木の下蔭 巻之上

国立国会図書館デジタルコレクションに収められている蕗原拾葉の第9輯から「木の下蔭」をテキスト化しました。
※旧字や旧かなづかいは
テキスト化にあたり適宜、常用漢字や現代かなづかいに置き換えています。
※判読できなかった文字は「?」で埋めています。
※「*」は原文ママの記号としています。

一高遠の城は信州伊那郡笠原の庄にて甲山の城といふかぶと山と名付るいはれをしらず其形を以て云ふにや東に山聳え西に嶮岨の棧道あつて南に三峯川北に藤澤の流れをかゝへて伊那第一の要害なりとぞ其嚮元暦元年笠原平吾頼直といふ者築之といへり其後世々の興廢治亂等の事は古き書ともに普く記し侍れば今更言ふに及ばずたゞ民俗の言ひ習はせるよしなし事の一二をあげて書顕すのみ

一笹曲輪にある所の竹を姥竹といふて尺八に用ひて奇とす姥竹と言へるは姥が懐の地へ続けるゆへに名付るにや

一法堂院郭は今の桂泉院の舊地なりよつて龍澤山の部にしるす

一二の丸内東の方今の武具藏は樹林寺の舊地と云ふ説あれども不詳是も稻荷山の部に記す

一武具藏の所より勘助曲輪へ下る坂を古しへは金山坂と唱へけるよし二の丸埋門の西の方折りまがりたる堀を今も鍛冶堀といへるは思ふに昔は此堀の中にて鍛冶の業せし時上の方に金山彦の神を勧請せし故の名なるべし

一土戸門の外東の方沼塹を蓮池といふいにしへは蓮ありと言ひ傳へぬれども絶へてなかりしを中頃命あつてうへにおほひぬる樹の枝をおろし新に蓮を植させ給ひしより今に年々盛なり

一當城の鎭守稻荷三社所謂勘助曲輪笹曲輪厩の三所なり追々命あつて年々神威を増し愛度宮居なり

一三の丸堀東北の方に窪みたる所あり鳥居家の時分小姓と坊主不義の事ありて此所へ埋められし跡といふ實否を知らず

一三の丸家老屋敷の内に幹五抱餘り枝は拾間に過ぎて蔓り百とせをもこゆる櫻木あり花のころは色香妙にして文人筆を擲つおしむらくはしるべき故なき事をされども又かほどの一木を無下に書き洩さんも本意なく筆をたつるのみ

一おなじ並びの普請小屋は西龍寺の舊地と俗に云ひ傳ふ其證慥ならず保科家の頃の古繪圖には山本勘助屋敷とあり思ふに勘助當城普請の頃暫く在住せしにや

一追手舛形外北の方小高き邊をいにしへ韮山と云ひしなり

一追手の坂を殿坂と云ひ同所より若宮へ別るゝ坂を自分坂と名付けて若宮の諸士下の本道を行けば道遠く障あるゆへ自分にてひらきたる坂と云傳ふ雪降りぬれば町役にて人足出て雪をかく自分坂にはかまわず殿坂と言より出て自分坂となづくるにや殿坂といふべきをどの坂と濁りて唱ふ二つ共に俗ながらめずらしき名なるべし

一搦手口の方いにしへ町なるよし衆城圖にも此方町とあり中ころ今の町とかはりたると見ゆ實さもありけむか今侍屋敷の小路々々を荒町或は横町といへり

一同所今の廣小路は三十ケ年餘にも成りなんころまで屋敷は東向にひらき門北むきに横手に忍門ありて會所なりきこの屋敷保科家の頃市瀬勘兵衛といへる人市瀬に住居して此屋敷を通ひ屋敷に持けるとぞ其後鳥居家の頃は淺田千藏といひける人住むと言傳ふ此の屋敷ありける頃は馬場の侍屋敷への通路は横町今の潮田氏の屋敷脇に小路ありて通用し廣小路出来て今の道つきて横町の通路はやみぬ

