幽谷の鬼女

 明治二十五年に出版された『近世実録奇話叢』という本がある。編者は笠原保久、名古屋の人である。
 この本の特色は、日本だけでなく海外の奇話奇談を収集していることだろうか。動物に襲われた話から不思議な生き物の話から、遠泳の記録を作った女性の話から、とにかく編者の目にとまったありとあらゆる奇話が取り上げられている。長短合わせて七十四編に付録一編、合計七十五編が収録されている。
 そのうち外国の奇話奇談は、正直言ってあまりおもしろくはないのだが、国内の話は昔ながらの怪談のようなものもあり、一方でいかにも明治のものらしい話もあり、バラエティ豊かと言っていいだろう。
 同書から、特に勝れているわけではないけれども気に入っている話を取り上げ、私流にアレンジしてご紹介する。気に入っていただけると嬉しい。

 肥前国西松浦郡大川原村に、岩太郎という深山があるそうだ。その周囲は、数里にわたって鬱蒼たる森林が広がっており、村人でも滅多に分け入ることは、ない。「せいぜい、樵夫が入る程度であった」と原書にはある。
 肥前国はいまの佐賀県である。西松浦郡という地名は今も残っているが、大川原村は江戸時代には唐津藩の領地だったが、明治二十二年に周辺の村落と合併して南波多村となり、戦後になって昭和二十九年に伊万里市が誕生した際に、組み込まれた。
 岩太郎という山の名前は、現在では残っていない。地理から考えるに、大野岳かとも思われる。伊万里市南波多町の西側にある、標高四二四メートルの山で、現在でこそ頂上まで車で登ることができるが、幕末明治の時代には深い森に囲まれていたに違いない。

 さて、明治十五年の春の頃より、ある噂が村で囁かれるようになった。
「岩太郎に、鬼女が棲むそうな」
「分け入る者を襲うそうな」
「帰って来なかったものも、いるそうな」
 もちろん、詳しいことなどは分らない。ただの噂である。だが、真相が深い山の奥にあることだけに、誰も確かめる者が出て来ない。噂だけが先走る。そうこうする間に、大川原村だけでなく周辺の村々にも噂は広がって、ついにはそれまで森に入っていた樵夫でさえ、恐れて入らなくなってしまった。
 どこの土地でも、若者は怖れ知らずである。他人が怖がれば怖がるほど、「そんなもののどこが怖い」と言いたがる者が、必ず、居る。
 大川原村にも居た。三人も居た。
「鬼女だとよ」と彼らは嗤った。「ご一新の御世に、鬼女ということは、あるまいよ」
 そんなことを、土地の訛丸出しで話した。
 話しているうちは、良かった。内々で気勢をあげ、悦に入っていれば、実害はない。自尊心も傷つかない。だがこういう時、往々にして行き過ぎてしまう者が、出るのである。
 この時も、いちばん若い男が、兄貴として尊敬している年長の者に「何とかしてやりたいっスよね」と、うっかり言ってしまった。たぶん、恋仲の少女の家が樵夫で、上がったりになっているのを気にしていたとか何とかであったに違いない。
 そう言われてしまえば、年長の男としてはこう返さざるを得ないではないか。
「ここはひとつ、わしらでその鬼女とやらを捕まえてやろうじゃないか」
 もちろんこんな言葉遣いでないことは、私も充分承知している。いはするけれどもしかし、いかんせん肥前の方言はまったく知らない。知らない者は書けないので、ここは勘弁していただきたい。
 こんな時、中間の年齢の男が「まあまあ待て」と諌めるのが常であるのだが、年少は何しろ恋仲の家を助けていいところを見せたいという思いがあるものだから、中間が口を挟む前に「行きましょう! やりましょう!」と、さっさと盛り上がってしまった。
 年長と中間は、思わず顔を見合わせたに違いない。しまったという表情と、だから困るのだという渋面とが交錯したが、ここで「いや戯れ言だ」と逃げようとしても年少は言うことを聞くまい。そもそもそういうみっともない真似は、したくない。若者は虚勢に生きるのである。なので「よし行こう」ということになった。
 ここで一晩おけば良かったのだが、思い立ったが吉日とばかり、鎌だの鍬だの棒だのを家から取って来て、そのまま山へ向ってしまった。人はしばしばこういう無計画をやるから、そこに悲劇が生まれるのである。

 思い思いの得物を持って山に入った三人は「ここか、あちらか」と、鬼女を探して山の中を歩き回ったが、いくら歩いても歩いても、怪しい気配は微塵も無く。ついに、拍子抜けした三人は「噂を本気にして、騙された」とぶつぶつ言い合った。
 あちらこちらを探しまわったとは言うものの、三人とも樵夫ではない。道にはまるで慣れていない。だいいち、道といっても樵夫が通う筋くらいなもので、獣道と違いはしない。その上に、鬱蒼とした森の中である。日の光もあまり届かない暗さである。そういう中を、血気だけは盛んな三人が盲滅法歩くのである。おそらくは道に迷って疲れ果てただけだったのではないか。そうやって、どうにか戻る道に辿り着いたところで、ひと息ついて休憩したものと、筆者は勝手に推測するのである。
 そうこうしているうちに、陽は傾く。ぐずぐずしていると村に戻るまでに日が暮れてしまう。
 どうしたものか、と三人は腰を下ろして顔を見合わせた。山腹の少し開けた場所で、少し先には深い谷も眺められる。
 心地よい風が吹いている。

