ある従者のショートショート

 今日もいつも通りに時が過ぎる。掃除、炊事、洗濯、本来なら別の使用人がするべき仕事まで僕の元へと集められ、ひたすら右に左に走り回る日々。不満はもちろん募るけれど、背格好ばかり逞しい同僚達の前で、新参者の僕は無力だ。
 僕が二十年近くお仕えしていたお嬢様が少し前に結婚された。花や紙吹雪の舞い散る中、淑やかにバージンロードを歩く彼女は幸福をそのまま具現化したような笑顔で、不覚にも僕まで笑みをこぼしてしまった。日は経ってもあの美しさは色褪せることなく網膜に焼きついて離れない。
 嬉しいことに、お嬢様は僕を嫁ぎ先であるこのお屋敷まで連れてきてくださった。周囲の協力もあって、今まで通りに従者を続けることができている。だから不満を垂れて解雇されるようなことだけは、絶対に避けなければならない。
 ……それにしても。
「これはもう、虐めとかの類なのでは」
 髪や服から水を滴らせて、僕は独りごちた。
 犯人は不明だが、誰かがすれ違いざまに水をかけていったことは分かる。着替えは部屋にあるから良いとして、拭くものを持ち合わせていないのは困る。屋敷を汚したら、それこそ叱られるだけだ。なにより寒い。
「大丈夫!?」
 突如降ってきた声は花のように可憐で、懐かしく、愛おしい人のものだった。下唇を噛んで振り向く。
「お嬢……奥様。平気です」
「嘘つけ。君はいつもそうなんだから……ほら」
 お嬢様は綺麗なハンカチで僕の顔を拭った。その目の優しい輝きは、以前と何ら変わらない。
 彼女は一通り水気を取った後、それじゃあねと手を振って、旦那様の元へと駆けていく。幸せそうに手を取りあう二人から目を逸らすと、睫毛の上に残っていた雫が目尻を伝って地に落ちた。
 二人の結婚以来、好色家と名高い旦那様の浮ついた話をめっきり聞かなくなった。この屋敷の誰もがその変化を喜ばしいものと捉え、故にお嬢様と親しい男の存在は、疎ましいどころの騒ぎではない。理解はできる。
 しかし人はそう簡単に変われない。ここに来たばかりの頃は丁度良かった服は、絶食の甲斐あって今や随分と布が余っている。そろそろ潮時だろう。細工は流々、仕上げを御覧じろ。

 旦那様の悪癖が復活したことに、おそらく皆が気づいている。当然、お嬢様も。それでも笑顔を絶やさずに、変わらぬ愛を貫く姿は痛々しくて見ていられない。こんなことは早く終わらせなければならないのだ。
 作り物に過ぎない髪を微塵も疑わずに撫でてくる、この男の緩みきった顔が憎い。何も見えていないくせに愛を囁く様子は滑稽だ。無理やり高い声を出し続けた喉も、この男の劣情もそろそろ限界だろうが、十分過ぎるほど種は蒔いた。
 目を閉じると、廊下から足音が聞こえてきた。心の中で数字を数える。五、四、三、二……
 一。
「動かないで!」
「お前、何を……!」
 部屋に乗り込んできたのはお嬢様だった。手に持つ拳銃には見覚えがある。調達して、弾を込め、彼女が使う机の上に放置した。僕が。
 震える手で照準を僕に合わせ、激情に身を委ねたままあなたのせいでと泣き喚く姿が愛しい。
 乾いた音と共に肩から血飛沫が上がるが、想定の内だ。構わず突進して腕を掴み、銃口を旦那様の方へ向ける。引き金にかけたままの指を上から押さえつけると、再び乾いた音が響いた。今度は二回、三回と続けて。
 余韻が消え、旦那様は風穴から血を垂れ流すだけの屍へと成り果てた。腰を抜かして虚ろな目でこちらを見上げるお嬢様は、可哀想なほど震えている。
「大丈夫ですよ」
 元々丸い目を更に丸くして、お嬢様は食い入るように僕を見てくる。さらさらの長い髪と綺麗なドレスを纏った女が、慣れ親しんだ従者と同じ声で話しかけてきたのだから無理はない。
「どうして、君が……」
 お嬢様が幸せで僕も幸せ、なんて綺麗事でしかない。その隣に僕を置いてくれないなら、どん底まで不幸になれ。
 ずっと心の中で燻っていた感情をたった一言の「愛しています」に変えて、手を差し伸べた。
「処刑されるのは嫌でしょう?」
 どんな理由があろうと主人殺しは大罪。僕としては、お嬢様と共に死ねるのならそれでも構わないけれど。
 彼女は何も言わず、血に濡れた手を空に浮かせた。これ以上がない答えに、そっと笑む。
「……嬉しそうだね」
 嬉しいですよ。
 もう二度と、この手が離れることはありませんから。
 甚大な喜びを力に変えて、僕達は走り出した。
 

 
 
 
 


 

 


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