木の下蔭 巻之中

国立国会図書館デジタルコレクションに収められている蕗原拾葉の第9輯から「木の下蔭」をテキスト化しました。
※旧字や旧かなづかいは、テキスト化にあたり、適宜、常用漢字や現代かなづかいに置き換えています。
※判読できなかった文字は「?」で埋めています。
※「*」は原文ママの記号としています。

一峯山寺下の村を山の神といふ此の村の左の方に山の神の小祠あり夫より南へ越ゆる坂を熊の坂といふ坂上右の小森を治部の宮といふ左の方少し登りて近頃秋葉を勸請す其外是に限らず村々の小祠數多し畧す下是に傚へ

一治部の宮邊より非持除へゆく道を六衞といふ事は文明寺についての名なり前に記す

一大北村のさき元平といへる百姓家の果れに鉾持權現の舊地とて小叢祠より近頃まで槻の大木あり今は朽ちてその儘に檜樫の木あり笠原の庄といへるは是なるや不詳

一此村より的場へ下る坂を九段坂といふむかしは九段ありし故の名なり今はそのさかひ知れず
  九壇坂 俊豈
 峻阪連城北 遞遞稠九壇
 寄言來往者 能作二王看

一的場村のうち清水二所あり村の方へよりて岩間より出るを山伏清水といふて毒水なり昔時此の上に山伏住みけるを賊の爲に橫死をとげ其怨念によりて清水に毒ありと里民言傳ふ
 實に是はとはかりに道の清水哉 紀流

一城下清水町に淺間の社あり祭六月朔日近頃まで町家の裏にありしを今の地を買つて勸請す

一此の淺間社かまひの外に四五尺計り石をたゝみて水あり是を所の名に呼ぶ古よりの清水なりとぞ

一城下鉾持村の內大寶山建福寺は開山大覺禪師なり抑禪師は大宋蜀の隆蘭溪和尙といひし唐僧なり往昔人皇八十八代御嵯峨院の御宇詔に應じ寛元四丙午年來朝建長元己西年?倉府巨福山建長寺の開山として伽藍を建立後此信濃の國許より靈異多しと聞き行脚の次伊那郡鉾持村に入つて高雄山文覺上人加持の池獨站水を尋ねしに一老翁白髪朱顔衣冠甚嚴にして一枝の鉾を持ち忽然と出現し給ふ禪師驚いて子は何故の人やと問ふ老僧答へて我神代より此地に住す農民に福を以てする神家の祖人なり昔上原神太夫といふ者社職となる天平寶字の始に至りて綿延として絕えず中頃歷喪亂宮殿廢壞す我知りぬ汝の此に來るその志一字の梵刹を營み永く此郷の繁榮をすべし箱根足湯三島の靈を以て鎭守成るべしといひおはりて忽見へず禪師奇異のおもひをなし感涙を落し遂に一寺を建立し鉾持山建福興國禪寺といふ建長五癸丑年開基にして今に至つて五百三十二年なり又一社を造營し鉾持大權現と號す時に郷民伊藤源吾宗忠といふ者祭主たり宗忠が次子檜太夫相續して世々神職を掌る其後人皇百代後圓融院の御宇なり康曆二庚申年當寺の住持南城和尙改めて此社を造り鐘樓を造りて以て報之御旅所藤澤川の邊若宮にあつて每年初夏酉の日祭りありて幣を奉る隔年神輿出御若宮前にて藤澤川を隔てゝ祭事あり是より當寺の境內に入り一の鳥居より歸座まします

一大覺禪師弘安元戊寅年七月二十四日寂す

一當寺本尊正觀音

一當寺始めは乾福寺後今の建福寺に改め山を大寶山と名付く最初五山派建長寺末後星霜を經て武田四郞勝賴中興の開基として駿河國清見寺の住職東谷和尙を請待して開山とし是より妙心寺派となる此東谷和尙より喝道和尙まで紫衣を着す瑪瑞の觀音を安置し寺領百石を寄附す

一保科正直當地領主たる時大檀那となつて寺領百石寄附し其後下總多胡へ所替の時東谷和尙隨從し少林寺といふ寺を建立し住持す又保科家再び當城拜領の時後住劍江和尙隨從して當寺に住職す

一保科家又羽州最上へ所替の時鐵舟和尙隨從して一寺を建立則建福寺と號し今にあり

一少林寺は保科禪正小弼殿領地攝州伊丹に小院あつて今に寺號殘れりとぞ

一保科の石碑三つ本堂北にあり
保科正直公御母堂
 乾福寺段梅巖妙香大禪定尼 弘治元乙卯年十一月六日
保科正直侯
 建福寺院殿天開透公大居士 慶長六辛丑年九月三十日
保科正光侯
 大實寺院殿信嚴道義大居士 寛永八辛未年十月七日

一保科家今に音問絕へず寺領は止むといへども白銀等を給ふ寺よりも山内の松茸を呈す中頃より止みて蕎麥を進ずるとぞ

一寺の北岡に池あり獨站水と號くいにしへ高雄の文覺上人加持ありし靈水なり

一池の嚴上に辨天堂あり此辨天往古辨財天河原にあり其後當寺の門外の岩の上に勸請し喝道和尙代又今の所へ移す

一往古塔中三ケ寺あり見桃院といふ二坊の名知れず

一鐘樓元祿十陰曲千赤鳶舞射下院銘畧す施主當町本郷某

一本堂に掛る建福興國禪寺の額島居家の士高須源兵衞寄附す

一衆寮の脇にある槻の古木を矢立の木といふ子細しれず

一當寺に於て萬品々傘までも建福公用と大筆に書いて外に紛るゝ事なし是は保科家の頃寺も繁榮最中なれば人の出入も多く萬づ事足るの餘り他へ紛れて物の紛失も多かりけるまゝいつの頃にか有りけん和尙大守へ戯れに語られければ夫は公用と書くべしと仰せありけるより其例を以て今に何によらず書付け侍るよし俗に云傳ふ又寺にて此事を聞けば書き傳ふる所なしいつよりか書付け來て今に物每に書付るとぞ

一當寺の門前より鉾持権現の間を笠ぬぎの里といふ今俗誤てかさんどゝいふ事は勝間の白山の所に書す又或說に文覺上人此山を笠ぬぎて見たるよりともいふ又袋町に中村源市といへる大工の地に神明稻荷金神不動太子を祭るの祠あり此祠古へ道上にありしがおとがめありし故笠ぬぎの里と名付け後道下へ移すと言ふ說あれども白山の說實なるべし

一的場村妙法山蓮花寺は延久五庚子年身延山第五世鏡圓阿闍梨日臺上人開基なりはじめは藤澤郷北原村に一宇を建立す名付けて妙法山長遠寺といふ其後彌勒村へ移院す後又城下せり町へ三寶を住持す境內東西一町餘り南北二町餘りといふ此時故あつて本末の事爭論に及びて身延山の末を離れて皇都救願所四海唱道山客席として寺號を改めて蓮花寺といふ猶又院地を改め易へて今の的場村ヘ轉ず年月しれず