「しょうがないな、今日はこの辺で勘弁してやるか」と年長が言う。
「えー、もう少し探しましょうよ」と不満そうな年少であるが、中間が止める。
「ばか、慣れない山の中で日が暮れたら、それこそ帰れなくなるぞ。鬼女どころか、狼が出るぞ」
 三人とも、鬼女などより狼の方がよほど怖いのである。鬼女は噂だけだが、狼は実物を見ている。あれに襲われたら生きては帰れないと分っている。もっとも狼は滅多に人を襲ったりしないのだが、そんな理を説かれても怖いものは怖いのである。
 そこで帰ることにした。まあ道にも迷ったし、ちょっとした冒険を達成した気分も味わうことができた。ここで帰っても問題はあるまい。
「しかし、噂なんてものは、あてにならんな」
「まったくだ。一日を棒に振ってしまった」
 そんなことを話ながら、さてと腰を持ち上げた、その時である。
 一陣の風が吹き、森の木々の枝が一斉にざわっと音を立てた。少々陳腐な表現だが、原文にそう書いてあるのだから仕方がない。
 三人は、はっと顔を見合わせた。
 次の瞬間、谷の方から奇怪な声が響いた。
 この時点で、おそらく三人ともパニックになっていたのではないか。すっかり紙のような色の顔を、いっせいに声の方へ向けた。
 森の向こうから、恐ろしい勢いでぐんぐん近づいて来る人影が、はっきり見えた。
 女である。
 歳の頃は二十五、六の女が、今にも崩れそうな襤褸をまとい、長い髪を振り乱しながら、走って来る。飛ぶような勢いで走って来る。
 背が高くやせこけ、顔色は蒼く、それでいてその眼は耿耿と星の如く輝き、ぬらぬらと紅い唇は耳元まで裂けとばかりに大きく開き、白い牙を剥き出して、奇怪な叫びを放っている。
 人の声とも思われぬ。
 獣の声とも思われぬ。
 ただ、叫びである。
 聴くものすべての脳髄を貫くような叫びである。
 その叫びが、耿耿たる眼が、紅い口と白い牙が、髪を振り乱し長い手足を異常な速さで繰り出しながら、駆けて来るのである。
 三人は動けない。魅入られたように、ただ、動けない。怖いなどとさえ、感じてはいない。ただ麻痺しているのである。錯乱しているのである。
 はっ、と気が付いた時には、鬼女は三人につかみかかっていた。
 研ぎすまされた鎌のように、指が伸びて彼らの喉に襲いかかった。
 それを避けられたのは、彼らの手柄では、よもや、無い。
 鬼女が一瞬目測を誤っただけのことである。
 だが、繰り出された腕の風を頬に感じて、年少が我に返った。
 何が何だか分らない。分らないけれども、肉体は俊敏に反応した。
 鬼女に負けず劣らず大きな叫びを上げるや、一目散に走り出したのである。
 残る二人も、一気に走り出した。
 鬼女の息づかいを首筋に感じ、尖った爪に膚をむしられ、えも言われぬ臭気に息を詰まらせながら、三人はひたすら走った。手に持った得物を振り回し、あがきながら、飛ぶように走って、走って、走り抜いた。鬼女が乗り移ったかのように大きく口を開き、奇怪な叫びを上げ、ただ無我夢中で地を蹴り枝を払って、山を駆けおりていった。

 三人は無事、村に帰還した。
 あれだけの無茶な走りをした後である。全身傷だらけ、疲労困憊は言うまでもない。村に入った瞬間、見慣れた村人のびっくりした顔に出会った瞬間、三人はその場に倒れるように崩れてしまった。
「どうしたんだ、お前ら?」
 そう村人が尋ねたけれども、もとより返事などできるものではない。
 ただ震えながら、力つきて倒れ臥すのみなのだった。
 それから三人とも何日も寝込んでしまったという。
 このことがあってから、人々はいよいよ鬼女を怖れた。
「今日に至っては誰あって入る者なき」と、編者は書いている。
 今日、というのは明治二十五年のことである。今では鬼女も土に還っていることだろう。それどころか、怖い目にあった三人の若者も、まず間違いなく揃って墓の中である。恋仲の少女ももちろん墓の中である。

 柳田国男の『山の生活』を繙くまでもなく、ふつうの女性がいきなり錯乱し山に入って、鬼女になってしまうことは、珍しいことではなかったようだ。柳田は「山に走り込んだという里の女が、しばしが産後の発狂であった」としている。この話の鬼女も、もしや産後に心を病んだのかも知れない。また、明治十五年はまだまだ大きな時代の転換期であり、人々には不安が残っていたから、そういうことも影響したのかもしれない。今となっては、すべてはフォークロアである。

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