「なにもせずにそこにいるだけ」が一番むずかしい
良かれと思って、全身に力を入れながら熱心に語ってみても、空気は変になり、終わった頃にはクタクタになる。
どうしてこんなにうまくいかないのだろう。
「何もせずにそこにいることが、この場において一番パワフルなんだ」と感じる出来事がここ数日立て続けに起こった。
「良かれと思って頑張ったのに悲しくなる」という人へ
何もしないでそこにいることを、無価値だと感じる癖が、私にはある。
なにもしないでただ座っている、というのが本当に苦手なのだ。
イベントがあれば、運営側に回る方が気が楽だし、飲み会は幹事をする方が楽だ。「この場の役割はこれだ」と明確にあればあるほど、やりやすい。
楽しいんじゃなくて、楽だからだ。
与えられたものがあれば、その通りに遂行するし、もし具体的な役割がないなら、「この場で最適な自分の役割」を作り出そうとする。お役に立たなければと、無意識に動いてしまうのだ。
でも、「何もしなくていいから、そこにいてください」と言われるのが、一番困る。
いやいや、わたしに仕事をください。完璧にミッションをこなしますから!といいたくなる。
たとえば、結婚式の主役でさえ、「ただ主役でいるだけ」というのができなかった。私は「ピクニックウェディング」と称して、駅からシャトルバスを手配し、80人を阿蘇に集め、オリジナルの結婚式を企画した。当日も花嫁というよりは、主催者として動いていた。
黙って座っていることが、とにかくできないのだ。
「やらなければ価値がない」という思い込み
もちろん、企画が好きというのもある。楽しくて嬉しくて自らやっていることもある。それはもちろんそのままで良いのだけど、「何もしないでそこにいるのは無価値」という恐れが、私を動かしていることもよくあるのだ。
気が利くとか、サービス精神旺盛というふうに見えることもある。喜びから動いている時は、それでいい。
でも、厄介なのは微妙な境界にあるものだ。
「やったほうが喜ばれるよね?」
「ここまで求められているはずだよね?」
「知っていることは教えた方がいいよね?」
それらは「純粋な喜びや願い」からではなく、「無価値だと思われたくない」「痛みを避けたい」という思いからの行動だったりする。
そんな時は、どれだけ尽くしても結果がうまくいかない。
「良かれと思って頑張ったのに、なんだよ、やらなきゃよかった!」と不貞腐れながら夜道を歩いた回数は数え切れない。
もう十分だと思う。
そろそろ、「そこにいるだけでは価値がない」という痛みを手放してもいい頃だ。
なにもせずにわたしもみんなも幸せという世界へ
そんな人に出会ったことがある。ただいてくれるだけで幸せにしてくれる人。私もそうありたいと思う。
意識の奥底に、「奉仕しなければ存在価値はない」という強い思い込みが根付いている。それを何度も手放そうとしてきたけれど、まだまだ深いところに残っているのだと気づいてしまった。
ただここにいる。それだけでいい。
これを本当に体現できたとき、私はきっと、残りの人生を心から悦べるようになるのだろう。
「何かをしなければ存在してはいけない」という観念を、もういい加減手放したい。そのために、12月から10ヶ月の旅に出る。
以前撮ってもらった一枚の写真が、そんな時の私を支えてくれる。
写真の私は語りかける。
「なにもしなくて、そこにいてくれるだけで、十分インパクトがあるんだよ」と。
この言葉を思い出すたび、なぜか目頭が熱くなる。
「ただここにいる」ことが自然になった時の自分に、早く会いたいと思う。