異星からの光景X _いくつかの映画,特に『Future tense』を観て

そこからなにがみえたか

2020年04月18日の朝,静かに映像を観ていた.
「そこからなにがみえる」と題された期間限定の無料配信で,草野なつか氏らの4作を続けて観ていた.

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いつもどおり,カット数を計測しながらではあった.アニメ作品の『FLYING MATCHES OVER THE MOUNTAIN』の計測はしてないが,残りの3作品は,2.0±0.1カット/分ぐらいの「周波数」にあった.通常の劇映画に比べると分あたりのカット数は少なく,これはアクション映画ではない,アクション映画であればもっと切り刻むようなカットでテンポを刻むはずだ,と普通なら考えるところではある.しかし,わたしは,この寡黙でカット数もアクションも少なく感じられる傾向の映画たちを,「些細な」アクション映画ととらえて観ていた.
1作目の『ジャンヌの声』と4作目の『かつて明日が』とでは,それでも確かに傾向や毛並みが異なる.画面に人間が映りやすい傾向にあるのか,それとも映りにくいのかという見た目の外形は異なっている.それは人間の声なのか,それは人間でないどこかの音なのかという,録音と音響の上での違いでもある.些細といえば,それも些細な違いなのかもしれない.カメラがワークするのか,それともそこに置き去りにされているのか,という違いもそれほど大きく思われない.
『かつて明日が』には,フォークリフト,フェリー,バス,電車,エスカレーターなどの「はたらくのりもの」たちが,どこかよそよそしくワークをしている.『ジャンヌの声』では,声たちが4名の女性の顔と声帯に乗りうつって,彼女らの顔を働かせている.その働きの作用は,同じ帯域にある「周波数」のシンクロナイズという数値上の同調よりも,象徴的な同期を感じさせる.些細な働きが,次の些細な動きを呼びこみ,押し出し,些細な持続を保つ.些細なスケールでカーチェイスのような運動が演じられている映画群ともいえる.
よくよくみていると,目(玉)が動き,口(唇)が動き,(人)影が動き,水(面)が動き,人(ごみ)が動き,景(色)が動き,(風)光が蠢いている.それら些細さのなかには,生まれたてのような生々しい活動があって,人間と人間がこれみよがしにぶつかりあい,人間と物体とが作用と反作用し合うような人造的で人工的な活動とは違って,波立つような自律(ないしは他律)するアクションがある.
2作目の『そこからなにがみえる _現在地』にみえていたのは,フレームの微差や誤差というあたりだろうか.日記,キャンパス,モニタといったフレーミングの差異がときどきに切り替わり,1本の映像としては乗り換えをしつつ,ひとりの女の生活から過去の戦争までの歴史をつなぎ,モンタージュで迫りくる.用紙の上では,人型やそれが纏うオーラのようなベールが増産され,増殖されている.おそらく,間違いも寛容できるような偶然のフレーミングがあり,間違った(聞き違った)ダイアリーが引用され,少しぐらい間違ってもいいぐらい簡単なイラストが描かれ続けている.その間違いが,そしてその間違い「だけ」が,ゴリゴリのゴリ押しアクションでは達しようのない些細さに,ふと触れることができる.
かつて映画は,1秒が24フレームであるとされていた.それは前後するフレームの画面のうちで,どのような違いが起こっているのか,という「間違い探し」を1秒で24回こなす過程であるともいえる.
些細なアクションと許容される間違いによる揺らぎが,巨細な周波たちの存在を感じさせる映画群ではあった.

