注解「木の下蔭」1001-1010

1001_甲山

一高遠の城は信州伊那郡笠原の庄にて甲山の城といふかぶと山と名付るいはれをしらず其形を以て云ふにや東に山聳え西に嶮岨の棧道あつて南に三峯川北に藤澤の流れをかゝへて伊那第一の要害なりとぞ其嚮元暦元年笠原平吾頼直といふ者築之といへり其後世々の興廢治亂等の事は古き書ともに普く記し侍れば今更言ふに及ばずたゞ民俗の言ひ習はせるよしなし事の一二をあげて書顕すのみ

「かぶと山」は【写】では「兜」を宛て「兜山」としている.兜山/カブトヤマあるいは甲山/カブトヤマは,以下のように全国的にみえる地名である.

兜山
北海道泊村,秋田県湯沢市,山形県米沢市,酒田市,栃木県宇都宮市,新潟県南魚沼市(大兜山,小兜山),石川県金沢市,山梨県笛吹市,京都市伏見区(深草兜山町),島根県雲南市,愛媛県新居浜市(上兜山,下兜山),福岡県久留米市,大分県玖珠町
甲山
秋田県大仙市,長野県軽井沢町,愛知県名古屋市瑞穂区(甲山町),大阪府岬町,兵庫県姫路市,兵庫県西宮市,岡山県津山市,井原市,広島県安芸高田市

傾向として,東北日本にでは兜山,西南日本では甲山と表記されることが多い.甲山をコウヤマあるいはコウザンと読ませた地名も西南日本に確認され,秩父の武甲山/ブコウザン(埼玉県横瀬町)や神戸の六甲山/ロッコウサン(兵庫県神戸市東灘区)はよく知られるところである.ほかに鳥兜山や鳥甲山としてトリカブトを冠する山もみえる.
信長公記』(巻之十五)の天正10年(1582年)3月の記事には「高遠之城」「高遠城」の攻城について,『甲陽日記』の天文16年(1541年)3月の記事には「高遠山の城」の縄張りについて記されている.

笠原平吾頼直は,『平家物語』(長門本巻第十三,延慶本巻六)や『源平盛衰記』(巻第二十七)の「横田河原合戦時」や「信濃横田川原軍事」の記事中にみえ,「信濃武者」の「かさはらのへいご」や「笠原平五」として知られる.『東鑑』の治承4年(1180年)9月7日の記事にも「笠原平五頼直」がみえている.12世紀末の出来事をまとめ,13世紀から14世紀にかけて成立したこれらの書物には「高遠」に関する記事はなく,笠原平吾頼直が高遠城を築城したことを示す内容も含まれていない.

高遠藩士の星野葛山(星野常富)は,寛政12年(1800年)までに『高遠記集成』を編集している.冒頭の「笠原頼直略傳附高遠築城」では,『木の下蔭』で伝えられた記事を引き継ぎ,笠原平吾頼直が元暦年中に高遠城を築城したとしている.
『高遠記集成』では,元暦元年(1184年)6月に笠原氏に本領が安堵され,次のように築城の経緯と要害としての地勢を記している.三峰川や藤澤,東の山など『木の下蔭』の記事を踏まえつつも,より詩的に地勢の描写を展開している.

天神山ハ分内狭ケレハトテ東月蔵山ノ尾崎ヲ見立城郭ヲ築キ高遠ト号ス此城南ハ巖石俄々ト聳ヘ下三峯川ノ流ニ臨ミ西山ハ山険ク上ハ松柏枝ヲ交ヘ下ハ蒼苔道滑ニテ藤澤ノ下水ヲ帯ニス東一方コソ月藏山ノ麓ニ連リ平場ナレトモ塀堀重々ニ引廻シ木柵ヲ構ヘ檜ヲ設守城堅固ノ要地トナレリ其形兜鍪ニ似タレハトテ甲山トモ申ケリ今按ニ甲山トハ築城ノ以前ヨリイヘルナルヘシ

甲山の命名については,築城以前であると考証しており,笠原氏の築城をもって「高遠」という地名が名付けられたとしている.また,地形が「兜鍪」に似ているという推測も『木の下蔭』から引き継いでいる.

