見出し画像

酔い覚ましの散文

久しぶりにウィスキーを買えるだけの金を手にして
ウキウキでコンビニに行って帰ったばかりの、
そのテンションのまま書こうと思う。

僕は最近よくえづく。
朝、咳みたいなうめきと共に
「うぇっ」と吐く一歩手前まで行くことが
今までよくあった。
しかし最近は朝を過ぎてもよくえづく。
自分の失言で人を傷つけたんじゃないかと心配な時、
自業自得の大きなデメリットをこうむった時、
日暮里の常磐線の階段で
えげつない捻挫をした時もなぜか出た。
どういうメカニズムなのかはわからない。

先月友達とご飯を食べに行って、
そこでふとした自分の失態を詰められた時、
そこでもえづいた。
今までと違ったのは、
どれだけ呼吸を整えても止まらなかったことだ。
思わずトイレに駆け込み、便器に顔を埋めた。
友達からの軽いお叱りを受けている時の
味のしなかったカツ丼に
サービスでついてきた
味噌汁のわかめがトイレの水に浮かぶ。
あの時のわかめはあの時の自分だったんだと思う。

わかめが浮かんだのを見ていたら
友達が用を足しにやってきた。
個室から聞こえる僕のえづきに気づくと
優しく声をかけてくれた。
「なんでも一人で背負い込みすぎるなよ」
と言って彼は出ていった。
僕はゲロを吐いていたが
「お前に何がわかる」はしっかり飲み込んで
「ありがとう」という事が出来た。
飲み込んだ気持ちは消化されただろうか。
この間バイト先の検便で
案外食べ物は消化されないことがわかったから
少し気がかりだ。

僕が今日酒を買ったのは、
帰り際に急に胸が空く思いがして、
それを埋める何かを欲したからだ。
頭の中の厳しいこの世を生きる上で
考えなきゃいけない冷たいことに
アルコールはモザイクをかける。
要するに、お酒は判断力を鈍くする。
だからこそ悪いしだからこそ良い。
しっかり物事を判断できた瞬間に
狂ってしまうような僕みたいな人間は
本当にダメになってしまいそうなときには
いいお薬になる。

酒好きの友達は多い。
僕自身は酒に弱いから、あまり沢山は飲めないが、
飲んでいる姿を見ることはとても好きだ。
忙しくて苦しい時に「殺してくれ」と
口癖のように言うあの人も
酒を飲んでいる時はやけに幸せそうだった。

幸せとは単純に、
不幸せでないと言うだけなんだろう。
不幸の要素を消去法で消していって、
その要素が全て消え去った瞬間を
幸せと呼ぶ人が多い。
酒を飲むと幸せになれる人は、
不幸でいっぱいの状況が
不明瞭になるから
幸せを感じることができるんだろう。

ここまでの文を読み返して、
自分はなんで傲慢なんだろうと
つい今思った。
少し前を遡れば、
僕は友達を勝手に不幸だと扱い、
また別の友達の心配を冷たい言葉を一蹴しようとしている。
傲慢だ。
どれもこれも全て酔っているせいにしたい。

言葉というのはまだ不十分で、
これだけしがまれている
コミュニケーション方法なのに
未だ誤解を生むことがある。
「もっとおあつらえむきの丁寧な、
かつニュアンスの似た言葉はないのか」と
友達を悪く言う場面で僕は思っていた。
それがないからあんな言葉になってしまった。
本当にすまない。もし見てたらここで謝る。

本を読むといつも感動する。
いろんな面白いお話を
正確に、かつユニークな言葉で
表現する人間が世の中にはいるのか、
と世界の広さをまざまざと見せつけられる。

ものを読むことを楽しいところは、
新しい価値観を見つけられる点だ。
自分が苦しいと思っている状況を
ふとした文章が今見ている視点とは
違う視点を提示してくれる。
本がくれた視点は、
苦しい状況の中を楽しく生きる術を
教えてくれる。
逆に、楽しく生きている中で
本を読んでいる時、
その楽しさが恐ろしくなることさえある。

人間の持てる価値観は基本1つだ。
本で多くの人生を追体験すれば、
その価値観を擬似的に増やすことができる。
自分の知らない楽しみを知ることで、
喜びのレンジを広げられるのだ。
僕が本を読むのに没頭する時に感じる静かな興奮は
それによるものなんだと思う。

さて、弱い癖に角瓶をあおったまま書いた
この文章は、
これを読んだ誰かの価値観を擬似的に
広げることはできたのだろうか。
まともに校閲もしていないこの文で
人は感動できるんだろうか。
もしもちょっとでも心が動いたら
それは僕の文章のおかげじゃない。
些細なことばを宇宙ほどの広さに
解釈することのできる
読み手のあなたの感受性そのもののおかげだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?