一同所辻番の際北側の角今日根野氏の屋敷壇ちがひのひくき所にある井戸は賤の女の舂挽うたに
 高遠よいとは誰がいひそめた水は遠くて長坂で
と唄ふは此の井戸なりとぞ

一殿坂東側角より四軒目今伊澤氏の屋敷背戸山上に勸音石といふ石あり方高さともに三四尺計あつて半より下に内へゑぐれたる如くなる石なり
其嚮鳥居家にて此の屋敷にすみける人庭を數奇ある時小原村の道にて此の石を見つけて庭へひかむと云ふ側にありける農人此の石は勸音石又道祖神といひならわして人是を取り除かずと言ふ此の人苦しからずとて押して庭へ引き入れぬ其後下人の小男物狂はしく口走りて此へ引く事をとがめてもとの地へ戻すか又清淨の地へ移さずんば祟りをなさんといふ依つて今の所を清め石の上に祠を立て勸音石と號く其後年月を經て中頃川村氏住居の時分勸音祠に及ばずとて蓮花寺上人日乗讀經して祠をはらいぬ近頃迄も三月十八日供物を備へ祭のしるしをなしぬ其後屋敷地改めあつて垣外に成りてより其の事絶えぬとぞ

一殿坂の下さがり橋の方へゆく土手の内に楠石と云ふあり實にも木石交りて見ゆ少しかきて火にくゆれば青き火燃る奇なるものなり此邊を楠坂といふ

一自分坂の東に鐡砲矢場あり中頃まで専ら家中稽古の矢場なり今はみな大北村の矢場になりたり

一同所より東塀下通り搦手下二本建の所へ古へは道ありいまの家居は林なりけるとぞ

一搦手外南の方無足屋敷を馬場といふ南に垣を隔てゝ法堂院馬場あるによつて號くこの一かまへの内にある井戸を黄金水と名付く底に黄金を敷くと言傳へて名水の一つなり

一同じ馬場今は垣を結ひ横町の方は塀又木戸あり中頃までは隔なく馬場は東北より往来し今佐治氏屋敷西の方に侍屋敷ありて中頃迄三瓶氏住けるとぞ

一荒町北側家老屋敷今會所大屋敷といふ古しへ鳥居の頃は高須源兵衛と云ふ職分の人住居す西の方へより裏門あり此の屋敷の庭にも花王の大樹あり三の丸屋敷はじめに記せるほどの木ぶりにはあらざれども緋櫻とやらにて色猶まされり

一おなじ並ひの屋敷今竹田氏の門内にある井を花王の井といひならはして名水なり櫻について謂あることにやしらず

一板町東角今矢部氏の屋敷の座敷の庭より寶永の頃にもありけん入江何某といふ人金を掘り出して富饒に成りぬ其後追々衰へて斷絶し今當家に家名なし又此屋敷其嚮當城籠城のうちに小田切孫右衛門といふ人の末葉孫右衛門といひし者此屋敷に住めりとぞ此邊都て板へぎ多く住みけるゆへ板町と名付く此孫右衛門の類七人住みけり板町にて今古き百姓は此七人の子孫と云傳ふ鳥居家所替後の縄ばり此等七人の受けるとぞ

一同町西側北より三間目と四間目との間に屋敷地あり今は左右屋敷の添地となりたり往昔鳥居家の前保科家の時分高坂權兵衛といふ人あり江戸在番して外櫻田御門勤番の時分在所より密用の書状來る相番の見ることをいとひて御門下の燈火にて見し所を公役の人にとがめられて其事公裁となつて主家の障りとなり其の身はもとより罪に行はれて家名を失ふと云傳ふ

一下町北側にじかく屋敷と云ふあり鳥居家の頃の醫師ともいひ又坊主ともいふ名字じかくの文字ともに知れず重き罪を犯してその科によりて十の指を十日にやかるその怨念今に殘りて勝間村の邊より見れば夜な夜な今も靈火の光見ゆると云傳ふ又一説にじかく鳥居家大阪加番先にて罪せらる重罪たるによつて家族のもの此屋敷にて罪せらるその靈なりともいふじかくの文字慈角とも書くといへども實否慥ならず此屋敷に住むものその主人に祟りて家名を失ふ故に屋敷をたゝみて皿地となす今は足輕の稽古的場となりぬ

一日蔭矢場の道下邊を漆畑といふて漆木數多あり

一自分坂の下若宮侍屋敷の内西側南より二軒目今兵藤氏屋敷裏藤澤川へのぞめる峪に槻の木の大なる古木あり鉾持權現の神木にて祭事の日今も神職巫女向ふ河岸に御酒を備へて少しき神事ありいにしへ此所を嶋崎と云ふて三社をうつし若宮權現とあがめぬるより地名を替へぬよし權現の傳に見えたり

