小説『崩』
「朱音(あかね)も俺のこと、心の中では嫌いなんだろ」
こぼれてしまいそうなほど大きな瞳は、彼がひどく傷ついたことを明瞭に表していて、赤澤朱音(あかざわ あかね)は息が詰まった。
ダメだ、間違えた。どこで? 何を?
「……そんなことない」
「嘘だ、絶対に嫌いだ、面倒そうな目をしてただろ、今だって答えるのに間があった」
「だから、そんなことないって」
「お前はそればっかり、『そんなことない』ってんなら、どんなことなのか言ってみろよ」
「それは屁理屈だろ」
こうなってしまうと、論理的に淡々と、それでいて流れるように言葉をつむぐ普段の理知的な彼は、すっかりその身を潜めてしまう。
ベッドに座った彼を立ったまま見下ろして、朱音はその場に縫いつけられたように立ちすくんだ。
金田黄色(かねだ きいろ)──きいろ、という本名だ──はどうにも、精神的に不安定なところのある男だった。
朱音とは大学時代からの友人で、陰気で面白味もない(と少なくとも朱音自身は思っている)朱音のことを、なぜか殊に気に入ったらしく、その華やかな容貌と人好きする性格で多くの人に囲まれながらも、いつも淋しそうな顔で朱音のあとをついて回っていた。
「朱音ってなんでさ、そんな冷たいの」
「……」
「そうやって黙ってさ、困ったな~みたいな顔で見てさ、そうしてだんだん俺のこと嫌いになってくんでしょ」
「……」
「……否定しないんだ」
「……」
少しのびた前髪からのぞく瞳は今にも涙を滲ませそうで、それでいて朱音を強く睨みつけている。
お互い卒業してからも二人の距離は変わらず、職場での心無いハラスメントでリタイアしてしまった黄色と、ただ日々の生活のためだけに仕事をこなし続けている朱音は、郊外の安アパートに同居している。
元々その生育環境からか内面の不安定さが垣間見える(そうしてなぜかそういうところが尋常でなく女性を惹きつけた)男だったが、元職場でのあれやこれやで、完全にそのバランスを崩してしまったらしい。最近はこういった揉め事が増えた。
「何とか言えよ」
「……」
こうなってしまった黄色に何を言えばいいのか、朱音にはもうわからなくなってしまった。
「そんなことないよ」と慰めようとしたときもあった。「気休めはやめろ嘘つき」と罵られた。
「その通り、面倒くさいし嫌いになりそうだ」と本心をそのまま伝えたときもあった。酷く錯乱して刃物を取り出した黄色を、押さえるのが大変だった。
「なあ! 何とか言えってんだよ!」
「……」
よく通る声が、賃貸の廊下にまで響き渡る。長い睫毛にふちどられた瞳にはすでに憎悪が燃えていて、朱音は混乱のまま泣きたくなった。
何をどう言えば良いんだ。
残念ながら、朱音には黄色のようなコミュニケーション能力や、上手に言葉を使いこなす技能が無い。圧倒的に己より勝っている存在を前に、どうすれば彼を満足させられるのかなど、検討もつかない。
あんなに仲の良い、気の合う友人が、突然宇宙人にでもなってしまったかのような、果てしない喪失感と絶望。
帰ってきてくれ、俺の黄色を返してくれ。
鼻の奥が強く痛み、視界が滲んだ。途端に生温い液体が瞳を覆って溢れ出して、頬を伝う感覚にただ呆然とした。
今日のご飯も美味しいね、と愛らしい八重歯を見せて笑っていた彼が、いったいどうしてこうなってしまったのかがわからない。立っていられなくなって、まだ柔らかいカーペットに膝をついた。
ピントのぼけた視界にも、黄色の顔から血の気が引いたのが見て取れた。
「……ごめん……怒鳴って……」
「……」
「……俺……俺、朱音に嫌われたくない……ごめん……」
ごめん、ごめんと泣きながら、彼もベッドからよろりと崩れ落ちて、朱音の元に這いよってくる。
ごめんね嫌いにならないで、とぼろぼろ泣く男を、ショートしてしまった頭のまま朱音はぼんやりと見下ろした。
走馬灯のように思い出されるのはただ楽しいだけだった日々で、記憶の中の黄色はいつだっていきいきとしていた。
美味しいと笑う顔、楽しそうに歌う顔、友を襲った理不尽に自分のことのように憤る顔、酒を飲んで気分良くとろけた顔、真っ暗な映画館で涙を流す横顔。
この男の、そんな顔を見るのが好きだった。豊かな感情を素直に透かしては水面のようにきらめいて、ただその様子を美しいと思った。
朱音よりも少しばかり背が高く、明るく話が上手で、大抵のことは要領よく器用にこなして、女性にもとにかくモテていた。悔しかったけど、羨ましかったけど、そんな黄色が一番に自分を好んでいるのが、なんだかむず痒くて嬉しかった。
「ごめん……」
ぐずぐずに濡れた顔を己のシャツに押しつける黄色を見下ろして、それでも朱音は何も言えなかったし、何もできなかった。
俺は黄色のことが、自分で思っているよりもずっとずっと好きだったのかもしれないな、と、意識の遠いところで今更何かが腑に落ちた。
正気を取り戻した男のすすり泣く声と時計の秒針の音が、朱音の脳の上澄みをすり抜けていく。
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