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憐憫の毒がまわる前に

「かわいそうに」

私は、この言葉が嫌いです。頭で理解する前に、脊髄反射で嫌っています。
なんでこんなに嫌いなんだろうかと考えてみると、アルバイトをしていた頃のとあるエピソードがきっかけでした。

ものすごく仕事のできる、鉄腕アルバイターのA子さん。
マネージャーのMさんからの信頼も厚く、チームのとりまとめ役でした。

そこに入ってきたのは、脱サラしたD太さん。
さまざまな業界を渡り歩いてきたD太さんは、A子さんよりもずっと年上。人当たりも良く、出勤数も多いD太さんは、職場でも歓迎されていました。
D太さんはA子さんと共通の趣味があったようで、休み時間にはよく話し込んでいました。1ヶ月も経たないうちに、ずいぶん仲良くなっていたように思います。

そんなD太さんは、仕事がぜんぜんできない人でした。
何度も同じことで間違えてしまい、仕事のスピードも遅く、フォローする人が常に必要な状態です。
A子さんは面倒見のよい人だったので、D太さんに熱心に仕事を教えていました。それどころか、D太さんが働きやすいようにする方法を、常に模索していました。

A子さんの努力を知ってか知らずか、マネージャーのMさんは成果主義の人でした。そのため、D太さんへのあたりも次第に強くなりました。
そのうえ、元々Mさんの仕事の仕方はかなり乱暴で、D太さんもまた、Mさんや仕事に対して不満を抱いていました。実際、D太さんはA子さんへ不満をこぼしていました。

「D太さんなんだけど、あれ、どうにかなんない?」

D太さんがアルバイトとして加わって半年後のことです。D太さんの仕事に対するスピード感や精度は、入社当初と比べてあまり変わっていません。
そんな折、仕事を終えた私は、帰りがけにMさんにばったり会いました。Mさんは相当ご立腹のようで、D太さんへの文句をつらつらと述べました。私は曖昧にうなずいて、その場を去りました。
翌日。念のためMさんから言われたことをA子さんに報告すると、A子さんは綺麗に整えた眉をひそめて言いました。

「それ、本人には言ってないよね?」
「Mさん、本人に面と向かって言うから……ああ、かわいそうに」

さて、D太さんは本当に「かわいそう」なのでしょうか?

力のある人、お金持ちの人、能力の高い人、地位の高い人。いわゆる「強者」と呼ばれる人たちがいます。
力のない人、貧しい人、能力の低い人、地位の低い人。いわゆる「弱者」と呼ばれる人たちがいます。
「かわいそう」と呼ばれる人たちは、たいていの場合「弱者」です。そして、「かわいそう」と呼ぶ人たちは、たいていの場合「強者」です。

弱者は強者に脅かされると、たいていの場合、別の強者によって保護されます。今回の場合、D太さんがA子さんに保護されているような形です。
では、D太さんはA子さんの保護下から出るのはいつになるでしょうか。

私の予想では、A子さんがD太さんを突き放さない限り、永久に皆無です。
弱さに胡坐をかき、向こうが悪いと声高に叫び続けると思います。
弱い限り、誰かから守ってもらえますし、仕事も無理のない範囲までしか与えられません。アルバイトなので、仕事量で時給が大きく変わるなんてこともありません。つまり、「楽」なのです。

そして、弱い立場のD太さんを責めるのは、「弱い者いじめ」になりかねません。強者が弱者を、その弱さを原因として責めるのは悪いことです。
弱者が強者をいじめるのは、ただの抗議活動ですが、強者が弱者をいじめるのは、悪行のように語られます。

私が「かわいそう」という言葉が嫌いになったのは、おそらく、D太さんの負け犬根性のようなものが垣間見えて、その卑しさが許せなかったからだと思います。

とうとうと述べてきましたが、そろそろ沈黙しなければなりません。
強者の味方に立ちすぎると、今度は強者を憐れんで、弱者を憎むような形をとってしまうからです。

実際、A子さんはMさんに対して敵対感情を持つようになり、職場の雰囲気がピリピリとし始めました。MさんがA子さんに強く言われている様を見て、他のアルバイトがA子さんへ敵愾心を持つようになり、陣営が二分されかけていました。
私はといえば、争いの火ぶたが落とされる前に、スタコラサッサとアルバイトを辞めてしまいました。

憎悪や復讐心は争いの火種となると言いますが、憐憫もまた同じこと。
憐憫の毒が回る前に、美しいものや尊いものを口にしたいものです。

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