匿名性

ツイッターを長いことやってると仕様変更にも何回も立ち会うものだけど、最近「クソッタレ」と思うことがある。それは「鍵引用リツイート」の文化である。通称鍵RTと言われることもある。
別にこれは昨日今日の話じゃないとは思うけど、俺がツイッターを始めたころ(2015年頃だったかな?)はそんな文化あんまりなかった気がする。批判はちゃんとリプライや、公開垢での引用RTでやってきていたように思う。

ヲタク界隈では絵師さんの尊い漫画を鍵垢で感想付きの引用リツイートする、とかいうこともあるだろうし俺も実際したけど、それ以外ではだいたい文句や悪口、相手を怖がらせる目的でやっているに違いない。
なんせ、ツイートのとこに「●件の引用リツイート」と出るけど、それが鍵垢だと見れないんだから怖いと思う人は多いはず。かくいう俺も最近よくきてて、怖いよりも「文句があるなら堂々とアホヅラ下げて来んかい」という心境になってきたところ。
なんか脅し口調のようになったが、文句や悪口も誤解からくることは大いにあるので、話し合えばそれも解消できるかも、というわりと博愛主義な気持ちもあったりなかったり。

インターネット黎明期(人によって指す時代が違うかもしれないが、まだ5chが2ちゃんねるという名前だったぐらいの時期)なんかは、日夜恐ろしいレスバが繰り広げられていたもんだが、匿名性というのは最低限だったように思う。IDで誰がしゃべっているのかわかったものだし、スレッドでの口論は当然相手に見えるところでやるしかないので誰と誰がどんなことで言い合っているのかは住民には丸見えだったはず。
特定とか凸とかのリスクはあったろうが、それでも正々堂々の言い争いというのは見てて気持ちの悪いことばかりではない。

昔クソガキどもに(あえてこう表記する。あれは歳こそ子供だがもう矯正される見込みのないアホな子供だったので。)生配信バトルを仕掛けられたこともあったが、それだって一応ユーザーネームは公開してやっているんだし、それはこちらも同じで(こちらは肉声も公開したが別にそんな価値はないでしょう)、実態はそこに見えながらバトルしていた。

それが今や、相手に絶対見えないところから攻撃する文化が根付いていてなんかヤダなぁ、と思うのだ。盗撮して晒すのも一緒で、目の前に行ってギャハハと笑い物にする勇気はないのにこっそり盗撮してインターネッツの海に晒すのはいかがなものかと。
文句があるなら捨て垢や鍵垢引用じゃなくおもて切ってちゃんと言いにきやがれ、それができないならチラシの裏にでも文句を書いてろ!というのが俺の持論ね。茶の間でぼやくのと鍵垢引用は似て非なるものだぞ。

とはいえ、明らかにピキってしまうと相手の思う壺でもっと引用されるだけなのでおとなしくしているけど、そのかわりに「内容予想大会」をひとりで開催している。
大会といっても簡単な話で、見えない引用にいったいどんなコメントがついているのか予想する遊び。当然正解が発表されることはないが、内容が予想しにくいものほどオッズを吊り上げてひとりでむふふとしているだけのなんとも生産性のない遊びである。
それでも気が済まず腹が立つときは、しょうもない呪いを見えない相手にかけるイメージをする。例えば、冷蔵庫が絶対半ドアになるとか、目的地までもうちょっとなのにガソリンを入れないといけない目にあうとか、トイレに入ったらケツがふけないぐらいのトイレットペーパーしか残ってないとか、日常のイラっとすることが頻繁に起きますようにという呪いをかけておく。