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ゴジラS.P 2つの解法について

だいぶ過ぎましたが、新年明けましておめでとうございます。今年も雑に適当な頻度で更新していくと思うので、よろしくお願いいたします。

それで今回は本当に今更だけど、何度かnote内で触れて絶賛してたゴジラS.Pについて1回もまとめて無かったことに気付いたんで、ちょっと自分なりの話とかツイッターで見かけた話とか語っていこうと思います。


・“After シン・ゴジラ”の世界で


まずはゴジラS.P全体の感想なんだけど、事前のハードルを遥かに超えた想像以上の傑作が生まれてきたことに驚いた。というのも、見る前のゴジラS.Pへの期待度って実はそんなに高くなかったんだよね。これは理由がシンプルで、“After シン・ゴジラ”におけるゴジラっていう見方があったからだ。

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シン・ゴジラは紛うことなき傑作だ。1984年版『ゴジラ』が志して失敗した1954年版『ゴジラ』のリメイクを現代に完璧な新生をさせつつ、その内部には日本という概念や3.11及び原発というモチーフ、そして核への視線、日本神話的解釈などを巧みに盛り込みながらも対立軸を成立させている。そしてそれらを確固たるリアリティの元にシュミレーションモノとして成立させているのがシン・ゴジラだ。

余談だが、リアリティとはリアルそのものではなく、リアルな視線に耐えうるかという観点だと僕は思っている。シン・ゴジラはリアリティを謳いながらこんなツッコミどころがある、なんていう話も聞くがそれはまさにリアリティのものだろう。リアルの視点からのツッコミができる、というのがまさにリアリティの正体であり、公開時にときの防衛大臣の麻生太郎が語った『戦車あんなに関東に集められなくない?どっから持ってきたの?』なんてのはまさにリアリティだ。

そんなシン・ゴジラの後というのは、極めて高いハードルが設置されることになった。シン・ゴジラは1954年から連なるゴジラの歴史の中でも1つの転換点であることは間違いなく、明確にBeforeとAfterが分けられる古典と成った。ある意味で1つの到達点に達したゴジラに於いて次に何をするか、という視点は避けられなかった。それにゴジラS.Pはどう立ち向かうのか、そんな面倒くさいゴジラ好事家達の視線に対して出された解答は、想定外の作品作りだった。

・SFを極めつけるということ


ゴジラS.Pは、ゴジラ作品として以前語った言葉を用いるならば『人間ドラマをとことんまで排して怪獣をSFの土台の上に微に入り細を穿って映し出す』ことに成功した作品だ。

ゴジラはもちろんSience Fiction、SF作品だ。しかし今までのゴジラ作品におけるSFとしての緻密さというのは実はあまり高くない。どちらかといえば特撮としての要素の方が圧倒的大部分を占めている。今までのゴジラにおけるSFとは即ち、核及び放射線による巨大化への説明だったり、体内の核システムからの放射熱線だったり、作品によっては第二の脳の存在や細胞の修復機能から生まれる新たな怪獣だったりという感じだ。これらはその成り立ちは舞台装置としての決まりごとのようなものであり、そこにリアリティはそこまで求められていないし、こもってもいない。それは悪いことではなく、エンタメとしての線引きとしてなんの問題もなくゴジラという歴史を紡いできている。

しかしこのゴジラS.Pは違う。圧倒的なSFとしての土台の頑丈さの上に、狂気じみた緻密さを組み上げている。作品の核となるアーキタイプの設定に8時間もずっと科学的妥当性を議論する制作陣に、正気などきっと存在してはいない。SFにおけるこのリアリティの追求によって、この作品は今まで存在していなかったゴジラの新しい極点に至っていると言える。そしてこの尖り方こそが、この作品の評価にも大きな影響を与えていることはやはり触れなくてはいけない。


・解くための2つの筋肉


このゴジラS.Pは、SF的リアリティの要素が極めて高い。それ故、楽しむのに一定以上の科学的素養が求められる――ぶっちゃけて言えば、わかりにくい作品だ。

話の序盤まではまだしも、中盤から終盤の長時間計算機、特異点、4次元構造体の3次元への影響、などなど一般平均レベルを超えた科学的な話が主軸になっていく。それを鑑賞する際の対する引っかからなさは、視聴者各々の作品への触れ方と科学的知見に依存している。この作品はなんとなく観て楽しむタイプの作品ではなく、それぞれにある程度考えさせるような科学問題としての側面が強く出ている。さて、そんな問題に対しどう答えるのがこの作品の楽しみ方なのか――実はここで、この作品は2つの解答方法があるのだ。

1つはSFの筋力でゴリゴリと分解していく方法だ。SF、それもかなり緻密なリアリティの舞台で魅せてきた作品群を多く観ていれば、このゴジラS.Pは問題なく解答に到れると思う。実際、知り合いもそういう人がそこそこ居た。それは正しい解答であるが、実は2つの解法のうちで言えば別解のようなものだと思う。では第一解答に至る道は何か――そう、それは特撮の、いやゴジラオタクの筋力だ。

この作品は散々SFだと繰り返してきたが、それは構成する要素についての視点でしかない。じゃあその緻密に描いているといっても、それは何を描いて映し出しているのか?それは『俺たちは、ゴジラ大好きなんだ!!』というある意味では昨今の特撮オタクの“いつもの暴走”以外何者でもなかった。