一城北を流るゝ川を藤澤川と云ふ水上は藤澤郷片倉松倉の峠より出て末は三峯川へ落ち合ふ邊に田多くして夏の夜螢の景色他にまされり
 花と見よ名を藤澤の川ほたる 左立
 三峯川へ影も流るゝ螢かな 螢窓
 里の名も暮て河邊のほたるかな 紀流
 源氏とは光る名ありや川ほたる 女紀水

一日影林より北村へ越ゆる所をミヨノ山といひて古しへ花ミヨありたるとぞ今は其面影もなくしよの山と唱へあやまりぬ又塩山と書てしよの山と唱ふるよし俗に云傳ふ此所に三角林といふ所ありて櫻樹あまたありけるとぞ近頃まで一本の古木殘れりとぞきかなる謂やありけんしらず
元来邊鄙の山谷幽地なれば賞すべき佳地なしといへどもあがれる世に國の守なんど有りしころ迄は風雅の道も行はれぬると見へてところどころ聞き捨てがたき地名又民俗の云ならはしなど耳をとゞむる事ありといへども國に記せる史もなければ正すべき便もなしとぞ應仁の頃ほひより打ち續きたる何國もかゝる風俗なるべしといひあへるのみ

一下町侍屋敷の下足輕長屋の邊より南の方を花畑といふミヨ山に對せる名にして古への花畑にてありしと見ゆ今はその形もなし民俗の言ひ習はし是れに限らずさだかならねどもかゝる地名なんど適殘れるもみな中古より前の事なるべし

一侍屋敷東南のはづれ二本建の外に長井戸とて長さ二間巾一間ばかりの大井桁をすへたる井あり水は柄杓もて汲むばかりに湛へ世の旱魃にも水涸れず名ある井の一つなり桂井へ沓を入るれば此の井へと浮むと土俗の童いひたわむれぬ

一城南の麓を流るゝ荒川を三峯川といふ源は駿遠信の三つに連なる岳の嶺より落つるゆへに名づく山河中にては大河といふべし水清うして流れ早く末は天龍川へ落つる城下のうちにても上にては勝間川といひ下にては瓣才天川といふ夏は納凉の地又春夏秋冬入山より薪を流し出すますらをのいとなみ詠める一つなるべし
 汗をこの川へ流して涼かな 万川
 流し木やとりとり賤か冬かまえ 友聲
 なかし木や落葉漕き行く川の面 清林舎亮風
 流し木や落葉にからむ水の骨 素杉
 流し木や先のせわしき師走川 黒沾

一此の川町はづれ嶋畑より南へ渡る橋を辨才天橋と云ふ昔よりその折々の河瀬へ粗末の土橋をかけて往来しぬ中頃享保十八癸丑年柴木平四郎といへる町人の發起にて大土橋を渡し樹林寺法印を請しあまたの僧をして橋柱の上にて大般若を轉讀し永く貴賤のわずらひを助く大切といふべし丑の四月七日迄に普請出来九日橋渡初め奉行赤羽十左衛門も聞傳ふ其後又近頃橋巾をひろめ手摺をもつけて人馬の除合いをなし往来愈々安くなりぬ
  神女橋得清字 俊豈
 誰寫巫山神女名 飛梁千尺照流清
 幾時能入陽臺夢 朝暮猶倶雲雨行
 なが橋やここも夕日の暮おそき  夕日庵里水
 涼しさやこの橋瀬田と夕けしき 万川
 中絶す紅葉のはしや辨才天 井蛙


一此の橋古しへは千人橋といふ鳥居家の頃此の橋行桁の大木大澤の入より切出し家老高須源兵衛自分奉行して人歩千人にて此所まで引寄せたるゆへ名付くと云ふ其橋朽ちて後假橋にてありしを享保中再造せしなり

一河原の中程に辨才天岩とて大岩あり上に石もて造れる辨天の小祠あり故に此所を辨才天河原といふいつの頃よりか辨天を建福寺へ移す又往古勢里町に宮ありしによつて其の名を呼ぶといふ説あれどもたしかならず此河原夏になれば市中より出て麥をこなし布を晒し賤の男賤の女のいとなみ隙なく又両きしにて貴となく賤となく釣を垂れて畫雪の扇岸風に代へて納涼類なし
 後の世にいかなる罪に逢ふ瀬ともしらでや垂るゝ釣の糸なみ 忠昭
 川風やとれ麥打の笠の顔 臨江
 河音も涼しや麦を打日和 星窓庵梅葉