一保科家御母堂淨光院殿御菩提所となつて寺領百石を寄附す今絕へてなし

一嚴有院殿の尊牌を勸請して御香料として八町四方の山林を寄納せらる鳥居家より納めらるゝともいふ不詳當時は尊牌のみありとぞ

一本堂并鐘樓は鳥居家の建立なりと云傳ふされども惣檀那中の姓名あれば證としがたし洪鐘に貞享第五龍集戊辰五日吉辰鑄物師武州江戶深川住太田近江大掾藤原正次當山二十一世重玄院日須誌餘鐘銘畧之

一本堂西南に三十番神の堂あり

一本堂のうしろ坂を登りて稻荷三寳荒神天滿宮一社に勸請す

一稻荷社より一丁ばかり登りて七面堂別當を慈明院といふ本棟并佛具等鳥居家より建立寄附なり分棟題目堂庫裏は私に建立す

一島居家母堂菩提所なり惠光院殿黴照妙賢日道大姉と號す

一公儀大奥女中繪島當地へ遠流寛保元辛丙年四月十日病死宗門たるに依つて當寺へ葬る信敬院妙立日如大姉と號す墳墓は七面堂の脇にあり

一江陸道隨流俗名福地伴藏といふ人家に在つて童蒙の手習の師たり此寺へ葬る七面堂へ行く道に墓あり辞世を彫刻す
 花さかぬ谷の老木の今さらに朽ち果つる身を何かをしまむ

一當寺の什物
 日蓮大菩薩眞?三枚接之大曼荼羅
 日像菩薩眞筆の曼茶羅
 身延山三世日進上人の曼荼羅
 日朝日親日叙重乾遠各曼荼羅
 傳教大師作鬼子母神大黑天妙見大菩薩
 近衞公本尊七面大明神
 日蓮日朗日條三菩薩眞骨
右當寺の實物にして宗門に於て尊敬餘山にこへたり

一塔中四坊本行院當照院正覺院宗閑坊右山門の內左右にあり內宗閑坊當時廢退してなし

一的場村橋を越えて山際に淨土宗本性庵といふあり享保のはじめ三河より來れる僧建立す

一此的場村はいにしへ當城の士此所へ出て的射けるによつておのづから村の名となるといふ
  俣場村
 古村名俣場 慣儀似於野
 經過欽遺風 何人此郷射

一板町村龍澤山桂泉院は曹洞宗にて開山禪師諱は廣琳荊室と號す甲斐信玄家臣內藤修理信量の次男なり禪師幼ふして上州長生寺の弟子となつて落髪す其後上州松井田補陀寺的雄和尙に參じて百犬野狐の話を示されて日夜に進み其奧旨を領す

一天正十丙戌年正月廿六日上州善龍寺丈室に於て宗脈を傳え則善龍寺に住職す翌春的雄和尙の遺命によつて補陀寺に轉院す大檀大道寺駿河守政繁に逢つて厚くもてなさる性得德容慈仁にして僧俗共に仰ぐ事あつし

一其後羽柴秀吉北條の門族を攻むるによつて補陀西城の寺格をたつて東城新に城の傍に寓す終に天正十八寅年七月十八日落城して大檀大道寺政繁討死す依而ひそかに遺骸を葬つて石牌を寺の西の岡に立つ翌年秋松井田の民家もとの如く治まるによつて本院殿閣を新城に移す政繁の爲に新に塔院を記す來炫院殿光月淨清大居士と稱す

一文祿元壬辰年二月九日亨寅長老に補陀寺を讓りて當城の法堂院に退去す其頃の城主內藤昌月兄弟なるに依つてや住院幾ほどならずして緇白其德を仰ぐ事厚し然れども城内の事なれば他邦の客貴賤城扉に入るをゆるさねば廣く法化をなすこと能はず依て城内を出て板町村龍ヶ澤に移る或る夜一人の老叟來て戒法を請むことを乞ふこれを授く須叟にして老人忽ち失せて桂の池の邊りに恍惚として白龍現じ謝して岩窟に清泉を出して法施に酬むと清泉出づ貴賤手を拍つて稱す禪師を信仰す則城主と邑民と力を合せて法堂院の殿閣不日に今の所に移す內藤昌月中興の開基となつて山を龍澤と改め寺を桂泉と號く雲衲日々幅輳し補陀寺の軌則を模して祖令僴赫たり其後慶長九甲辰年仲冬廿五?遷寂す門弟子師の遺骨樹塔を補陀善龍當寺三ヶ所に分る法を嗣く者三人鐵刕照山行庵參話の書册若干紙補陀の室中に秘藏す

一法堂院の開基月浦和尙文和三丙午年二月十日寂す山號其他師傳不詳

一宮の下諏訪明神其嚮法堂院にあつて當城の鎭守たり當寺と同時に今の所に遷宮ありし也山門の內に祠壇を設けて鎭守とし正月元旦社參して國家安全を祈るとぞ

一當山の伽藍往々備足して只七堂の內浴室佛殿を闕くるのみ

一本尊華嚴の釋迦脇立文珠普賢なり

一寺の南桂の池ありて桂の古木今に存せり此池桂井と稱して三名水のひとつなり

一桂井の上山際に辨財天の宮あり寺より先に遷宮ありしや又はその後なるか不知

一鐘樓洪鐘彫刻信州伊那郡伊賀良庄上河路郷疊秀山開善寺文和四乙未年九月六日再住中山清?常住修造餘は磨滅見へずいかなる子細によつて當寺にある事知れず古へ戰國のみぎり引來りしよし俗に云ひ傳ふといへども其證詳ならず