・ゴジラマッスルで殴るべし

昨今の特撮、特に僕が触れている円谷を源流に持つウルトラマンやゴジラ、そこから派生した怪獣をベースにした近代作品群には、共通項がある。それは制作陣がそれらのシリーズの初代あたりに触れていた、“濃いオタク”に好き勝手させまくっているという点だ。


ギレルモは本多猪四郎を崇拝して『パシリム』を作り、マイケル・ドハディとアダム・ヴィンガードはハリウッドの潤沢な資金のもとでゴジラへの賛美歌を『ゴジラKOM』と『ゴジラ vs コング』に描写した。庵野と樋口は『シン・ゴジラ』で見事な期待に答えつつ、『シン・ウルトラマン』では『俺たちはこれがやりたかったんだ!!!』っていう込められたオタクの声がそこかしこに溢れて止まらない。そして『ゴジラSP』もまた、これらと同じように冷徹なリアリティの中でオタクとしての熱量を固定している作品であることは明らかだ。

・予定調和とカタルシスの乗り方

作品の終盤、ついに顕現したゴジラ・ウルティマに対抗するべく、とっくの昔に起きた奇跡が姿を現す。ジェットジャガー・ユングとペロ2の遙かなる末裔、ジェットジャガーPPが誕生する。

このシーン、SF筋での解法で理解するならば

『あーなるほど、アーキタイプの4次元構造を利用してゴジラもラドンも巨大化してたから、同じことをジェットジャガーもやったのか。オーソゴナル・ダイアゴナライザーを用いて、コードと化した自分自身を用いて破局に対抗した……てことかな』

みたいな理解になる。個人差と繰り返し見るかどうかはさておき、こんな感じだろう。でも、ゴジラ筋にてここまで観てきた輩はこうじゃない。


マジで初見こうとしか言いようがなかった。

『やりやがった!!ジェットジャガーを本当に巨大化させやがった、しかも起動のキーはオキシジェン・デストロイヤーことオーソゴナル・ダイアゴナライザーで、ジェットジャガー巨大化で、ゴジラ封じてハッピーエンドって!ばーーーーか!!!!(最上級の褒め言葉)』

もう手叩きながら笑っちゃったんだよ。ここまでゴジラの歴史や細かいネタに感心しつつ、骨太SFの姿をしてたのに急に化けの皮を剥がしやがった。いや、化けの皮というより最後の最後まで完成図を伏せ、最後に浮かび上がってきたのはIQ5のゴジラオタクの夢が詰まった終わりなのだ。泣いて笑いながら褒めちぎる以外どうしろってんだ、本当に。予想通りの裏切りに、情緒を完全に破壊されて負けを認めるしかない。

ちょっと解説するけど、前のnoteでも話をした内容になる。ジェットジャガーについてだ。できればこのnoteのジェットジャガーについての所を読んで欲しい。

ジェットジャガーが巨大化する、って予言をしていた。でもこれは当たってはいるが、これは当たって当然の予言だ。

ドラえもん映画でジャイアンが友人思いの姿を見せるように、メタルギアでスネークが『待たせたな』って言うように、ジェットジャガーが巨大化するのは当たり前で予定調和だ。たとえ活躍が『ゴジラ vs メガロ』の1作だけだったろうと、ジェットジャガーといえば巨大化なのだ。こんなもの、予言なんてものでもない。ジェットジャガーを知っている特撮オタクはみんな多かれ少なかれ予想できていた。それを本当にやりきるかは違いがあっただろうけど。

そしてこの流れは作品の終わりの一番大切なところであり、ここに至る解法を考えた時に『SF筋』と『ゴジラ筋』のどちらが想定された第一解答なのか。もはや言うまでもないだろう。これはSF面したゴジラ特濃作品の一部で間違いないのだ。

きっとSF的要素による解法をしっかりと残したのは、脚本と設定の円城塔のいい意味でのエゴイズムだったのだろう。制作陣もそこまで見越して、そういう作品作りを目指していたのだと考えている。だからSF筋だけで解いた場合、最後の爽快感というかカタルシスへの乗り方が十二分には味わいにくいのではないかと思う。まぁ対策はこういううるさいゴジラオタクが友人にいれば、ネタを聞いてしまうのが一番手っ取り早いだろう。僕たちゴジラオタクは、この作品に込められた元ネタとかを語りたくて仕方ないのだ。

そんなわけで、ゴジラS.Pについて好き勝手書き散らしてみた。これ本当の意味での作品を味わうときに、ゴジラオタクの知識ないと最終話のぶっ飛び具合が十分に理解できないと思う。実際そういう感想のフォロワー観て、もったいないというか仕方ないけど、でももっとこの作品面白いんだよ、って言いたくて今更でもこんなことを語りたくなっちゃったのだ。

ゴジラオタクじゃないけどゴジラSP観た上で、このnote観て見返してくれたりなんてしたらこんなに光栄なことはない。なんて淡い期待で自惚れつつ、フォロワーの人で解説聞きたければシュバって寄っていって早口解説かますので、よろしくお願いします。