一同し河原の二三町も上南の岸通り古しへ柳の馬場ありけると云ひ傳ふ西なる岡の花王の馬場に対せるなるべし今は其所だにさだかならずとはおしむにたへたり
 古き名の清水もあるか柳馬場 里水
 有といふ名のみ老木の柳哉 黒沾

一三峯川藤澤川の落合の下にある淵を箱屋淵と云ふ岩壁箱をたゝみたるが如くなるが故に名付るにや

一辨才天橋の下南の岸へ打つくる所の淵を小僧淵と云ふいわれをしらず

花畑南の出崎地續きに烏帽子岩とて大なる岩あり河原より見上ぐれば七八丈にも餘りて見ゆ形風折烏帽子の如く奇なる岩なり
 誰折りてかくるゑぼしや岩つゝじ 紀流

一右の巌より西の窪みたるを漆畑といふて漆木數多あり岩根々々に躑躅の大木數しらず花の頃は夜も忘るゝに似たり
 爰の名は餘所になりけりつゝじ山 万川
 その影の水に火を焚くつゝじ哉 花源園万丈

一漆畑より瓣才天河原へ押廻す邊を姥が懐といふ岩屈嶮岨の洞にして筆に及び難し

一姥が懐の下に甚六淵とて大ひなる深淵あり水藍よりも青し

一日影林の下藤澤川の岸に疣石といふ岩あり其の頂に少しく窪める所ありて四時水を湛へいかなる旱魃にも涸かずこの水をいぼへつくれば忽ちに癒ゆと云ふ
  俊豈
 石窟生靈渡 傳言愈贅疣
 落々一巻石 名聲萬古流

一下り橋詰に湯屋といふ町家あり中頃迄錢浴室あり今は名のみにて風呂なし

一同じ橋の下にある淵を玄泉淵といふいつの頃にや玄泉といふ醫師釣を垂れけるに上より大石落ちて此の淵に溺死するより號くといふ其證不詳

一同じ橋の上に北岸の馬場といふ古しへ紅葉の馬場と唱へて楓あり今は漆木を植えて漆馬場ともいひしかども此頃漆もたまたまにして馬場ともわかぬ計りになりぬ四十ケ年以前迄は殿坂に住居の士は此馬場にて多く責馬をなす
  楓樹埒得分字 岡忠鼎
 古埒青苔落葉分 秋深楓樹自紛々
 到来誰知調馬跡 今日肅條寳馬群

一板町邑に鎭座まします諏訪大明神は正一位大己貴命御子健御名方命にして諏訪を内垣とし伊那郡當社を外垣として家中並に當村の氏神なり往昔國初より當城の鎭守としてその嚮法堂院郭にあり此院出城の時搦手内今米藏の所に遷宮す其後保科肥後守正光尊敬厚く新に今の所に社を建て移し奉る御階の葱寶球に元和七年辛酉年八月吉日と彫刻今に殘り祭は七月廿六日七日を中頃より廿五六日となる

一社地は往古より民人八幡の森と云ふ明神の社に並て今は八幡の祠壇あり勸請の年月其外凡て傳ふる所なし舞屋拝殿御手洗ひあり又的場ありて近邊の輕卒の壮者出でゝ射す社人代々池上和泉と云ふ
  社頭梁札
摩訶世界扶桑國信濃州諏訪大明神者迊普賢也甞爲衆生濟度共日安闇諏訪大明神誠天下談士庸人搏子無不崇敬之然者古來奉勸請此地年尚矣丁於斯時古廟荒廢鴟吻斜于爰郡主神氏正光建立焉了者欄干如磨玉盤焉寔夏盤銘臺殿宇漫室易及焉王善盡美盡矣伏冀憑動力壽算綿延武運長久
 于時元和八龍集壬戌夷則念日
  神主 板町村 右近
  大工 池上五郎右衛門正忠
     井澤忠左衛門次繁
  小工 坂口久助侶次

一寶物に小札のうへを黒のなめし皮にて絃走りの如く前後左右をつゝめる古胴丸あり往古の物と見えたり兜なく胴ばかり袖に手もなく草摺ばかりにて浅黄糸の索かけなり又黒柄の古き鑓木にてきざめる面の如きものありいづれの世に誰れ納めたりとも忘れず寶物と成りてありとぞ