一內藤昌月の子孫江州彥根の城主井伊家に今勤仕して五郞左衞門といひ當住行脚の次面謁せしとぞ

一中頃城戶勝政淺利信尹神戶直規の三士此寺の桂井を稱して屏風に其趣を表はして住侶へ送りて勤行の助とす
 此桂井は古き歌の歌枕にも見および侍らず然りといへども此郷にてはむかしより名所のごとくいひならはせりむべなるかな井の邊りに龍澤山桂泉院といふ古寺あり此井より出たる寺號と見えたり開基は月浦といへる大德の出家いづれの時の人といふことを知らずわずかの小寺なりしを破壞におよびしが甲斐の信玄の時分再興あつて法堂院より此所に移したまふとなりある時龍神人に化して來り血脈を付屬して忍謝のためにあたへたる名水なりわづかに形ばかり水草の下に殘りていさゝ井あり水は清げに見ゆ井の邊に桂の木ありかゝる山中にも珍らしき大木なり餘多の年月を經りて斧銭の難をのがれて幾星霜を送りける昔覺えて感情を催し侍りぬ所に住める身としてかく名だゝる名水たゞに見過し難く鷗鷺の友人三人各野語をつゞりさゝやかなる屏風にかきて此寺に送り侍りて住侶のかたわらに置て勤行の折ふし寒風をしのぐよすがともならばおのづから法の結緣ともなれかしと思ふものなるべし
  井月 富三軒勝政行年八十五歲書之
 伊さゝ井やいさとも知らぬ草陰のはらへば月のかこち顏なる 信尹
 名にたてる桂の井とてよもすがらめでゝや月も影宿すらん 同
  此二首の作者信尹はかゝる催し遂さる内に身まかり侍りぬ追福の余縁にもなりぬべさやと一入とりいとなみ侍リぬ
 つゝ井筒いつより誰が汲みそめし月のかつらの水ぞかれせぬ 直規
 こゝをせに月や住むらんいく秋の世を古寺の桂井の水 直規
 ひとしをに清き寺井の月の影さすが桂の名をもにごさで 勝政
 ひさかたの月もえにしのある名とてなをや桂の井を照すらむ 同人
 幾千とせあかぬためしや寺の名の桂の泉月やさやけき 同人
右何れも短冊に書いて屏風に押せり信尹の子兼て認めけるゆへ自筆の短册なり畫は狩野周譽筆なり
 城東田中といへる里に龍澤山桂泉院といふ曹洞宗禪院ありその山中に桂の井といふ名水あつて則寺の名とす其始をとへば往古法堂院とて城內にありしが故あつて此地へ移し今の名に改むその頃甲州武田の家臣内藤昌月とやらん中興の開基として代々の禪師普く衆生を濟度して月の桂の井の底清きに心すませりとか今年明和九壬辰秋紅葉見んと人々にいざなはれ此の寺に遊びかの井の邊りにまかりてよしなし事を興ぜぬることになん
 室の戶のその名も月の桂井によくすむ秋の影のくまなさ 忠昭
 秋は猶月の桂の底きよくすむ古寺の山の井の水
  おなじ井の田家に近かりければ
 くむ賤がすさみも月の桂井に心清くや影うつすらん
  紅葉を見て
 今朝よりも夕色そふ山姫のふかき心ぞ染むる紅葉ば
 いく時雨ふりし昔を古寺に軒ちかく見ゆ露のもみじ葉
  夜もやゝ更けぬるまゝ院主にいとまして出むとする頃嵐の音高く木梢に渡りぬるまゝ
 きく法に心の塵も拂ふ世の軒端に高き峯の松風
 名にしおふ所からなる影さえて月も宿るか桂井の水 忠定
 名におふ井の邊りの桂木はその星霜いくばくにや苔生ひ枝古りて蔦蔓這ひまとひてさながら靑龍の鱗もかくやと疑はる雀飛に倦いては此の木に歸へりて塒とす所は月かくす山の麓にして出づる月遲しされど南の山漸く隔て更行月の桂井に映じて西に入るさの月影迄の詠深し誰か心を動かさゞらん
 結ふ手に月をすくふや桂の井 雞下
 井の草へ渡す桂の露や月 梅葉

一板町村の白雲山西龍寺は昔時は參州吉良郡味崎にて永享二庚戊年了空大和尙開基にして十六代年數三百五十年

一島居伊賀守光忠に隨て羽州最上山形甲州郡内其後當地へ移りしと云傳ふ年曆等不詳味崎に殘る寺跡を願生寺といひ山形にては西龍寺と號して今にありとぞ

  寶物
 一親鸞上人名號三十歳の眞筆本願寺五代目一如上人の裏書あり
 一法然上人の眞筆の名號
 一蓮如上人眞筆の名號本願寺八代目中興開山といふ廟所山城山科にあり
 一狐の曼荼羅 一幅
 一子安のまもり 一幅
  右三州以來持傳へて奇特甚だ多し

一はじめ東本願寺直末安永元壬辰年より子細有之西本願寺の末となる

一塔中雲光寺正榮寺の二坊あり今雲光寺ばかり在寺す

一同村北洞山高清寺永祿十二巳年建立桂泉院末小院なり

一城西小原村櫻馬場は南北へ二丁ばかりにして左右に櫻樹ありて花の頃は一入佳景言ふばかりなし中頃は花も老木となりてまばらなりけるを命あつて苗木を植そへさせられ土民の枝を折り場中の往來を禁ぜられて今は左右ともに枝を爭ひ茂りて家中の壯士馬を責め大的遠矢を試みるに他よりよき所なり
 暮れて行く日影もおしと散りかゝるさくらに駒や猶いさむらん 安英
 入相や地道につもる花の馬場 醉月堂 不玉
 鞍をおけ暮一時のさくらかな 東窓舍 布川
 老馬もはしれ櫻の花の鞭 螢窓
  櫻樹埓 岡忠彝
 天晴櫻樹自芬芳 吹送落花鞍上香
 實馬繫留長埓下 噺聲幾處向斜陽
 咲つゞく櫻の馬場を行かへり里人くゝる花のさかりは 忠定
  櫻花埓 岡忠鼎
 金埓留遊騎 花開樹下迷
 猶疑飛雪裏 更有紫驅嘶

一櫻の馬場の北に神明の森とて方一町はかりの松森ありて神明の社ありいかなる謂にや伊勢御師御炊太夫の持にして除地なり
 神窠や濁りにそまぬ秋の月 里水
 神さびて松に霰や明らけき 如莚

一小原村入口西の方に日蓮宗の庵室あり千壽院と云ひ法華堂ともいふ古へ此所に黃金を埋む其所をしらんならばとんでとんで三とんでこがね千ばい朱千ばいと村里の童云傳ふ

一同村はづれ東南の方に村の鎭守熊野權現の社あり石の鳥居あり七月十七日十八日祭事あり

一此權現より三丁ばかりのぼりて山へ入り福壽山清福寺といふ禪院あり開基松月立公慶長八癸卯年建立中頃まで熊野權現の向ふに寺あり享保年中今の處へ移す今年の夏まで住持棠庵唐樣の名あり今は殿島の光久寺へ轉院すある日此の庭の古木梅の木を見て
 世のうさも知らでや年を古寺にいく春匂ふ軒の梅ヶ枝 忠昭
  同じ村の農業をよめる
 雨を乞ひ風を傳へて野をひろみいとま少き賤がいとなみ 淺利信尹 
 おもしろやはらふ袂もむらぎへの雪の千歳の若菜つむ野は 忠昭

一的場村醫王山三覺院香福寺は天平十七乙西年行基開山其頃法相宗なりとぞ其後大同元丙戌年弘法大師中興の開山として眞言宗に改む天平十七年より千二十五年になる

一本尊大日如來

一寺の東の岡に藥師堂あり行基の作堂も天平十七年寺と一時に行基の建立なり其後度々の再建ありこの藥師をうしる向の藥師といふ正面向き給ふときは往來のとがめあるによつて後を向くと俗の說なり靈驗あらたにして秘佛なりとぞ

