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葬儀中に感じた違和感

昨年、私の取引先の建設会社の専務が亡くなりました。享年70歳。
直接の死因は前立腺がんでしたが、入院していた総合病院の処置のまずさもあり、入院後、3ヶ月弱で帰らぬ人となりました。

親子2代に渡り、専務として社長をサポートし、会社のために尽力された事は、関係者の誰しもが認める事実です。
また、社員や下請け会社からの信頼も厚く、社外の私などにも目をかけて下さり、本当に惜しい人を亡くした・・・と皆、同じ気持ちでした。

葬儀は専務家と会社の合同葬で盛大にとり行われました。
500名余りの参列者を迎えた葬儀は粛々と進み、式も終盤に差し掛かった、スライド写真による思い出の紹介で、私はある違和感を感じてしまいました。

何十枚という写真とともに、在りし日の専務の写真が紹介される中で、会社関係の写真が一枚も無かったのです。
普通に考えれば、社員旅行や初詣、大きなプロジェクの写真や視察、現場写真など、仕事絡みの写真がたくさん残っているはずです。
合同葬ですから、家族との写真だけでなく、仕事の写真も紹介されても良いはずですが、本当にたったの1枚も出てきませんでした。

私は思いました。専務自身は会社を愛し、社員を愛したけど、家族の思いは決して専務と同じではなかったのではないか?と。専務という役職ではありましたが、役員の中では社長一族とは違い、赤の他人でした。先代の専務の頃から、一族ではないのに、専務と言う重要なポジションで身を粉にして尽くす姿を、家族は決して良し、とはしていなかったのではないか?
そう感じずにはいられませんでした。

そう感じた時、ずいぶん前に退社した、かつて専務の右腕的存在だった人の

"専務として死ぬまで会社に尽くすより、もっと家族との時間を大切にして欲しいんだげとね、でも、運命だから仕方無いけど″ って専務の奥さんはいつもそう嘆いていたよ。」

という言葉を思い出しました。

私の想像があっているかどうか、それはわかりませんが、会社での写真を一枚たりとも紹介しなかった事は、専務家の細やかな抵抗だったのかもしれません。

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