一宮殿破壊するによつて延享五戊辰年六月新たに造營有之今の宮なり
 神慮若葉に深き宮居かな
 雪に位を増すや宮居の白幣

一花畑組長屋より河原へ下る長坂あり歳の神坂と云ふ又仁科晴清没落の時此の所にて城を振り返り見たるにより再見かへり坂と云ふ説あれども晴清は全く本城にて生害ありしに違はねば再見かへり坂の説は甚だ誤りなるべし

一花畑南畑のうち峪岸へよりたる所に繪島圍ひ屋敷の跡あり是れは中頃正徳四甲午年三月十二日公儀大奥大年寄繪島と云へる女中罪ありて遠流當家へ預け給ふ同じ年四月朔日着其砌は非持村のうち火打平と云ふ所に圍屋敷あり後享保四己亥年公裁を經て同年十二月六日此所に移さる其後寛保元辛酉年四月十日病死公儀御居有之檢使として御徒士目付杉原宗十郎六月に着その上にて宗旨たるに依て蓮花寺へ葬る七面堂の脇に墳あり法名信敎院妙立日如大姉と號く今は屋敷跡もとの畑となれり
  過廢宮人繪嶋謫居舊跡 源俊豈
正徳宮人字繪嶋曾生良家養襁褓阿親甞欲奇此女不許婚嫁奉瓣棗頭如蝤蠐手柔美顔如舜花自夭夭ニ八雙峨宮様粧嬌態不持慧情惱一旦應撰入深宮舞態長袖戲春風従班曾奉君王寵天資未曾假紛紅棲止宮禁二十年色衰君恩尚未空詔進崇班稱老媼不比内殿女伴中豈料一朝生驕淫魚龍曼衍遊何窮謾導姦客入宮禁寝門青鎖假櫝通沈面濡道長夜飲絲管紛々樂未終忽遭嚴譴投信地雲山一路幾日至可憐涕洄沾衣襟猶自綉服感舊賜高遠城商溪水隈十笏草廬混塵埃春深花樹傷心發秋清素月斷膓來即今謫居人不見寂々舊跡空莓苔君不聞由来斯道大欲存國風半是刺淫奔經過唯今遇感慨紛々往時不可論

一城東にある山を月藏山といふ月の昇るをかくす故名付くと見えたり又鏡臺山ともいふうしろの山を駒がくぼと云ふ惣名なり非持より馬を放すによつていふ又岸より東に向へる尾上に鷹の打塲といふ所あり先月鷹匠役山本彌右衛門といふ士へ命あつて鷹を打御殿釣根といふより東南の方に仙左だつといふ尾根あり是は先年猪狩として御登山の時今の久保氏の父其頃仙左衛門と云ひし人此峠にて度々鹿を打つ仍つて其頃より自然と人其名を呼んで今はたつまの地名となれり

一城下横町親緣山無量院滿光寺は淨土宗にて知恩院の末伊那郡宗門の録所なり開山及び往上人天正元癸酉年建立今歳二百七年なり

一本尊阿彌陀如来脇立觀音勢至合三躰安阿彌一刀三札の作工藤犬房丸守本尊立像なり昔時の勢至は大嶋村上縣觀音は下縣へ移して靈佛なりしを盗賊の難によつていま縣村の堂にある所の像は後世建立したるなり當時ある所の脇立も後に出来たり最初の靈佛を縣村へ移したる子細知らず

一元祖圓光東漸大師十念の名號あり日本に三幅の隨一にして當寺の什物なり

一犬房丸所持の長刀一振當寺に傳へて重寳とす

一當寺開基のころ滿光寺といふ中頃鳥居家の領主の時分老職高須源兵衛願の因縁あつて淨土寺と改む其後又十四世遺譽和尚昔の滿光寺と再び改む

一當山往古眞田左源太の菩提所廟所位牌あり法名法源院殿傳譽隆相大居士と號す寛永四丁卯年正月三日卒す

一山門のうち西の方にある井を檜水と號す三名水の一つなり殘り二つは桂井黄金水を以て名水と云ひ傳ふ

一境内千躰佛堂寳藏辨天稻荷の社あり

一塔中二ケ寺西を最勝院といふ庚申堂あり東を清香院といふ觀音堂あり糸引觀音と稱して靈佛なり伊那八十八ケ所の内卅七番の札所如意輪觀音の靈佛とぞ御詠歌に
 極樂の道高遠とおもひきていそけば彌陀の淨土なるらん