一藥師堂の艮に岩あり藥壺石と號く壺の中常に水絕へず俗に呼んで硯石といふ童子の手習の水に用ゆれば奇特なりと云傳ふ

一同じ堂の左の隅に小池あり一鑑湖と號く靈水なり

一太子堂あり享保四己亥年建之

一山號寺號は行基の時よりはじまる三覺院の號は弘法大師の時號くといふ
  香福寺 俊豈
 千年靈跡海公開 兵燹幾回辨却灰
 猶有大千懸佛日 至今長照白毫來 

一おなじ寺の東に中ごろ迄道壽といふ坊舍あり春の花秋の菊を愛して貴賤詠をなす今は庵もなく櫻樹も斧鐵の難に逢ひけるにやなし

一同村愛宕山延命院は保科肥後守正光慶長九甲辰年建立百六十三年緣記不傳境內地藏堂山上に愛宕の社あり

一同村のうへに城山といふありもと二三の郭暫壘の跡あり南の方少し下りて用水の跡水を湛へたりいかなる事にや牛淵と號く謂を不知此山に限らず城山といふ城跡多くあり古しへの砦といふものにや

一この山三の郭に安永七戌年より大筒小目等の的の矢場出來て專ら修行の便を得たり又此先西向の尾先より猪鹿山へ大筒の中の物等打によし近年此處にて家中の稽古あり

一蓮花寺の下藤澤川の淵を馬淵といふ

一蓮花寺西の澤を猪鹿澤といふ的場彌勒兩村の境なり

一的場より彌勒へ行く道の小坂を觀音坂といふ坂の上に觀音あり

一右の坂より少し先うかひ岩とて西の方にあり此の所的場彌勒のさかひなり

一鉾持村片羽町舛形の外閻魔堂あり松聲庵といふ本尊春日の作阿彌陀の座像なり滿光寺遺譽和尙の寄附

一同村易行山相頓寺といふ古來觀音堂あり慶長五庚子年以來堂守住す名不知淨土宗にて今は滿光寺の末なり本尊阿彌陀三十三躰の觀音あり近頃まで觀普堂といふて寺號を稱へず中頃西心といふ住僧勸化して寺建立今は寺號をとなふ市中より上ること二町程後は鉾持山につらなり東は城下のはづれより入の谷の山岳をながめ南は勝間村より駒ケ岳西は所々の山々小原村山田村の農業櫻の馬場の邊三峯川の流れ四時の景色無類の勝地なり安永二巳長月人にいざなはれて此の寺に月を見て
 世のうさをよそにわすれて古寺に見る夜靜けき長月の影 忠昭
  遙かなる三峯川の長流に月の限なく移りてさながら晝の如くなれば
 くまなきは岸打つ浪も見るばかり河瀨を照す秋の夜の月
  此の寺の景色姥捨山の土地に彷彿してしかも觀音堂もある由人の語りければ所からのしたはれて
 更科のその面影ときくからに心なぐさむ長月の空

一此の寺その先は滿光寺の裏にあり今も相頓寺畑といふて舊地殘れりとぞ又若宮より下り橋へ出る辻番所の邊を相頓寺の舊地といふ說あり古へ此所にありし寺を今の片羽の觀音堂へ引けるにや可否わかつことなし
 麥刈りやよせては歸る片羽町 雞下
 此の寺も景を借りたる枯野かな 素鱗

一同村月蔵山林光寺是は元文の頃まで源母といへる律師の僧の庵室なり此寺もとは板町村宮下明神の向ふにありいつの頃か火災にて其後寺建立なかりしを源母庵を修復して今の林光寺といふ宮の下にて建立ゆへ山號寺號其所にかなへり仍て今の地には不相應なり近頃まで宮の下に此寺の十王堂殘り慶長三戊戌年堂建立と云傳ふ慥かならず本尊阿彌陀如來源母庵の本尊のまゝなり

一鉾持權現より林光寺の上までの間天滿宮秋葉の社あり寶曆三甲申年勸請す此兩社の下に天白の社ありて古へよりの祠にて由來しれず權現より以前なりと里民云傳ふ祭六月十八日なり

一鉾持除手前三町ばかり山へ上りて白山金比羅の社あり明和五年勸請す此下に白山岩とてあり齒の痛みに願かけて妙なり今ははくさ岩を白山岩と唱へ違えて白山へ口中の願をかけて揚枝を奉納す一心の奇特なること奇妙なりとぞ

一勝間村より下り口の河原にある大岩を水神岩といふ

一水神岩より七八町も上に礱岩といふあり形容よくその器に似たり

一此の岩下の淵を牛淵といふ謂をしらず

一勝間村は西勝間東を原勝間といふ村境を流るゝ澤を瀧澤といふ上にてはのたの澤ともいふ此村は一圓に麻苧を作りて家中町家はいふに及ばず近郷までも麻を出し米に替へる近年にんじんをよく作り覺へて色風味ともに餘村に越へてよろしとす又外と違ひ土民家毎家中へ出入をして三季の流し木を運送し其外辨用をなすを風義とす

一同村白山大權現は古へ加州石川郡より今の建福寺の邊りへ勸請す年號不知其頃宮居の前を馬上し或は笠を被れば落馬し又は笠をとられて必とがめあり仍て此所を笠ぬぎの里といふ建福寺下二本立より權現への島居の邊りをいふ今はとなへ誤り俗にかさんどゝいふ其後近衞院の御宇久安五年十一月十四日今の白山へ遷宮し奉るとぞ後年星霜遙に隔りて當城武田の持の頃山本勘助晴幸宮居を造立し木を植へて今は松桂枝を爭ひ蘿深ふして猿幕林に叫び人稀にして森々たる社地なり

一祭禮十一月十四日幣を前宮に移し翌十五日朝歸座あるなり此神雪を愛し給ふに祭の日必雪か霰の降るを吉祥とす又里民體をこしらへ此あま酒講苞になる程氷れば世の中よしといふ近頃此事もうすろぎ常の酒を專らに用ゐて豐年を祈る是は然しながら近世人情のうすきより起る又農夫も奢侈の事より出るかあま酒を造りて吉凶をはかる人情こそゆかしかるべしと人みな云へり十四日の夜前宮にて湯立あり一神歌とて數首あるよし其一二をきく
 千早振雪の白山せきてなを頼む願は神ぞ知るらん
 わきてなをたのむ心は長きかな跡たれそむる雪の白山

一當社神職當時伊澤左京父攝津祖父を大和といふその前不知今勝間に住す

一久安五年當地へ勸請のよし今に六百參拾一年

一同村小原峠の下に布引岩とて其下より見上れば高さ二丈ばかりもありなん圓かなる大巖なり上より下へ筋違ひに布を曝せる如き白き筋あり故に號く遠方より見れば此布見事なり又俗に座頭岩ともいふ其謂をしらず古へ里民膳椀入用の時前夕行きて此の事を祈れば十人前二十人前翌朝岩の上にあり入用濟むで又もとの如く返へす慰にいひたるは叶はず心に祈ればしるしあり或時傘一つ麁末にするものありそれよりしてやむと士人云ひ傳ふ