伊那郡笠原(の庄)は,『延喜式』(巻四十八)で「御牧」とされた「信濃国」の「笠原牧」が営まれたところと推定されてきた.「延喜式神名帳」ともいわれる『延喜式』(神名下,巻十)では,信濃国高井郡の項に「笠原/カサハラノ」神社がみえる.信濃国の笠原牧の比定地として,伊那郡(現在の伊那市)および高井郡(現在の中野市)の両地をめぐって検討されており,『平家物語』ほかの笠原平五の本拠地として両地が考察され,両地ともに本拠であったが,先後関係があったとする説明もみられる*1).
笠原の地名は,信濃国の両地も含め,各地にみえる.

笠原
茨城県水戸市,群馬県みなかみ町,埼玉県鴻巣市,埼玉県小川町,埼玉県宮代町,福井県高浜町,山梨県山梨市,長野県伊那市,長野県中野市,長野県小海町,岐阜県多治見市(笠原町,笠原川),滋賀県守山市,兵庫県加西市(東笠原町,西笠原町),高知県香南市,福岡県八女市(笠原川),宮崎県西都市,宮崎県門川町

笠原の地名の分布は,東北にはみられず,関東中部地方にやや多くみられる.
小笠原/オガサワラの地名は,小笠原諸島がよく知られているが,16世紀の小笠原氏による発見に因むものとされる*2).小笠原氏は,甲斐国小笠原の地に興ったといわれるが,小笠原の地をめぐって.巨摩郡の原小笠原(山梨県南アルプス市)と山小笠原(山梨県北杜市)の両地が比定の議論にあがっている.笠原牧との関連でいえば,小笠原牧あるいは小笠原御牧がしられているが,『延喜式』に記録された甲斐国の牧としては,御牧の「穂坂牧」,「真衣野牧」,「柏前牧」の3牧のみで兵部省管轄の牧はみえない.『東鑑』の建暦元年(1211年)5月19日の記事では「小笠原御牧々士/オガサハラノミマキノボクシ」の「喧嘩」にかかる係争の沙汰について記されている.13世紀のこの「小笠原御牧」は,『延喜式』が編集された10世紀には「小笠原」を冠する「御牧」がみえないことから,甲斐国の御牧が継承された牧であるとも考えられる.

以上より,高遠の当地では,12世紀に「高遠の城」築城があったことが伝えられており,「笠原」氏という牧における監察権力とも結びついた軍事勢力により造営されたと考えられてきたことが分かる.12世紀は西国から東国へと,列島の権力構成が刷新されようとする変動期にあたり,西国とも連絡があった従前の「甲山」が,東国を基盤とする勢力によって新たに「高遠」へと置き換わろうとする過程を確認することができる.
ただし,「高遠の(城)」は「高殿/タカドノ(城)」にも通じていることに注意したい.また,「甲/カブト(山)」も「コフド(山)」と音が通じている.高殿/タカドノはたたら製鉄と関係がある施設であった.また,コウドノは,高遠の近隣でもある諏訪地方の信仰においては,神殿/ゴウドノと作られる.『諏訪上宮社例記(写)』によれば,神殿は,現在の諏訪大社上社前宮に構えられた大祝の「住宅」であり,13-15世紀頃の諏訪の祭政において中心的な施設をなしていたとも考えられている*3).
以下の註解により,問題となる「高殿」の可能性も検討する.

【写】との異同
「聳え」は「聳へ」
「及ばず」は「およばず」
「言い習はせる」は「いひあらはせる」
「よしなし事の一二をあげて書顕すのみ」は「よしなしことの一二をあげて??かきあらはす」
参照
1)平泉佐由子/延慶本『平家物語』横田河原合戦記事における笠原平五頼直の活躍 : 伊那の源平の攻防を背景として/2003年/日本文藝研究,55(3)/pp.21-38
2)例えば,北垣恭次郎/地理文庫日本の誇. 第1巻 関東/1925年/蘆田書店/p.242
3)皆神山すさ/諏訪神社七つの謎ー古代史の扉を開く/2015年/彩流社/p15,p259

1002_姥竹

一笹曲輪にある所の竹を姥竹といふて尺八に用ひて奇とす姥竹と言へるは姥が懐の地へ続けるゆへに名付るにや

笹/ササ曲輪が残された城郭はいくつかみられる.