一鳥居家の高須源兵衛は其功多く普く其名を知り今に功を稱す隱居して硯也といふ當寺に葬る玉寳院秀譽淨鐡大居士と號す墳墓は片山の岡にあり硯也を犬也と書くと俗に云ひ傳へて中頃或人の歌に
 犬なりと思ふ心や人ならん人の中にも犬やあるらむ
といふ歌あり犬也と書くは誤りなりとぞ

一遺譽上人代元久己未年堂再建十二間四面建立山門鐘樓門其外佛具迄結構を盡し伊那一番の伽藍なり天井の丸龍小山自省の筆其後安永年中修覆の時吉見休榮の筆となる

一鐘樓大鐘の銘
 奉建立洪鐘大日本國信州伊那郡親縁山滿光寺第十四世願主中興信阿即生名號増上寺前大僧正祐天
  皆時元文己未年孟春吉祥日
  信州松本住?惣官鑄物師田中傳右衛門藤原吉隆

一犬房丸法號大通院殿廓鶯淨林大居士と號す小出村淨林寺にある所と少しく違へり子細あることなるべししらず

一安永五丙甲年藤澤遊行尊如上人巡國當寺を宿寺として諏訪より九月十六日着同廿二日出立甲州へおもむく諏訪にてよめる
 よきてふけ露もゑならぬ百草の花にはいとへ野邊の秋風

一和尚へ六字の名號と懐紙を送る其歌に
  熊野詣の時岩田川にて
 岩田川こゝろもそゝけ夏衣すゝしく渡る瀬々の白浪

一滿光寺そのさき一日市場にありしといふその跡今淨土寺小路といふ所ありされど淨土寺といふは全くいまの地へ移りて中頃の事なればうたがはしといへるたゞ宗旨を唱へていひならはしけんと云ふ説あれど其證たしかならず
 みつる夜の光さやかに寺の名も秋の夕の月にますらん

一板町村稻荷山眞言院樹林寺は當城の鬼門にあたり御願所にて伊那の壇林にして高野山金剛頂院の末なりこの寺むかし下總の國多胡より保科家所替の時引たまふ今も多胡に同號の寺あり依而保科彈正忠源正直慶長六年辛丑年開基なり今年迄百七十九年其後奥州會津へ所替の時引給ひて今にあり當時同號の寺院都合三ヶ寺なり

一境内にある所の觀音を夕顔觀音をといふ下總國多胡にある時火災ありて尊像を失ふその砌村里の打磬眉白き老父に靈夢の告ありて焼跡ちかき夕顔のうちにありと則夢の告にまかせ取出し夫より夕顔觀音と稱し夕顔の形を刻み添ふる靈驗ますますあらたかなり此の地へ移すの時多胡觀音堂下の土を運び今の堂を建つる祭三月十七八日なり此觀音も伊那八十八ケ所の札所にして御詠歌あり
 あらたかの道としきけは夕顔の花にねむりの目をやさまさん

一此寺往昔二の丸内東武武具藏の地にあり會津へ所替の時今の所へ移すと俗に言傳ふ此説あやまれるか寺の傳記に多胡觀音堂下の土を今の堂の下へ引くとあれば多胡より此地へ移すなるべしされども一寺を建立の事なればたやすからず所替のきはみ暫く假に武具藏の地にありけむなるべし

一本尊大日如来

一護摩堂は外より引くとばかり寺に言ひ傳へてその所しれざるよし峯山寺の傳にそのかみ文明寺の時護摩堂樹林寺へ引とあれば此説いよいよ明かなり

一觀音堂の南伊勢八幡稻荷三神の社あり石壇の下北側に天満宮并疱瘡神の祠あり

一鐘楼は當寺八世法印遂峯代寶暦十三癸巳年五月信州松本の鑄物師田中傳右エ門藤原吉隆狐窪に於て鑄之

一大北村東の山二町計り登りて淺間の祠あり此所中頃より家中幷足輕鐵砲矢場と成つて今専ら有之なり

一この矢場の上道北へ押し廻しぬる澤の邊より享保年中の事なりしが大北村の百姓與市といへるもの錢を穿ち出す蒲簀にて運びぬるよし夫よりも多きなどまちまちの説ありいつれも錢數多掘出し勿論皆古泉*なりしかど一通りの品にて名ある寶錢もなしとぞ其砌しばらく身分相當に時めきたれど次第に衰へ今は其名もなくなりしとぞ