一同社南の方高き森は仁科五郞信盛を同り五郞山といふ祠あり信盛は甲斐信玄の五男にて仁科の名跡をつぎ後仁科薩摩守晴清といふ天正十年二月二十九日當城にて討死なり詳なることは鈴木氏の著はす晴清忠義傳にくわしければ是に畧す

一中頃迄祠の内に五郞の太刀とてありいつの頃か紛失して今はなしとぞ又鐵の弓矢ありともいふ

一山より段々に下りて遠方より見れば鉢をふせたる如く松森三所にあり上は小山田備中守中は渡邊金太夫下は惣諸士を祭るといふいづれも小祠あり

一渡邊金太夫照六世の孫今戶田家に奉仕して安永五申の年手筋ありて照の森へ鈴を納む則神職伊澤左京預り鈴の銘には
 奉納祠前 渡邊金太夫茂
 武田之臣渡邊金太夫照六代孫野州宇都宮城主戶田之臣
  安永五丙申年正月
右の如く鈴に銘ありさし渡し三寸五分ばかり箱のふた裏にも同文に記す箱表は鈴とばかりあり

一渡邊を云ひ稱す歌とて
 渡邊の綱にもまさる金太夫名を高遠の城にとゝめて
よみ人知らず所の民俗久しく云ひ習はす
  上仁公廟 得飛 岡忠彝
 登臨實廟上絕境過人稀遙聽山猿響近看野馬飛
 忠良憐滅族誠感拜餘威莫々秋風裡凄其對落暉
 千世かけてその名も高き武士のみさほ生そふ神の山松 忠昭
 我も我も花に寄るや五郞山 吐雲
 はつ紅葉叢祠ちかくや五郞山 時中
 薰や年舊の山のタもみぢ 亮風

一同峠下田の中にある森を田中明神と云ふ諏訪明神を勸請して白山此地へ遷宮前當村の氏神なりといひ傳ふ

一村中に茂りたる森あり白山の前宮にして社あり祭の日此所にて湯立ありとぞ

一瀧澤の方へ寄りて森二つあり木立多き方を仁科五郞生害場といふ古へ此所へ遺骸を葬りけるにや今一つの森を若宮八幡といふ二神ともに今は祠なく前宮へ相殿に祝ひこめて森ばかりなり

一同し村山手へ寄りて芳壺山妙光寺といへる眞言宗の寺あり慶長八辛卯年實秀法印開基にして樹林寺の末なり

一本尊如意輪觀世音

一鎭守御嶽權現是は仁科五郞晴清の氏神たるによつて甲州より勸請ありしとなり

一其頃は當寺の東の方富士右衞門といへる百姓家の邊なり仍て今も其處を御嶽といふ妙光寺開基の頃社も大破に及びしを今の所へ移し稻荷天滿宮相殿にして鎭守と崇む其後當住に至つて又秋葉金比羅をも勤請しけるとぞ權現祭禮六月朔日權現の御鏡あつて社檀に納むるといふ

一白山權現本地帝釋十一面觀世音當寺に納めありて是れも中頃迄今の地より東の方に堂ありしよし今は其跡に蔦の木あり近頃迄六部など來りて此蔦の木の舊地にて納經す中頃まで白山兩部成りしが吉田家より觸有之觀音を當寺へ納む

一境內藥師は行基の作にして俗に一口藥師といひて一口願へば諸願成就といふあらたかなる靈佛なり是も其上は龍勝寺の道にありしを當寺へ引其舊跡を今も藥師堂といふ其頃の前立に薬師並に日光月光の古佛三躰あり當寺藥師堂の內陣に至極麁末の厨子あつて其內に三躰あり御丈二尺ばかり有之黃金もてかざりたるとも見へず下は朽ちたる木の如くなり今の厨子は當住の寄附にして莊嚴花美なり近頃迄も此麁末なる厨子にて前立の三躰はその表に出しありしとぞ祭りは三月八日

一勝間山は端山の內にては高山深谷にして猪鹿の類多くすむ又常につくばねかも葵あり但つくばね日光山にあると違ひ羽四つなり二色ともに此山に限りて外になし

一此峯を三つかひといふ南の方を仙境といふ此峯つゞき戶倉山に中頃まで住む者あり靑き牛に乘り髪をかぶり頭巾を着して彼の山に久しく遊ぶ犬を二疋養ひおきて市中へ下して辨用す或時此犬狼の爲に害せられぬと其後は自分靑牛に乘りて市中に出る終に所をしらず里民唱へて靑牛道士といふ近隣の里人今に云傳ふ仙境と唱ふる所は三つかひ南の方の白頽より戶倉の峯迄を云ふ此峯八九分目に靑牛道士の住ける庵の跡殘り井水の跡ありて水を湛へたり今も土人雨乞ひの時此所に行きて雨を乞ふとぞ戶倉峯と道士を崇めて聖權現といふ石碑あり感應靈通大德祠と並立てあり又此峯を袴腰といふ川下邊より見上れば山の形袴の腰に彷彿たり
 仙居らば雪に基盤やこのほとり 万竹
 仙境や里の時雨に雪つみて 紫水
  葛麻山歌 俊豈
 蒼顏道士跨靑牛、韜晦葛麻山中遊、薜荔之衣小角巾、捧飮自供巢由儔、叩角何歌堯舜禪、未做道德老緇流、書卷不須掛角上、唯有眞形背裏留、峭壁巳開虚無宅、從來轉與人間隔、修眞每唱原道歌、幾年研精煉白石、一旦神虛上靑天、唯今只見飛曻跡、?骨從來不可尋、牀頭不見變玉鳥、樓止孤峯擢高表、攀來白砂空皎皎、仰瞻彩雲蔽點綴、下瞰寒谷抱繚繞、飄風時又動天籍、恍如仙藥度縹緲、世上無今眞語傳、堪惜仙境供臨眺、

一同村雲居山龍勝寺は曹洞宗とて越前國宅良慈眼寺の末開山雪窓一純大和尙年號不知其後三世東岩正岳大和尙を中興開山とす延文元丙申年建立抑々當寺は其嚮村上源氏赤松次郞則村入道圓心の開基なり建武年中圓心その時の王家へ恨の儀有之隱通行脚の時此地に暫く草庵を結び居住す歸郷の後百餘年無住小院の平僧地なり其後圓心より二三代赤松某の庶子釋門に入り東岩正岳和尙といふ或時此僧病をうれひ上州草津溫泉へ湯治して當郡山田の領主何某參會物語の序此地に祖先住居の由聞及ぶと尋れば則領內勝間村といへる所にありと言ふ然らば祖先の古跡志あるに依て歸國の砌同道し領主導て此寺に至る則寺の後背山に添て石塔あり是圓心を葬るの石塔なりといへり石塔の後の柵の外に石燈籠の如き墓あり屋根石に戒名と覺しき文字あれども苔むして分らず今に殘れり又云ふ正岳和尙勝間村深山に於て龍勝寺を建立し中興開山となり夫より本寺越前宅良慈眼寺へ文明十四壬寅年八月朔日に輪番を勤め翌年十月廿七日遷化緣記有之當時火災ありてくわしきこと不知又今の地へ移す前は大澤入りの堤舊地なりと此堤を中頃掘りし時燒物物具出ることありとぞ今會下谷の名是よりありと言ふ

