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僕は世界を呪えるだろうか。

   ある作曲家の話を見かけた。曰く、ダークな要素を含んだ作品が売れ、求められるようになってしまった。しかし本来、自分にその要素は無いから、暗い作品を見てそういう精神状態を作っている、とのこと。
   可哀想だとまずは思った。本来自分にないもので創作する、というのは、もしかしたら面白い要素もあるかもしれないが、少なくとも僕はやりたくない。有名になることは、誰かに期待されることは、大変なことだと思った。
   しかし僕は気づいてしまった。これは他人事でないと。むしろ僕の方が、厳しい状況なのではないかと。
   僕は、世界へ愚痴を吐くような、呪詛を振り撒くような作品を書きたいのだと、そう思ってきた。これはきっと、現代の需要と合致している、だから僕は幸せ者だと、そう信じていた。それは間違いだった。
   例えば風邪をひき、大事な試験に挑む時。僕は迷惑な自分を恥じる。
   例えば山頂に着いたものの、雲が景色を遮っている時。僕は期待していた自分を蔑む。
   例えば誰かに話しかけられたものの、言葉に詰まった時。僕は臆病な自分を呪う。

   つまるところ僕は、自分のみすぼらしく惨めな所。そして同時に、この世界の素晴らしく美しい所を知ってしまっている。
   創作において、ダークな要素が自分に起因するということは、辛い事だ。苦しい事だ。何故なら創作活動が、即ち自傷行為となってしまうから。書き進めるほど、自分を嫌いになってしまうから。
   だから出来ることなら、某作曲家のように後付けの価値観でも良いから、世界を呪う術を身につけたいと、そう思った。が、同時に無理だろうなとも思っている。
   僕の自分嫌いの論理は、いつの間にか完璧なものになっていた。創作活動を繰り返す内に、穴が見当たらなくなってしまった。それに、僕は自分が心から信じていること以外、創作できない。というより、したくない。自傷と引き換えてでも。
   結局の所、僕は僕のエゴで自分をいじめ、切り刻み、そうしておきながら苦しい辛いと悲鳴を上げている。この自己分析も、きっと自分嫌いの理論を補強するのだろう。

   僕に世界は呪えない。それが今日の結論。いつかこの現状から脱却するだとか、呪えない自分もありだと思えたりだとか、そういう日が訪れることを、今は強く願う。
   

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