支持されていない中スタートした今の状況を指しているように受け取れる発言ですが、その自覚があるのであれば、今回のグロテスクで雑な演出は『人を遊びに誘うようなやり方』とはあまりうまくないと感じます。そういうときこそ他者や作品の本質に対してリスペクトをもつ必要があるのではないでしょうか。

以上、私はいろいろと文句をいいましたが、まだこの作品が良くなる余地があると信じていますので、本当にがんばってほしいです。

おまけ:かばんちゃんの家の壁について

余談ですが、かばんちゃんの家の塀がかなり高い点も気になりました。『人の家』は社会空間とパーソナル空間を仕切る境界線を意味するものなので、その壁が高いことがかばんちゃんの内向きな心理状況を示していると思うと非常につらいです。果たしてかばんちゃんはこの家から出ていくのかという点も今後の注目点かと思います。6話のエンディングではかばんちゃんが若者たちを見送る大人として「この場所を守っていくわ」みたいな見せ方をしていますが、私としてはこの家に留まっても幸せは見えないので出ていく展開を期待したいです。

かなり雑になってしまいましたが今書きたいことは以上です。

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