一東岳和尙堂宇佛關を修造し赤松家定紋橋釘貫の紋幕を寄附し今に傳ふ

一本尊正觀音

一弘法大師抹香の灰を以て煉り造れりといふ佛あり大師の掌を押し付けたる跡に年號天長四年鎌倉にて一万座のこまの灰にて作れり圓心秘藏して此寺に持ちたりといふ

一什物に蜀紅の錦の袈裟あり同心の直垂にて作るといふ廿五帖にして堅四尺橫六尺ばかりあり模樣は紺地に二寸程の鳳凰の丸を一面に蒲色の絲にて浮織に双べその間へ唐草を織り住儈其外の云傳へにも日向にも見れは赤く或は白く又黃に見ゆる是蜀江の奇とするといへども此錦に限らず絲によつて織物の色々に見ゆるは常のことなれば蜀江に限るとは云ひ難かるべし

一袈裟の縫交入地は純子なり赤萌黄絲にて立波を織りたり尤も古代の渡り地なるべし裏は白の(ハス)絲なり是又古物にて破れ修補せり

一裏の肩の邊に學酬宗文居士施主溝口久左衞門とあり此姓名寺にて度々詮義ありといへども星霜久しく何時の世にか傳流もうせて不詳宗文の位牌も今に存せり
 ?舘 學酬宗文居士 神祗

一袈裟の肩邊り長さ四寸橫一寸五分程切つてつぎのあてたる所あり是は先領主鳥居家にて一覽の事ありて出したる時押して望まれ切りとられしと云傳ふ今は寺より外へ更に出すことなしとぞ

一客殿正面拾參間奥行七間內三間半內陣左右座敷

一禪堂本尊文珠

一客殿龍勝寺山門雲居士の額月舟書

一差渡し一尺五六寸の唐金大香爐あり銘曰
 奉寄進香爐一箇信州伊那郡龍勝寺
  爲清凉院殿安室永心大姉菩提
   貞享二乙丑年林鐘十一日施主高須源兵衞

一右墓寺のうしろ山へより小高き處に三尺ばかりの五輪塔あり法名前の通り天和三癸亥年六月十一日とあり源兵衞慈母のよし

一山門の內鐘樓あり
 實永二乙酉年夏安居同前住大乘後西來德翁良高拜誌下畧
  治工武州江戶神田 粉川久左衞門宗信

一境內五尺ばかりの座像石地藏あり安永七戊年藤澤郷より寄附村つぎに志の者引屆ぬるとぞ

一山門石岩嶷下より一町ばかり下りて制札あり
  制札
 御除地山林並境內
  定
 一龍勝寺於山林猥不可剪取竹木事
 一於寺中喧嘩狼藉可爲禁制事
  右條々不可有相違者也仍如件
   元和六庚申年七月廿五日 保科肥後守
    龍勝寺
   此制札ことし夏遷化ありし廿四世の住持建る

一制札上に鎭守白山權現社ありおなじ向ふに禁暈酒石銘あり

一制札の通り谷を隔て東の低き所に中頃まで桂峯といふ僧住めり雲洞庵といふ庭に雲洞石とて高さ二尺五寸ばかり山洞の形したる石あり側にある小石を以てうてば音ありこの石は山中に雲の洞といふ所の谷の底にあつてこの洞常に雲あり依つて雲の洞と名付く桂峯是を愛して終に庵の庭へ引き雲洞庵と自ら名づく此僧宗意にもしばしば達しぬれども一寺の住持をきらひ此所に閑居して生涯を終る雲洞庵桂峯泰嚴座主といふ位牌石碑あり死後に庵室は廢壞して今は舊地の名のみ殘れり雲洞石をば山門の下溪間に當時の隱居の庵ありて此の庭にあり

一大門入口は村のはづれにありて會下谷といふ碑名の石ありこの所より山門まで八九町あり左右山をおほひ諸木茂り溪深ふして泉の音は白雲の中より落つるかと疑はれ人まれにして雲嶺上に棚引誠に寂莫たる禪寺なり

一非持村の除取付のうへに三軒家といふ新田ありこの上の山木立の中に畠ありおひしりといふ少しき平地あり古へ高野聖此所に住居すといふ今に庭の跡又庭木あり

一同し除の半頃に博戯岩とて岩上前へのぞきて雨露をしのぐ程の岩あり

一同じ除の末東南へ向ふて月蔵山のうち穴はざまといふ谷あり此谷古へ禮僧穴籠せし跡といふ又同し並の尾根に鷲が岩といふ巖ありいにしへより尾白の鷲ありて此の岩にとまるといへども靈鳥にして人の手に得ることなしと云ひ傳ふ

一同し除の末山室橋の手前北際に大の字岩とておのづから文字の彫刻みなせる如くありありと見ゆる岩の下に大明神淵とてあり名付る謂を知らず

一城西片羽町の除を鉾持除といふ又芦澤除といふ實は中の橋まで鉾持橋より先芦澤此場兩村の境なり仍て兩樣に稱へて通用すこの除上は嶮岨の山高く岩壁巍々として所々に諸木屈曲に生ひ下もおなじく諸木或は小笹の類盤岩の間に生ひ茂り數十丈の谷深ふして三峯川の流れ藍の如くに湛へて除の中程に棧あつて中の橋といふ掛橋あり命もからむ蔦かつらと翁のいひけんも彼岨路のことも是にはしかじとおもわれぬ
  經蘆澤棧道 岡忠鼎
 一徑連幽峡千章雲樹新遞遞山勢折衝激水流頻棧道 懸岩岫絕崕隔要津卽知設險意建領北三秦
  此地は當城の西に當り第一要樞の地にして上は靑山巖々として
  雲一反のかけはし中天に聳へたるは蜀七十里の棧もかくやと
 棧や雲路にかゝる八重かすみ 里水
 棧道や結引はへる雪の朝 魯闇
 いつの世にたくみをしてや巌よりいはおに渡す岨のかけはし 忠昭
 あおぎ見る岨路に幾世よの人のあやうきをたすく雲の棧 女 紀水

一中の橋の少し先山の七八分目に小袋石とて袋の形に見ゆる大岩いまや落べきように前へのぞきて有之は權現の石にて他國より敵よせぬる時は落ちて防くと民家の童蒙いひ習はす

一此橋より先一町たらずの處明和二乙百年大雨打續き降りて山崩れ嚴おちて新に谷出來往來を停む仍て又棧をかけて往還をたすくこれより橋二ヶ所になりたり

一此除道下に生ふる竹は箆竹にて年々秋に至つて矢竹を切らしむ

一芦澤村道上に妙義の宮あり當村の鎭守にして昔は子安の森なりしが妙義を勸請して妙義山と唱ふ田舎の社には最も大社なるべし祠四ツあり妙義子安天神蠶神の四神相殿す勸請年號其外ともにしれず舞屋三間に八間前舞屋前外鳥居前都合三ヶ所左右に石燈籠あり

