溝口健二「武蔵野夫人」

良くなかった。物語の展開に必要な出来事以外全て省かれていて、なんの叙情性も残ってなかった。勉がカメラで集合写真を撮って、その写真のなかの自分の姿を見た道子が、もう自分は若くない、と思うみたいなシーンがどう映像化されるんだろうと思って楽しみにしてたら、全てカットされていて悲しかった。最後の武蔵野の郊外化された風景はよかったけど、それだけだった。脚本が福田恆存で、たぶんそれが良くなかったんだと思う。大岡昇平は「野火」の延々続く山歩きの描写とか、かなり風景で語らせる人だと思っていて、冷静な視線の中にもそういういわゆる理性的な理解じゃなくて、解釈以前みたいな部分が残ってるのが良さだと思うけれど、映画では武蔵野の風景が単なる日本の戦前/戦後の象徴みたいな記号として、あるいは単なるメロドラマの舞台装置としてしか機能してなくて、すごく説明的でつまらなかった。

それから、道子が小説では30前後の、若さと老いの間で揺れる、ある純粋さを保とうとする真面目で不器用な女性みたいな設定のはずなのに、映画だと単なる保守的なおばさんで、これもかなり良くなかった。勉も、戦争を経験したことで、ある部分においてかなりドライというか、冷酷な部分を持ってしまった青年みたいな設定だったはずなのに、映画だと道子が好きなだけのまっすぐな青年みたいになってて、戦争から帰ってきたっていう設定が全く生きてなかった。とにかく全ての人物描写に揺れみたいなものが一切なかった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?