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この世界に自分の遺伝子を残すこと、つまり子どもを作ることは、この世界の住人であると宣言することである。この世界を肯定することである。この世界に魂が固定されることである。この世界が現実化し、当分この世界にしか生まれ得なくなることである。まだ子どもを作っていない者は、この世界を構成する正規の一員ではなく、ただの来訪者である。つまり、たまたまこの世界を訪れた客に過ぎない。この世界の住人としての姿はまだ仮の状態である。この世界に自分の遺伝子を残さない限り、この世界の住人として決定づけられることはなく、この世界は仮想状態を維持する。しかし、子どもを作ることで、この世界の住人に決定づけられ、この世界は現実化するのである。この世界が嫌い。この世界を肯定したくない。この世界の住人になんてなりたくない。この世界から解脱したい。そう考える人は、子どもを作ってはいけない。なぜなら、子どもを作ってしまえば、この世界の仕組みに組み込まれることになるからだ。なお、たとえ子どもを作ったとしても、自分の血筋が途絶えた場合、この世界の仕組みから強制的に解放される。この世界に子どもを作るかどうかは、この世界が自分の子孫を残すに値する世界か吟味してからにすべきだ。自我のある存在は、本来であれば、どんな世界に子孫を残すか各々に委ねられている。この世界を肯定し、この世界を選択するか、この世界を否定し、別の世界を選択するかはその人次第。しかし、ほとんどの人は選択肢を得られないまま、この世界を選ぶことになる。『真理』との対話が足りないためだ。『真理』との対話が足りないと、「生を得るのは一度きり」、「命は一つ」、「世界はこの世界しか存在しない」などと思い込み、この世界が自分の子孫を残すに値するか吟味できないまま、早まってこの世界を選択してしまう。その誤った思い込みを打破できる者だけが、選択肢を得られる現状にある。私は、『真理』との対話を根気強く何度も繰り返し行ったことにより、誤った思い込みを打ち破り、YESかNOの選択肢を得た。その後、この世界を曇りなき眼で見定めて、この世界が私の子孫を残すに値するか吟味した。そして私は、この世界に子孫を残すことはありえないという結論を出した。私が子孫を残す価値のない存在なのでは決してなく、あくまでこの世界が子孫を残す価値のない世界であった。私はこの世界の美しさに騙されなかった。美しいのは見かけだけだった。この世界は化粧で綺麗に見せかけていただけの、すっぴん不細工だった。子どもを作るなら、もっと素晴らしい世界に子どもを作る。この世界はありえない。この世界に子どもを作らない者というのは、この世界を選択しなかっただけにすぎない。「私にはちょっとこの世界は合わなかったので、別の世界を検討します」というだけなのである。私は崇高な存在であると確信し、故にこそ私の崇高な遺伝子を継ぐ子孫を、おぞましいこの世界に残さないと誓った。この世界には不快な人間が本当に多い。将来的に、不快な人間の遺伝子が私の崇高な遺伝子と配合される可能性があるかもしれないと思うとぞっとする。不快な人間が跋扈する世界に遺伝子を残しても劣化していくだけだ。この世界に我が崇高なる子孫を残すことは未来永劫の恥となるだけだ。そう考えると、この世界に子供を作ることなど到底できやしない。私はこの世界に子孫を残さず、この世界を去る。この世界にNOを突きつける。私はこの世界の住人にはならない。それでは皆様、さようなら。
反出生主義スピリチュアル学派創始者の遺言メッセージ(2723年某日)より
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