一同村富岡山眞福寺眞言阿閣梨榮祐承祿七甲子年開基度々火災あつて傳記なし
 信州伊那郡笠原庄芦澤村居住大澤氏信士重光者仕以忠義勤歸菩提是故信求觀音大士像以要結二世勝果而信力堅固求心無歇也所以大士亦豈無感應也果尋得一固尊像然惠心僧都所刻而靈驗大多也於是願主抱淨財營建一宇堂於此地要令未世群生共乘大悲願力其志不淺也時乎命乎今茲延寳七己未歲春之仲就于眞福寺內命匠者新築此堂而寄託大士像於其中於是使書其帰趣以成滿志願也夫斯境也青山義々後奔澗水消々前流柳暗花明四方景鶯吟燕語一堂春松間雲片々竹林風細々可謂補陀風致自然備矣其室殿也堂々乎善盡美盡矣故無貴無賤以無不歸敬也寔不信心所致焉能如此哉噫偉哉其德其功矣伏願信心施主依此勝緣現世無比樂後生善處豈有何疑哉宥宥經日能行大施者決證菩提佛豈賺人也因謾賦一偈以仕筆德傳無窮矣至禱
  頌日 
 信心豈是無冥助 修造功成一梵宮
 示現來歷大悲相 明々山月與松風
  于時延寶七己未年季春良辰 願主 重光 大澤喜左衞門
   大工 春日宗兵衞

一同村長榮山圓福寺淨土宗薫譽上人文祿二癸巳年建立委細不知

一笠原村のうち六道原へ取付の所登ること三町ばかりもあるらんはなれ山あり天神山といへり菅公の社あり實は天神七代を祭る山なりしをいつの頃よりか誤つて天滿宮といふ其實をしらず此山西北の麓城地あり諏訪信貞といふ人住めりとぞ又此邊に古へ文明寺あつて後今の峯山寺の地へ移る今も仁王門石礎の跡殘れりといふ實否を不知小笠原氏の城地鉾持權現の舊地等不詳

一此山の北を地神原といふ此名によつて是を思へば天神七代なるべきを民俗唱へあやまりと見ゆこの地神原手良郷中坪村の先にして森の內に地神の宮とてあり

一猪鹿山取付に山の神あり上を女神下を男神の社といふ

一此山の神社より西の方水晶頽といふあり水晶をちらすが如く至つて白き砂のなぎなり此釣根先に乘鞍石とて下より見れば鞍の後輪の形せる石あり又此頽下澤をよく詮義すれば水晶あり六方といふの類か一二寸のものを得たるものもあり又澤石に强飯の付きたる如く細かに數多く付きたる石もあるとぞ

一此山も端山のうち近邊の高山なりあまたの入卒都婆十二てん鷹か平猫の窪大澤そふろう槻の木社宮司たばこなぎの類地名枚擧に遑なし

一六道原は方一里の大原なり古へ笠原牧といひしは是なり原の西の末を下りて上牧下牧といふ兩村今もあり

一原中に方一町ばかりの森あり六道の辻といふ地藏堂あり七月七日を祭りといふて六日の夜より民間の男女群集る

一年々家中の壯士此原に出て大砲の術を試るの地となれり

一此國の名をあだし野といふはこの原なりと不詳

一信濃地名考云安多師野の山 名寄
  世とゝもにたのまれぬかは信濃なる名に立ちにけるあだし野の山 よみ人しらす
 あだ師野の山未詳伊那郡記に云笠原の庄のうち六道原といふ大原是なりとぞ

一歌枕寢覺所不知内あだし野は八雲あだし野は清輔抄には名所にいひたれど唯あだなることに寄せていへるなり源氏にも見へたり唯あだし心などいふ躰なり猶名所のよし有所見云々
 新後撰
  あだし野や風まつ露をよそに見て消むものとは身をば思はず 爲道卿
  あだし野に生ひても松はみどりかな 如莚
  我唄の谺も凄しかれ野はら 雞下

一下山田村延命山高雲寺曹洞宗龍勝寺の末寺開基隆室胤之和尙元和元乙卯年建立今は耕雲寺と文字書改凡て記傳なし

一本尊千手觀音堂中千躰佛あり是は中頃まで村の堂にありしが大破に及び此寺へ移す

一境内辨財天の社御手洗あり

一此寺其先き龍勝寺當村にありし時塔中ともいふ坊號不知其後一寺となる磯右衞門といふ百姓の家はづれ一本松のもとに觀音堂ありこの所舊地といふ不詳龍勝寺當村にありしといふも慥ならず大澤入の舊地同じ事なり

一同村鏡王山成就院開基社譽法印文祿四乙未年建立

一本尊胎藏大日如來

一本堂前三十三躰觀音堂あり左の方は太子堂なり

一此寺古へ當邑守護山田左衞門といひし人ありし時祈願所ともいふ仍て年古き寺といふのみにて開基不知年號も慥とも見へず年久しく無住其後賊難もあつて一向に書物等も不傳當時に至つて漸く盆等も出來る程の事にて昔時のこと知れずとぞ

一當村鎭守八幡勸請のこと等しれず八月十五日祭なり神主小松筑後八幡社の並神明の社あり又村の入口に諏訪明神前宮の祠あり
 刈上げて八幡へ初穗山田かな 布川
 もみぢして八幡の森の錦哉 万丈
 寒取やかたやに於て男山 紀流

一同じ村城下タといふ所あり山田左衞門といふ人住居の跡といふのみにして委細不知

一ひきじ金井の分れ道の所に班猫塚とて擂鉢を伏せたる形にて高さ二間ばかり赤土の岡ありこの所班猫多くある故名付くるか又山伏塚ともいふ

一此塚の向ふ西の方ゑどふといふこのあたりあだし野なり穢土と書いて民俗誤まりてゑどふといふとぞ
  ある日此所を通り古人も前民みな死ありといふ事をおもい出て
 我もいつ終の煙となりぬらん身にこそ知らぬ限りある世ぞ 忠昭

一或說に此所に古へ堂あり本尊畫像なり仍て繪堂といふと農夫の說あれど誤りなるべし

一山室村川邊より下東の岸うへに溫泉あり小澁の湯といふ至つて冷湯なり諸病に功ありとてたまたま行人もあれど定まりたる溫泉壺もなく入る人もなかりしに延享の末頃城下町柏屋庄兵衞といふもの奉行所に願ひて湯桁を拵へ上下を分ち少しく假屋を建て近村はいふに及ばず近郡の人も來りて漸く繁榮の基を開かれんとせし所いかなるものゝ仕業にや此所へくだをはなして人を悩ますといふ惡說あつてより次第に衰微して溫坊もやみ今は湯桁の形少しばかり朽殘れり小澁といふは諏訪の澁の湯の功能ともに似たりとて名付くといへり

