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本音が漏れる瞬間

僕は、幼少期から祖父母と一緒に暮らしていたいわゆる二世帯住宅の昭和的な家族構成だった。そんな祖母と僕の家族との話。

同居していたことと両親が共働きだったこともあり、僕は、祖母によく懐き、いわゆるおばあちゃんっ子というやつだった。病気がちだった幼少期は祖母に手を引かれ、病院行ったのを覚えている。
幼稚園の送り迎えでも、
「あの、お母様は?」
「あ、(今日は仕事で)いないんです。」
「あ…すみません。大変ですね。」
「???」
なんて会話があったそうだ。
学校から帰ってきたあとは、祖父母に1日あった出来事を話していたし、家事全般をこなしていたので、今思うと母という方が近かったのかもしれない。

自分でいうのもなんだが、同居という点も大きかったという点を差し引いても、祖母は僕のことを溺愛していた。それは、他人を介して伝わるほどで、成長につれてこっぱずかしくもあった。

そんな祖母は、僕にとっては太陽のような人だった。いつも明るく、誰にでも優しく、身内から見ても人を疑うということを知らないというほどにやさしさに溢れた人だった(実際に、オレオレ詐欺の未遂にあうほどに)。
8人兄弟の2番目の祖母は、第2次世界大戦を経験していることともあり、あまり弱みを見せない人だった。
「ちょっと、肩が凝ったから、肩を叩いてくれる?」とか、駅の階段の登りで「ちょっと大変だから背中押してくれる?」とか、は弱みではなく、今思うと、きっとコミュニケーションの一つだったのだろう。

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僕が大学院の最終学年の秋頃に祖母がお腹の具合が良くないと、かかりつけの病院行った折に大腸癌が見つかった。東京から地方で一人暮らしをしていたこともあり、その一方も父からの電話で知った。

祖母はあまり定期検診などをしていなかったこともあり、かなり進行していた。ステージⅢ。当時70代だった祖母の年齢も考慮し、僕ら同居している家族には一つ目の選択を迫られた。手術を受けるべきかどうか。放射線治療や化学療法にするべきか。

祖母はとにかく病院が苦手で、手術をするような事態も僕が知る限り初めて。きっと、不安だったのだろう。普段電話をかけてこない祖母からの電話があった。

「○○、おばあちゃんさぁ、大腸に癌が見つかって、手術を受けるよう勧められてるのだけど、受けた方がいいかな?」
「うん、病院のことは、お父さんから聞いてる。受けた方がいいと思うよ。まだ元気でいて欲しいしさ。たぶん、おばあちゃんの体力なら大丈夫だと思うよ。」
「うん、わかった。おばあちゃん頑張るね。」

当時は、今ほど抗がん剤の種類も多くなく、ステージも進行していたこともあり、外科的治療が第一選択としてあがっていた。自転車を乗り回して、出かけるくらいの体力がある祖母を考えると医師の提案も、自分のあと押しも妥当な選択だったと思う。

その後、祖母は都内の大学病院に入院し、手術を受けた。両親からの話では、他への転移もなく、術後経過も良好で食事も取れるほどに回復し、退院の目処も立っていた。
僕は、大事がなくよかった。あと押しには不安はあったけれども、選択は間違ってはいなかった。杞憂だったんだなと、ホッと安心した。
電話をかけても元気そうで、
「学校も冬休みで、近々東京に帰るから、その時はお見舞いに行くね。」
「うん、お前の顔が見られるのを楽しみにしているよ。気をつけて帰っておいでね。」

そんな会話をしていた。
まさか、祖母との会話がこれで最後になるとは、この時は夢にも思わなかった・・・。

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実家への帰省には深夜発の夜行バスで東京に向かい、東京に着いたのは朝方だった。長距離の夜行バスではどうしても熟睡ができない私は、実家に帰ったその日は、そのまま移動の疲れを癒した。

母から、「おばあちゃんのお見舞いどうする?いつ行く?」という質問に、「んー、バス移動で疲れたから、今日はやめとく。明日行くよ。」と答えた。

ここから事態は一変する。翌朝、病院内で祖母が倒れたという電話があった。原因は脳梗塞だった。幸い、倒れたのが病院内であったこともあり、迅速な対応のおかげで一命は取り留めたとのことだ。

両親とともに病院へと向かう道中も現実を受け入れられず、頭の中が混乱していた。『今日は、快気祝いに行くくらいの気持ちで、変わらない祖母に顔を合わせに行くはずだった…。なぜ?こんな不安な気持ちで病院に向かうはずじゃなかった…。』と。

到着すると病院では、寝ている祖母がいる。抗血栓薬を投与中だが意識はない。医師からは、意識が戻らない可能性も伝えられた。

なぜ、こうなった?元気だったではないのか?大腸癌の手術の影響があったのか?倒れてすぐに適切な処置は行われていたのか?

