自分史 2019年6月記事の再掲

目次


1.前書き

2.①家族について

3.②20歳で向き合った自分自身のことについて

4.③これから


1.前書き
私はもうすぐ21歳になります。この文章は、今までの自分を振り返り整理することを目的として書きます。誰かに響くようなメッセージ性を込めることを意図したものではありません。小・中・高・浪人・大学時代に、友人や先生、カウンセラーに話してきたことをまとめたり、話してこなかったことも織り込んだりしていきます。自分のための【自分史】スタート!


2.①家族について


父の病気、母のダブルワーク、宗教団体

これらについて1つずつ書いていきます。


父の病気について

 私は一人っ子です。父と母がそれぞれ38歳36歳の時に生まれたらしい。父は会社員で母はパートタイムで働いていました。私が小学2年の頃、父親の勤める会社が倒産し、無職となりました。それから父は精神科で「鬱病」と診断されました。約1年間、療養していたと記憶しています。父はその時に「鬱病」に罹ったというよりも、結婚以前から精神的に不安定なところがあったと母から聞きました。母はそれを父から隠されたまま結婚したそうです。父の鬱病に関して、印象に残っている光景があります。ある夜、電気をつけていない寝室で父がひとり座って俯いている光景です。この時、私は人間から発せられる負のオーラを初めて目の当たりにし、とても近寄りがたかったのを覚えています。それに加え、父親という存在が絶望に打ちひしがれてる様子は衝撃的なものでした。

父は完全に塞ぎ込んでいました。収入がないことへの不安、経済的な面で家族に負担をかけている申し訳なさ、働いていない自分自身に対しての不甲斐なさなど、様々なものを一人で抱え込んでいたのかもしれません。あくまで私の想像でしかありませんが。

 その当時、我が家は「個食」でした。父は、ご飯をよそったあとに2階の寝室に行き一人で食べる。私と母は、一緒に食べていたものの言葉をあまり交していた覚えがありません。(その事については後ほど詳しく書きます。)その時には、父と母を家族というより同居人として認識していました。その当時の私は、それが当たり前だったので特段「寂しい」とは感じなかったけれど、友達の家族団欒エピソードを聞いていたり、福祉系の勉強をしたりしていると、いわゆる普通の家族と私の家族との乖離を感じて寂しく思います。10代初期の私にとって、間違いなくそれらは大きなストレスでした。

 そんな父に対して、私と母は時に無視し時に心無い暴言を吐いていました。今思えば申し訳ないのですが、やり場のない怒り・憎しみの矛先はいつも父に向けられていました。


母のダブルワークについて

 そんな中、母は収入を確保するために仕事を増やしました。朝から夕方までパートタイム(立ち仕事)で働き、夜から深夜までの仕事を行っていました。私が覚えている限りでも、お弁当詰め・パチンコ屋の清掃・スーパーの清掃・温泉の清掃など、ほとんどが動き回る系の体力を使う仕事でした。

 絵にかいたような家族団らんはおろか、日常会話も微々たるものでした。休日に家族揃ってで出かけた記憶もありません。

朝は自分自身のお弁当と父のお弁当(お昼)を作り、(大体残りが朝ご飯)出勤し、夕方帰宅。それから家事諸々をこなし爆速で夕食を食べて仮眠して夜の仕事へ向かい、深夜に帰宅。そんな生活を続けていた母は日に日にやつれて溜息も増えていきました。私は、いつか母が倒れてしまうのではないかというとてつもない不安に襲われ続けていました。そこで私は、母の心配事を増やして負担をかけないようにと、学校では必死になって「いい子」でいることにしました。それでも、母になにか気に食わないことがあると私は感情的に大声で怒鳴りつけられていました。今思えば完全なる八つ当たりですね。父への愚痴もよく聞かされました。「選ぶ人を間違えた」と言っていたことは今でも忘れられません。それに加え、私の父に対する怒り・憎しみも増していきました。母が身を粉にして働き続けているのにもかかわらず、父は一日中布団をかぶり寝ている。そもそも、父が鬱病になり働けないせいで母がこんなにも頑張っている。

母に対する心配と父に対する怒りで私の頭の中はいっぱいでした。親からの愛情を一番欲していた時期にもらうことができなかった。そんな私の小学生時代でした。

(前回はここまで)


宗教団体について

私たち家族を色んな面から苦しめてきた団体であり(あくまで私の主観ですが)、検索で引っかかってしまうことが考えられるので名前を出したくないのですが、具体的なイメージを持ってもらうには団体名を出すことが有効かと思います。「創価学会」です。父・母ともに父の親の代、母の親の代から入信している家庭で私は育ちました。父母ともに創価学会員ということです。そんな私は、生後間もなく「入信」させられました。‴あー‴とか‴うー‴とか、そういう言葉すら発していたかいないかくらいの時期、当然意思表示なんてできませんでした。命名の際も、学会のお偉いさん(?)に全てを託し、名前を決めたそうです。親の思いだとか愛情だとかは一切込めずに名前を付けたという事実を知った時、悲しさや悔しさ呆れ諦め怒り、どんな感情を尽くしても耐えきれるものではありませんでした。それは今でも。ただ残った感情は、「愛されていない」というものでした。組織のお偉いさん(?)に命名してもらうことは珍しいことではないらしく、私の他にそういう決められ方をした人がいると思うと心が痛いです。その名前を気に入っていたら別ですけど、私は自分の名前が好きではないですね。
そういった不信は色々あるのですが、大きく2つ書きます。1つ目は父親に関すること、2つ目は母親に関すること。
1つ目について、父が鬱病になったと書きましたが、その際に父は「祈れば治る」と信じ、ひたすらにお経…(勤行というらしいですが。)を唱えていました。時に泣きながら。私には理解できませんでした。気休めでは?と冷めていました。もちろん、病は気からというように気持ちの面から入ることは問題ではありません。勤行をするという手段を使って、気持ちを整えるという目的に達するのであれば効果はあると思います。しかし、病気は気持ちだけでどうにかなるものではありません。病院に行き、医者と相談し、時に服薬し、健康的な食生活をし、睡眠をとり、、、などという「行動」をして初めて快方へと向かっていくのではないかと思います。こうして書いてみると、なんとも当たり前ですね。当時の父を思い出すと、ひたすらに唱えることに没頭して盲目的になっていました。1日に何時間…までは記憶にないですが、夜暗くなった時、電気代が勿体ないからと言って電気をつけずに仏壇に向かい唱えている姿を見て、なにかに取り憑かれているのか?というような静かな狂気を父から感じました。怖い。そんな父を自分の意識の中で遠ざけていたように思います。父との日常会話はその当時(小学生)以来あまり記憶にありません(中学生の頃、何故か私が悩みを話し、聞いてくれたというのを除き)

(つづく)

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