一同村の先に樋ヶ澤と言うあり此澤より樋をふせて矢場の上樹林寺脇明神の下爰にて荒町と北村へ分水して日用を辨ず

一鉾持三社は伊豆箱根權現三島大明神の三社なり當地の大社にて麓より宮居に登ること凡そ五六町山聳え谷めぐりて諸木枝を連ね朱の瑞籬石の花表唐鐡の燈籠に廣前を照し神さびわたり神威他と異にして又打はへ咲ける春の花秋の紅葉の夕榮上の松風に九夏の炎暑を忘れ冬の朝雪降り積る山水の遠望等四時の佳景足りぬ抑往昔人皇五十六代清和天皇の後胤源重之従五位下兼信の子なり兄兼忠の子となると云ふ後従五位下相模守左馬助となりて相州下向の時三社へ詣で文武和歌の事を祈る其後信濃守となり此の國へ下向の時社へ詣で文武和歌の事を祈る其後信濃守となり此の國へ下向の時安和二己巳年四月伊那郡笠原庄に始めて三社を觀請し奉る笠原庄とばかり有りて所しれず天神山にも舊地ありといひ大北村にも舊地あつて近頃まで神木とて槻の朽木ありて祠をたつ今はひむろの木あり又一説に大嶋はぶちに影向ならせ給ひしばらくして小出島へ移り給ふ今小出山に権現釣根といふ舊地ありとぞ神職の方にも上古の事傳記不詳していづれ是非を分つことなし長暦三己卯年既に星霜七十一年を經て宮殿廢壊爰に於て再建立翌年長久三年辰三月遷宮神主藤原主水正雄天永二辛卯年遷宮藤原舎人義香とばかり神職の家に傳ふ

一元暦元甲辰年三社を嶋崎に遷し若宮權現と稱す此嶋崎の地名慥かならず今の若宮をその頃嶋崎と號し權現遷宮ありて若宮と云ひ改むると見へたり

一文治三丁未年又今の地へ觀請す地を穿ち平らぐの時一つの鉾出る是より鉾持權現と崇む同四年申の四月遷宮す又民俗一説にその頃若宮に日野源吾宗高といふ人あり或時西北の山にて鉾を得る靈夢度々あり其山を掘つて鉾出るによつて此地へ移し奉り鉾持權現と崇むる説あれども証すべき事なし此遷宮の時神職伊藤檜太夫正則といふ其後の神職上原林井岡井澤と名字替りぬ子細しらず當神職井岡井澤の兩家なり

一木にて作れる古器の鏡あり裏に文治の年號あり其外神輿の損したると見へて古き華表など什物の様にしてありとぞ

一當社は伊那一番の大社にて尤靈験あらたかにして一國へ仰出さる

一一の鳥居にて鉾持大權現の額今掛る所は近年改まりて平惇徳の筆なり

一一の鳥居より石垣下まで一町餘石五段凡一町半ばかり登りて石の鳥居あり左右奉寄進岩?當町中享保八卯年と彫なせる四尺ばかりの石銘あり

一石の鳥居脇に本地堂内に聖觀世音文殊薬師前立十一面觀音を安置す其脇に鐘樓あり貞享五年施主藤澤十右衛門氏春鑄物師松本住田中傳右衛門作之銘畧之

一石の鳥居上石段常夜燈籠左右に六つ宛當町寄進夫より上に八九尺計りの唐鐡の燈籠二本左右あり寳暦十一辛巳年四月願主数人畧之
 勅許信濃國總大鑄師松本住田中傳左衛門吉政作之

