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天武天皇は何者か

天武天皇は謎の人物である。
日本書紀30巻のうち、2巻を費やして華々しく天武の功績を讃えているにも関わらず、肝心のことが書かれていないのだ。

天武の生年である。
686年に崩御した記述はあるものの、生年が分からないので、当然没年齢も分かっていない。

後の時代に書かれた『一代要記』や『本朝皇胤紹運録』などには、没年齢は65歳と記されている。
逆算すると天武は622年生まれという事になるが、ここで大きな問題が出てくる。

同母兄であるはずの、天智天皇が626年生まれなのである。

即ち、天武は天智より年上ということになり、そうすると何故、兄である天武が先に即位できなかったのかの説明がつかなくなる。

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天智と天武の両親は、舒明とその皇后である。
舒明が崩御したのを受けて、皇后が後を継ぎ、皇極天皇となった。

皇極の本名は宝皇女(父が天皇ではないので正確には宝女王)という。
舒明に嫁する前に、高向王の妻となり、漢皇子を生んだという経歴がある。
高向王は、用明天皇の孫という説明が付いている。
用明とは聖徳太子の父であり、太子の下に4人の皇子がいたが、高向王という名はどこにも出てこない。
漢皇子も、宝皇女が生んだという記述があるだけで、その後ぷっつりと書記に出なくなる。

高向王とは何者なのか。
「王」という称号が付いているのだから、王族の末か、あるいは後に創作されたものであろうか。
天皇となる人物の父親が、単なる貴族か外国人では、壬申の乱の折にあそこまで民意は天武を支持しなかっただろう。
そして名に「高」と付くからには、母方が高句麗系だった可能性がある。

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世に名高い、大化の改新。

首謀者は当時20歳の天智(中大兄皇子)とされているが、実際に指揮を執ったのは4歳年長である天武、即ち漢皇子ではなかったかと推察する。

蘇我入鹿が殺された際、舒明の皇子で、天智の異母兄である古人大兄皇子が、
「韓人が入鹿を殺した。吾が心痛し。」
と言ったというのである。

「韓人」とは誰を指しているのか。

中大兄皇子に韓との関係性は認められない。
やはり漢皇子の父が高句麗の血を引いていたことを表すのではないだろうか。

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いくら父が違うとはいえ、同母兄の漢皇子は中大兄にとって煙たい存在だったのだろう。
中大兄は自身の娘を4人も、漢皇子に嫁がせている。
その中には、後の持統女帝も含まれていた。

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天智の死後、(天智の死については暗殺説もある)壬申の乱により弘文天皇に勝利した天武。
その即位に際して、いささか奇妙な逸話が残っている。

三種の神器のひとつ、草薙剣が祟りを起こしたというのである。

これは天武の即位が、必ずしも正統なものではなかったことを暗示している。

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天智と天武、その諡号にも謎が隠されている。

「天智」
周の13年、武王は君主となって天下を平定した。一方、商(殷)の紂王は甲子の日の夕刻、天智玉を身に飾り焼身自殺した。その時、四千の玉が焼けたが、天智玉の五つが焼け残ったので、武王はそれを戦利品とした。

「天武」
天は(周の)武王をたてて兵をととのえ正義を助け、悪しき者を正した。また「諡法」に言うには、威強く徳に優れたもので、よく禍いや乱世を安定させ、人民を刑罰によく服従させ、大志をもって窮することの無い者に「武」と̪諡する。

天智は、殷の紂王
天武は、周の武王

だということである。
即ち、前の暗愚な王朝を直接倒し、革命を起こしたと見られていたのだ。

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運命の皮肉といおうか、天武の血筋は称徳女帝の代で途絶え、再び天智系の白壁王が光仁天皇となって、天智の血統は復活する。

光仁の子、桓武天皇があれほど平安建都にこだわったのも、そのあたりの事情があったのかもしれない。

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