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学校が嫌いになっても、勉強は嫌いにならないでください。

学校と塾との往復で、毎日毎晩勉強尽くし。

私が小学生の頃から、そういう"可哀想な子"はいた。
はたから見れば、「ちょっとくらい遊ばせてあげなさい」と言いたくなるほど教科書漬けで、学校に来れば偏差値の話題ばかり。

小学生だった私にとって、彼らは間違いなく「裕福」だった。可哀想より、羨望の気持ちが強い。

私といえば、彼らから見れば相当嫌な奴だった。家が貧しかったから塾も余計な参考書もなく、娯楽といえば図書館の本だ。
読書は好きだった。当時はミステリーが好きで、無駄な知識も得たものだ。おかげで文章を読むのは苦でなく、勉強も謎解きのようで好きだった。

だが、勉強漬けの人から見れば、自分より遊んでいる奴が、自分より高い点数を取ってヘラヘラしているのだから、それはもう相当嫌な奴だっただろう。
私も私で、理解できない人が「なぜ理解できないのか」が分かっていなかった。そのため、人にモノを教えることが苦手だった。

彼らからすれば、私はなんでも覚えているコンピューターみたいなものだった。
私からすれば、彼らは言葉の通じない宇宙人みたいなものだった。

だから、言葉の通じない宇宙人ばかりの学校が、嫌いだった。
学校に行かない権利と、勉強をしない権利があるなら、私は迷わず学校に行かない権利を貰うだろう。

「勉強は嫌いだけど、学校が好きならそれでいい」という人がいる。教師を目指していたあの子も、毎日勉強漬けだったあの子も、居残り勉強をしている生徒を見ていた先生も、そんなことを言った。

だが、学校なんて3年か6年か、実に短い間のものなのだ。

確かに、10代の3年や6年は先の長い人生にとっては掛け替えのない3年で、6年だ。そこで繋がった友人は、一生の宝になるかもしれない。
一方勉強は、一生続く。大学に行っても、就職しても、転職しても、何をしても、結局何かしら勉強し続けなくてはいけない。
つまり、勉強が嫌いということは、一生嫌いな奴と付き合っていかなければならない、ということだ。

だからもし、学校を好きになる努力と、勉強を好きになる努力のどちらかを貰うとすれば、後者を貰った方がいい。


「私、先輩みたいに勉強できないから」と言い訳する後輩ちゃんへ。
「人生は勉強の連続なんだぜ」と思う、午後2時45分。

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