一同村妙朝山遠照寺は其嚮寺號等しれず庵室の如くにてありしを身延山十一世日朝上人文明五癸巳年中興開基の寺となり日朝上人の手蹟を初め文明永正の頃より代々傳へぬる宗法の書物消息等多くあつて其頃迄は信州宗門の觸頭ともいふべき寺格なり歲月古きことにして今に至つてさだかならず

一寺の北上に御堂あり內に莊嚴可辱を盡したる三重塔の厨子あり武田の番匠作なりと云傳ふ此番匠は身延山の堂をも建て又諏訪神宮寺五重塔をも立たりとぞ其事を書ける傳記悲持山村清左衞門といふ百姓所持したり非持山の部に有之

一同じ堂に織田信長の陣太鼓とて丸み差渡し一尺八寸ばかりの古き太鼓あり鋲〆にすべき所大釘にて〆たりいづれ其頃のものといふべしや天正の亂に信長の先手森武藏守が諏訪より亂暴し來る普賢堂の太鼓なるよし忠義傳に見へたり

一同じ堂に鰐口と銀の銚子あつて信長所持といふ戰國にて鰐口を用ゆべき謂もなければ民俗の唱へ誤りと見ゆ銀の銚子はあるまじきにあらざれども是は浮說なるべし此銚子も非持山村庄左衞門と云へる百姓へ子細あつて遣しおく火災にあひ今はなしとぞ是れも忠義傳には銀蓋の銚子といふ太鼓とともに諏訪より武藏守取り來つて此寺の住持へ送るとあり

一御堂より半反ばかりも上りて七面堂あり

一御堂の前に鐘樓あり鐘の銘に曰
 功德主當寺惣壇中并近郷遠國万人講奉加諸人等享保九甲辰天閏四月、吉祥日本願日耀上人第十六世本行院日觀信州伊那郡妙朝山遠照寺
  甲陽橫澤住鑄物師 沼上次左衞門吉昌

一中頃迄講堂あり

一當村鎭守諏訪大明神 神職 丹波

一同村宮原に正八幡の社あり往昔木曾義仲の勸請ありし宮なりとぞいかなる子細にやありけん不知その頃の梁札近頃までありしがいつの頃にや紛失と見へて今ある所の梁札は土民の寫しおけると見えてわずかに幅一寸八分長さ一尺九寸七分ばかりの麁末の木を削りて兩面に認有之墨色も近頃のものと見へ手蹟もいやしく見へたり
  人王八十二代後鳥羽院御宇元曆元甲辰年正月十日
 八幡宮 木會左馬頭義仲勸請安置す空賢空賢
 八幡宮
  唵阿密嘌多帝際賀羅呼
  唵阿密嘌多帝際賀羅呼
  唵阿密嘌多帝際賀羅呼
    今井四郞兼平
   源國宜判

一同村宮澤に宇佐八幡の宮あり往古平三位惟盛紀州熊野より沒落最初此所に住居す依つて字佐八幡を勸請するゆへ宮澤と名付く此所に住み後非持山の入山といふ所へ移ると云ふ

一笠原村安樂山吉祥寺曹洞宗峯山寺の末享祿二丑年開山監大和尙其頃は臨濟宗にて建福寺末子細あつて曹洞宗となり竹岩和尙を中興開基とす永祿元戊午年なり

一本尊聖觀音衆寮三十三躰の觀音を安置す

一當村古へ赤羽因幡守成衡又外記ともいふ此人の開基とも云ふ法名智高院殿當山本願江月道村大禪定門因幡殿墓と唱へて番場はづれ釣根と言ふ所の松の根に藍塔あり文字見えす當寺無住久しく又火災等もあり委事不知

當村に因幡の末とて幸右衞門、源藏、久三郞など赤羽を名乘る百姓あり是等も書付等もなく唯云ひ傳へのみつまびらかならず

一當村の氏神御射山明神とて山手にあり石の島居ありて社地物寂ぬる宮居なり

一山なしと云ふ邑あり月見る里と書いて山なしと讀む此邊のうちには東南の方山なくいかにも月を賞翫すべき地なり一日市場辻村月見の里皆笠原の里なり
 月なれや實山なしの名付親 万竹
 寄そわん山なき里の月丸し 里水

一彌勒村西山手に菩薩堂といふ古堂ありて彌勒を安置す

一同村北の村はづれ山の手に當村の鎭守諏訪明神の社あり

一同村川向東の村を鍜冶邑といふ是は古へ武田家の鍜冶多く住めり夫より村の名となる其の內の子孫今に居住すとぞ

一同村の中心にこがね澤と云所あり往古亂國の時金を埋め置きたるを其後掘出せしより名付く又此山の續き鏡立といふ所あり山の尾崎に岩二つあつて月の出づる頃佳景なりとぞ
  黃金溪 岡忠鼎
 山下溪流趣 溪々一水分
 只聞金石響 吹送入秋雲

一石御堂坂上に蘭塔ありいにしへ奧州より修行の山伏來り金を持居たり仍て板山邊の百姓寄合ひ打殺して金を取る其後國の母此事を聞き尋ね來て臺村にて死す又飼ひおく犬一一疋來て是も死す二つの石となつて今道の邊りに犬石とてあり山伏の怨念殘つて崇をなす其子孫板山村孫三郞といふ土民家族のうち一人づゝ今以て啞ありとぞ

一板山村は松茸の名產地にして江府へ獻上せらる溝口村におなじ近年は不出來にて獻上なし年々秋になれば番人を出す

一同村妙覺山正法寺宣光坊日雲寛永十七辛巳年開基荊口村弘妙寺末なり

一同寺の南の方より登りて山室へ越ゆる峠を小豆坂といふ

一中村藥王山昌福寺眞言宗尊請法印慶長六辛丑年開基

一臺村澤の上に八幡の社あり當村の氏神なり古へ保科氏の鎭守といふ又此邊を保科氏の邸跡ともいふ

一中條村神力山佛土寺開基日臺上人永正六己巳年建立

一野笹村指月庵といふ庵室あり月の頃よし

一四日市場村久成山本妙寺日蓮宗善忍坊日了寛永元甲子年開基

一栗田村藤澤山慈照寺日蓮宗本林院日乘永正三丙寅年開基山上五六町上りて七面堂あり又保科氏の墳墓あり

一同村に觀音堂十一面觀音南海雲堂書といふ額今に殘れり是れは香龍寺といふ眞言宗の寺にてもみ澤より宮澤への上の間古へ此等の寺地といふ年月不詳民俗の云傳へのみなり武田評林治承四年栗田寺の別當大法師覺範木曾義仲の加勢として笠原平吾賴直と當國市原に戰ふといふ事あり此寺にや不詳

一藤澤村大傳山廣勝寺曹洞宗光山大和尙永享三庚戌年開基


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