ササ曲輪を有する城郭
名胡桃城(群馬県みなかみ町),箱崎(群馬県みなかみ町),高野平城(群馬県東吾妻町),白井城(群馬県渋川市),平井城(群馬県藤岡町),鉢形城(埼玉県寄居町),松山城(埼玉県吉見町),鳥羽山城(静岡県浜松市天竜区)

ほとんどのササには「笹」の字が当てられており,群馬県や埼玉県など北関東の城郭に使用されている傾向がみえる.また,本丸や二の丸といった主要な郭ではなく,副次的な小郭にの名称となっている点はどの城郭にも共通し,ササは小さいを意味するとも考えられている*1).高遠城の笹曲輪も確認されているいる郭施設のうち最も小さい曲輪となっている.

姥竹は,「山椒大夫」の伝説でも知られる.伝説では女中あるいは乳母として登場する.尺八を題材にした狂言の「楽阿弥」にも尺八を指示するものとして言及されている.

姥ケ懐,姥懐
青森県八戸市(姥久保),鰺ヶ沢町(姥袋),宮城県村田町,秋田県能代市,由利本荘市,山形県上山市,福島県福島市,南相馬市,伊達市,猪苗代町,長野県長野市(姥久保),立科町,静岡県富士宮市(叔母ヶ懐/オバガフトコロ),愛知県瀬戸市(祖母懐町/ソボカイチョウ),徳島県阿波市,宮崎県木城町(鵜懐/ウノツクロ)
【写】との異同
「所」は「ところ」
「ゆへに名付るにや」「ゆへ名付にや」
参照
1)レファレンス協同データベース/中世(関東地域)の城の笹曲輪(ささぐるわ)について



1003_法堂院郭

一法堂院郭は今の桂泉院の舊地なりよつて龍澤山の部にしるす

法堂院

1004_二の丸

一二の丸内東の方今の武具藏は樹林寺の舊地と云ふ説あれども不詳是も稻荷山の部に記す

「云ふ」は「いふ」
「不詳」は「詳らず」

1005_金山坂

一武具藏の所より勘助曲輪へ下る坂を古しへは金山坂と唱へけるよし二の丸埋門の西の方折りまがりたる堀を今も鍛冶堀といへるは思ふに昔は此堀の中にて鍛冶の業せし時上の方に金山彦の神を勧請せし故の名なるべし

鍛冶堀
埋門
金山彦
【写】は脱落

1006_蓮池

一土戸門の外東の方沼塹を蓮池といふいにしへは蓮ありと言ひ傳へぬれども絶へてなかりしを中頃命あつてうへにおほひぬる樹の枝をおろし新に蓮を植させ給ひしより今に年々盛なり

蓮池
「中頃」は「中ころ」
「給ひし」は「たまひし」


1007_稲荷

一當城の鎭守稻荷三社所謂勘助曲輪笹曲輪厩の三所なり追々命あつて年々神威を増し愛度宮居なり

稲荷
「所謂」は「謂所」
「勘助」は「勘介」
「愛度」は「?度」

1008_三の丸

一三の丸堀東北の方に窪みたる所あり鳥居家の時分小姓と坊主不義の事ありて此所へ埋められし跡といふ實否を知らず

「堀」は「城」
「知らず」は「しらず」

1009_櫻木

一三の丸家老屋敷の内に幹五抱餘り枝は拾間に過ぎて蔓り百とせをもこゆる櫻木あり花のころは色香妙にして文人筆を擲つおしむらくはしるべき故なき事をされども又かほどの一木を無下に書き洩さんも本意なく筆をたつるのみ


「拾間に過ぎて」は「拾間?」
「ころ」は「頃」
「しるべき故なき事を」は「しる?きの故なき事を」
「されども又」「されど又」

1010_勘助屋敷

一おなじ並びの普請小屋は西龍寺の舊地と俗に云ひ傳ふ其證慥ならず保科家の頃の古繪圖には山本勘助屋敷とあり思ふに勘助當城普請の頃暫く在住せしにや

山本勘助
「其證慥ならず」は「その證?」
【写】は「保科家の頃」以下が脱落


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