自分の中でも、現実的に見ればそんなことはないと理解をしつつも、後ろ暗い思考が矢継ぎ早に浮かんでしまう。

両親は、治療にあったってくれた医師の前では言わないが、家族の前では、病院や医師の治療に対して、感情的にな言葉を口にして話してくる。必死で平静を保つようにしていた僕には、心の中では「やめてくれ」という気持ちでいっぱいだった。

僕の中ではそれ以上に、
「もう一歩そもそも手術自体をしなければ、こんなことにはならなかったのではないか?いや、あそこで手術に僕があの時telで後押ししなければ…。という気持ちがあったから。


翌日、祖母の意識が戻った。しかし、安堵したのも束の間。半身は完全に不随、もう半身も少し麻痺が残ってしまった。一番は大きかったのは、言語障害の後遺症が残ったしまったことだ。
病室に訪れると僕が来たことへの反応があり、何かを必死で伝えようと口を動かすが、言葉として発することがかなわず、会話は成り立たない。
そう、あの電話の続きをすることができなくなってしまったのだーーー。

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ここで、僕ら家族に、もう一つ大きな選択肢を迫られた。祖母の介護についてだ。自宅で介護するのか介護福祉施設へ入居させるかという問題。しかも、元々の入院理由が大腸がんだったこともあり、残りの入院期間の関係から短い時間での決断が迫られた。

共働きの家庭環境、高校生の妹、祖母との意思疎通の困難さ、介助の大変さ、安全面などから総合的に判断して、退院後は介護福祉施設のお世話になることを選択した。
一部の同居をしていない親族からは、「おばあちゃんがかわいそうだ」「仕事を辞めて家で世話をるべきだ」など色々言われたが、いずれも、感情論が中心だったので、自分はほぼ取り合わないことにしていた。反論というか正論で殴り返しすこともできたが、そんなことをしたところで何も生まないし、こういう時にだけ急に声高に出てくる親族というものに辟易していた。

きっと、その親族の方たちからすれば、「あれだけ可愛がってもらってたのに、ちょっと冷たすぎるんじゃない?」と思われていたと思う。

この時、家族の誰もが、本人から聞ければその通りにそうしてあげたいと、思っていた。たとえそれが本心でなかったとしても。

病室へ見舞いに行った時に、祖母が僕に伝えたかったことが、毎日来ることだったのだろうか、自宅で面倒を見て欲しかったのだろうか、もう来なくていいよなのか、それを知る術がもうない。
この時僕は、何を望んでいるかをうかがい知る術を持たないのに、周囲が何かをしてあげても、それは僕らの悔いを残さないためでしかないのだろうと思いに至り、どうしようもない絶望感に打ちひしがれた。

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東京に戻り、就職後も週末は介護福祉施設へ定期的に通っていた。
就職が決まった時には、初任給で御礼を込めて祖母が好きなものを買うつもりだった。以前、「何が欲しいものある?」と聞いても、祖母も「別にいいよ」と言うだけだった。そう言う顔には笑みが溢れていた。

けれども、今は何が欲しいかを聞くことができない。質問を投げかけると、祖母は言葉に発そうとするが、どうしても聞き取れるまではに至らない。
おしゃべりだった祖母にとっては、相当なストレスだったろうことは想像に難くなかった。

せめて何かできないかと、食事でも連れて行くか、祖母が好んで食べていたものを買ってこようかと考えをめぐらすが、それもかなわない。
半身不随の影響で嚥下にも難があり、胃瘻とまではいかないが、通常の食事はできない状態だったからだ。

育てくれた恩返しができないーーー。
そう思うと、悔しさで涙が止まらなかった…。
毎回、祖母に会うたびに、僕には何もできないんだという気持ちにさせられる。

そして、東京へ帰省したあの日。なぜ1日早く病院へ見舞いに行かなかったのだろうか?という後悔は今でも残っている。
あの日、見舞いにさえ行っていれば、「退院後に何食べたい?」くらいのひと言くらいは聞けただろう。そうすれば、せめて食べられなくとも、初任給で嬉しい顔は表情で読み取ることはできただろう。

祖母との何気ない会話で覚えていることがある。

大学院時代、地域から行きやすかったこともあり、祖母を伊勢神宮への旅行に誘い、応じてくれた。その別れ際に、
「いやー、今日はよく歩いた。社も凄かったわね。ホント、冥土の土産になった。もう思い残すことはないわね。」
「また、そんなこと言ってー。」
「ほんとだよ。お前がいたからわざわざ来たんだよ。」
「じゃあ、今度はお金貯めるから、海外行こうか(笑)」
「嫌だよ、飛行機には絶対乗らないからね!」

あまり遠出をしたがらない祖母だったが僕への逢いたさもあってなのか、わざわざ旅行に付き合ってくれんだなと。ともにいることが、祖母には幸せだったんだなと。

一緒に暮らしていた家族だからこそ、少なくともこれだけは確実に言える、覚えている。どこへ旅行に行こうとも帰宅すると「あー、やっぱり家が一番だ」という言葉。これは間違いなく本音だろう。

最期は家にいたかったのだろうと。墓参りのたびに、ふと思い出す。

僕もいい歳になった。しばらく旅行には行けていないので、落ち着いたら、強引にでも両親を旅行に誘い、最期にどこにいたか、話でもしてみようと思う。

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