一神木檜木六角の瑞籬一角一間都合六間なり

一石段下左右石燈籠三つ宛奉納鉾持大權現持徳院遠海十万檀那奉寄進石燈籠貞享四月藤澤十右衛門三つづつ兩樣彫有之

一同じ並に差渡五尺計りの石の手水鉢あるいかなる謂にや當城にある三つの手水鉢と對なるよし

一本社北の脇に大神宮の社その下に金山神社あり

一中門廻廊の左右石壇有之左右木にて作る燈籠

一本社の庭左右十二神 左八幡、住吉、春日、加茂、子安、梅宮 右貴船、龍田、石清水、平野、天神 次に寳藏あり

一内陣七間に四間槻木地御社三祠屋根むねに丸十の御紋三つあり社のうしろに朝日壽永公植たる七本唐松といふあり火災に二本燒枯れて今五本あり

一金燈籠の東の方に秋葉の宮其下に琵琶神の祠あり

一拜殿舞屋繪馬堂あり本地堂は古へ大徳坊といふ坊舎なりけるとぞ

一一の鳥居内に井岡佐渡井澤織部と云ふ神職左右に住す

一祭日四月上の酉の日本祭年は神輿三社影祭年一社出る町中引廻して下り橋の上にて神輿を休む右の内神主若宮へ行き神木の向ふ藤澤川北の岸にて神事を行ふ

一建福寺の境内へ神輿を入るゝ子細はいにしへ建福寺門前に三本木といふて神木あつて此所にて神事あり慶長の頃住持神酒を供し讀經して寺中へ神輿を入るゝ事を請による其例にて今に絶せずとぞ

一手良郷に朝日壽永黒印社領五石寄附有之年々神納す此壽永といふは下伊那波合の百姓にて昔家康公甲信御打入の時波合海道に出て馬の沓を獻ず其御感あつて後所領をも下され召し出さる所堅く辭して仕へず拜受の地を近郡の寺社へ寄附す壽永の朱印と世にいひ習はせるは此事成るべし

一壽永の黒印享保年中盗難にあひて今はなしされど年々籾五俵づゝ神納する事は今も同じ

一小麥祭とて六月十八日柿祭とて十月朔日より晦日迄酉の日分けて賑ふとぞ
 壽々しめや鞁の三聲郭公 螢窓
 鹿の音にむけは鉾持の宮居かな 左立

一板町村金剛山峯山寺は昔時鳥居主膳正忠春寛永十二乙亥年建立峯山大居士を以て開基とし則ち寺號とす峯山大居士は羽州山形長源寺へ葬る代?なきによつて二拾四万石の高滅し鶴之之助殿と號し三万石を當地を拝領元禄年中まで五十六年の領主なり此寺元は大雲山文明寺といふ眞言宗の寺なり無住にて大破におよびたるによつて鳥居家にあらたに建立寺とす文明寺の本尊しれず其さき天神山にありともいふ不詳其頃本尊は今寺の上にある不動尊なり行基の作又俗説に文覺上人の作なりともいふ庭に彌陀堂あり則當寺の本尊とす護摩堂は樹林寺へ引き文明寺の頃は六坊あり所謂梅の坊花王の坊竹の坊松の坊従容軒の六坊なり此六坊を以て板町村より非持除へ越ゆる道を六衢といふとぞ不動山門の仁王は恵心の作なり延享四丁卯年四月火災に類燒す其後當家の醫師池田蓬庵一貞今の仁王を寄附していまの所に移す池田丈助作なり

一當寺の打金は通用を越えて大ひなり建立以前鳥居家看經所とて城内にあり其時の金大小二つあり大を當寺に納め小を蓮花寺の七面堂へ納むと云傳ふ

一涅槃會幅三間の大掛物行鉢廿一人前組紙鉢諸道具添其外寄附の什物品々ありといへども卯年火災に燒失す

一紅厚板山水草花惣縫の打敷あり裏に爲清凉院殿月山正白大居士御菩提也奉寄進天嶽院殿于時寛永十一甲戌年閏七月十三日長源三世梵作代なり

一紫打敷鶴龜松竹の惣紋腰巻と見へたり裏に爲自凉院殿菩提とあり

一赤地古金らん二拾五丈長さ三間のけさ繻珍黄唐茶二拾五丈の袈裟又大中の屏風幕等は今にあり

一鳥居家の廟所寺の上にあり
 鳥居主膳正忠春忠政之末孫也
  本光院殿覺林宗智大居士 寛文ニ壬卯年八月朔日攝州大阪にて卒去
   栗東寺にて火葬骨を當寺へ納む
  自凉院殿悟芳貞心大禪定尼 萬治三庚子年五月七日
   本光院殿の實母江戸駒込江岸寺にて火葬骨を當寺へ納む

一長源三世日州梵作羽州山形より隨従し來て則當寺の開山と稱す本山は奥州岩城長深寺なり

一開基の節鳥居家より四町八反の山を寄附せらる

一鐘樓門あり鐘の銘畧す
 享保第四籠集己亥天春二月十有八英
 信陽伊那郡高遠金剛山峯山禪寺第八世 明了山謹書
  甲陽横澤住
   鑄物師 沼上治左衛門吉品
       同 八左衛門吉寛

一不動尊の境内に秋葉の白山稻荷の三社あり

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