この星なのか

サンプルとしてゴダール映画を計測すると,「周波数」はやはり2.0カット/分の前後であり,上記の映画群に近い.また,ゴダールが影響を公言する邦画の作家のなかでは,溝口健二が「長回し」と呼ばれている撮影技法によっても知られているが,『雨月物語』も2.1カット/分が計測されている.
カットを割らないことで得られるのは何も起こらない時間があり,何も起こらないとは,アクションもセリフも映画的な視覚聴覚によっては見聞きできない時間帯が生じてしまうことにある.現代の映画人間が辛うじて耐えられる周波数が2.0カット/分の帯域あたりにあり,それですら前衛のような印象を観客に与えている.意図的なワンカット映画も存在するにせよ,これが0.5カット/分の帯域まで間延びしたときに何が起こるか.
Hironori Tadaishi(只石博紀)氏の『Future tense』をやはり無料配信期間の4月18日にみた.ひとつの傑作である.鈴木並木氏の記事にはこの映画の衝撃が記されている.この映画が採用した平均0.5カット/分の帯域の体験はどのようなものであろうか.
平均してしまうと2.0分ほどカメラはじっと動かず,レンズが向かう先を捉え続けたことになる.実際は,それ「以上」でもあり,それ「以下」でもある.「以上」の場合,たとえば2分間のフィックス画面をつくるには,実際の録画時間はたとえば3分間が必要となる.その2分の尺の前後を計1分ほど編集時にカットして,ほかのカットの切断面と繋ぎ合わせるという縫合により映画が成り立つという常識がある.
しかし,おそらくこの映画『Future tense』が常識というよりも認識を超えてこようとするとき,穏やかならぬ事態が発生しつつある.
クレーンドリーを使用した移動撮影から三脚のみのシンプルな固定撮影まで撮影方法の幅は現場現場でさまざまであるが,普通,撮影者はレンズの背後やモニタの前にいて,演出意図を最大限引き出すべく考慮しながら,露光,画角,ピント,ワークなどの加減を確かめている.その現場の誰よりもその出来上がりつつある画面の出来に見入っていて,場合によっては操作に介入し,微調整や撮影計画をアドリブで変更してしまうこともあるかもしれない.しかし,テストやリハーサルによって,ほぼ既に確定された撮影計画が想定どおりに進んでいるかのプロセスをチェックするために,撮影者は,仁王立ちで,時には眉を顰めながら,カメラと現場を見守りつつ,カメラの前の事態に魅入っているというのが,大方の撮影現場の様子だろう.
この『Future tense』が恐ろしいのは,何はともあれ,とにかくまず,録画ボタンをポチっと押してから,ないしはまずはシャッターを切ってから,事が運ばれている.かつてのアナログな撮影に擬えれば,カメラに装填されたフィルムが回転をはじめ,フィルムへの焼き付けが起こってからやっと,この堂に入ったカメラマンは悠々と重い腰をあげ,カメラの諸々のオペレーションを施している.録画がはじまってから,ピントやアングルや露光や深度の調整をして(時には調整をせずに),そのあと何が映されるのかは無頓着に事態を見守り,時には見守ることもなく,家族と親族の事態にあっさりと参加してしまう.そのとき,おそらくカメラは放置されたまま,プレイではなくレコードがなされている.放置プレイではなく放置レコードともいえる手法がここに記録されている.
なぜカメラは設置され,録画がはじまり,設定された後で,撮影は放棄されるのだろうか.
カメラマンの家族や親族は,カメラよりもカメラマンを意識して運動し,発話してしまうというのが放置された理由のひとつであろう.映されている彼女らと彼らは,時にどこかに向かって話しかけており,それはカメラマンに向かっているらしい.固い表情や硬い動きはあるが,人間とはある一定の時間をかけて観察していると日常的にはこのぐらい固い物なのかもしれないとも思う.しかし,カメラマンがカメラを離れ,カメラから放たれたときに,二重写しやオーバーラップのような,カメラへの意識とカメラマンへの意識へと裂かれるような,不思議な効果が生じる.セットでない屋内で壁や建具,家具が遮らない視界を広く確保しようとするとき,カメラは壁際や部屋の隅のギリギリに設置される.カメラマンがそもそもカメラの背後に立つ余地などないのかもしれない.人物たちは,解き放たれたカメラマンの動きによっては,カメラぎりぎりまで寄って見切れることもあるし,あれ,いま,(カメラが)回ってるのかな,というような映り方をしてしまうことがある.
これは従来の撮影時間には計上されず,「以下」の時間を使っていることになる.つまり2分尺のカットが完成作品に採用されたとしても,映されている者や映している者にとっては,1分のつもり(撮影計画)だったかもしれないし,あるいは全く映されたり映したりする予定もなかったかもしれない.その場合は,正味1分の撮影時間を2分まで遅延させただけでなく,恐ろしいことに0分という無時間(ロスタイム)から2分という上映時間(オンタイム?)を産み出したことになってしまう.
物語あるいは出来事といえば,おそらく近親のどなたかが最近亡くなっていて,その新盆か,あるいはそれに近い法事のために,普段は同居していない家族や親族が,実家に許容されるキャパを超えて,ひとつ屋根の下に集まり,お茶をして,寝泊まりしようということが起こっている.扇風機の季節に,石油ファンヒーターも出されたままであることにローカルなあるあるもみえていたり,サッシがやたらと厚いことに寒冷地の仕様をみたりもする.屋外場面も家の中の圧密から離れてなお圧巻であり,カメラとマイクの指向がおそらく90度ぐらいずれたり,ポプラ(ドロノキ?)かかというような樹木の葉が海岸からの夏風にそよぎ,同じ風が原因となって,この町には濃霧が立ち込め,それは墓参の基調となるトーンにも転がりこんでいる.
演技を指導してはいないだろう人物たちは,その平均2分のうちに色んなことをやらかしてくれるが,フレームの切り取りとカットの切り取りのうち,そのぎりぎりの端で何かが運動しているというのが,中央に中央に人物と科白を寄せようとする劇映画とは異なるスリルとして仕立てられている.映画というステージからもう少しで滑り落ちそうになる人物たちは,際どさから救われた者のような風情もみせず,日常にいる.
動物はどうだろう.終盤の屋外がここでも問題になる.いつこのショットは撃ち止めになるのだろうとハラハラとしながら画面をみていると,その画面を切り裂くように横切る人間ではない動物が現れる.狙いを定めた計算でも計測でもない,その動物を画面に投げ込んだでもない,追い込んだでもないだろうということを,落ち着いて思案した観客は諒解する.狙ってないのに当たってしまったのか,的中させずに的外れな無限の無闇の方へとショットを撃ち込んで,撃たれたものを画面の端々に引きずりだしてくること,カメラが植物と動物と人物を撃つことで救い出している,その情況に戦慄した.
また,界王星のような十倍重力で時間を圧延させ,その星の地上の様子をとても長い筒をもった望遠鏡でのぞいて観察する観客となってしまったような錯覚にも陥った.つまり,観客は救われない者として,この星の地上から堕とされてような感覚が,この映画にはある.


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