短編小説「家族写真」


 お酒に強くない彼は、ビールを二杯も飲むと饒舌になった。
 一杯目ではお互いの近況報告をし、二杯目では彼の営業に回る取引先の愚痴と二人の息子の話をして、そして三杯目にはいつも決まって、初めてする話をしてくれた。雑居ビルの五階にある半個室の居酒屋は、一昨年から通いつめたせいか、まるで私たち二人の小さな家のようにさえ思えた。
「九回裏でサヨナラ満塁ホームランが出たら、だれだって奇跡だって思うだろ。だから、プロポーズしたんだ」
 彼はそう言って、三杯目のビールに口をつける。上着のポケットから煙草を取り出し、黄ばんだ壁紙の上で回る換気扇に向かって煙をくゆらせた。
「その時、たまたま一緒に試合を観ていたのが、今の奥さんだった。もしきみと付き合っていたら、きみにプロポーズしたよ」
 私は彼の耳まで赤くなった顔を見つめ、上目遣いに覗きこむ。
「本当に?」
「当たり前だよ」
 彼は目を伏せたまま何度も頷き、残りのビールを飲み干すと、店員に手をあげておかわりを注文した。
「今日は何時までなの?」
「奥さん、子供つれて実家に帰ってるから、泊まっても大丈夫だよ」
 彼は分厚い手のひらで私の左手を撫でつけ、私も彼の指輪のない右手をさすり返す。彼はわずかに頬を窪ませて、照れくさそうに微笑む。彼の手は私よりもずっと温かく、シャツからはほんのりと甘い、他の家の柔軟剤の匂いがした。
 店員が新しいビールと取り替え、先に注文していた厚焼き卵と、粗塩をまぶした枝豆をテーブルの上に並べた。お腹をすかせた彼が箸を伸ばしかけたところで、私は「ちょっと待って」と止めて、テーブル下のバッグから携帯電話を取りだした。四角い枠に料理を収めるように構えると、シャッターボタンを押した。
「ほんとに写真すきだなぁ」
「いいじゃない。何でも写真に残しておくと、後で見返せるのよ」
 私は画像を保存すると、今度は彼に向かって冗談まじりにカメラを向けた。
「ねぇ、あなたも映ってよ」
 彼はいつも通り首をふって嫌がったけれど、私は構わずにシャッターボタンを押した。カシャッという機械音が店内に響いて、煙草を灰皿の底に押しつけて俯く彼が画面に切り取られる。でも、その写真は不思議なことに、目の前の景色とどこか違っている。保存した画像をよく見てみると、彼の隣には、なぜか見覚えのない幼い男の子も一緒に写っていたのだ。
「え? なにこれ」
 私が驚いて声をあげると、彼は私の携帯電話をとりあげて画面を見た。
「俺の顔、赤いねぇ」
 彼は写真に映る自分の顔に可笑しそうに吹き出し、運ばれた四杯目のビールに口をつけた。私はもう一度、携帯電話の写真を確かめてみる。やっぱり、男の子が写っている。彼には見えていないのだ。
 簾で区切られた個室の周りを見渡しても、子供は一人もいない。声だって聞こえない。けれど、画面には三歳くらいの男の子が彼の体に寄りかかり、歯を出して笑い、楽しげにピースサインを向ける姿が映っていた。
「ねぇ、あなたの子供の写真みせてよ」
「いいけど」
 彼は不思議そうに首をかしげ、自分の携帯電話を取りだした。待ち受け画面には、まだ一歳にも満たないであろう赤ん坊と、さっきの子と同じ年くらいの男の子が映っている。二人とも瞳が大きくて肌の色が白く、大人しそうに見える。私の携帯電話に写った男の子とはまるで別人だった。
「かわいいだろ。俺、こいつらと毎晩一緒に眠ってるんだ。夜中に怖い夢を見るらしくて、時々泣いて起こされるんだけど全然かまわない。俺が抱きしめてやるとすぐに眠るよ」
 彼はそう言って、携帯電話の待ち受け画面の子供たちを誇らしげに見つめる。私も、もう一度自分の画面を見た。男の子は細長い一重の瞼をしていて、その重たそうな目つきはどことなく私に似ている。
 でも、くちびると眉の平らな形は、なぜだか彼とよく似ていた。

 その夜、居酒屋から私のアパートまで移動すると、酔っぱらった彼はベッドに入るなり、すぐに眠ってしまった。
 私はさっきの写真のことが気になって、携帯電話を取り出し、彼の寝顔に向けて、もう一度写真を撮ってみた。シャッターを切ると、やはり、さっきと同じ男の子が映りこむ。もしかして心霊写真なのかと疑ったけれど、男の子は頭の上から手足の指先まで、はっきりと写っていて、本当にそこにいるみたいだった。気味の悪さも不思議と感じない。
 男の子は彼と私の間に横たわり、私の服を掴むように丸めた左手を伸ばして、心地よさそうに寝息を立てている。その姿は、まるで私たち二人の子供のように思えた。
 彼はカメラのフラッシュに眩しそうに目をこすると、子供をあやすみたいに私の背中を叩き、再び眠りの中に落ちていった。

 翌日、仕事の休憩時間にランチに出ると、私はいつも通り、手をつける前に携帯電話で写真を撮った。プレートに盛りつけられたパスタとサラダ。画面の四角い枠に収めて、シャッターボタンを押す。すると、そのとき私の向かいの席に、だれかが座っているのが見えた。
 画面に写ったのは、昨夜に見た男の子だった。
 男の子は反対側の椅子から前のめりに乗り出し、僕にもちょうだい、と言っているみたいに私のお皿を指さしている。
「え?」
 私は慌ててテーブルの反対側の席を確認する。けれど、椅子には私のバッグを置いているだけで、男の子はもちろんどこにもいなかった。
 その後、私はあちこち場所を変えて、試しに写真を撮ってみることにした。会社への通勤途中の道端、近所のスーパーマーケット、誰もいない自分の部屋。周囲から不審な目で見られることも多かったけれど、写真になにが写るのかが気になって仕方がなかった。その結果、男の子は驚くことにどこでシャッターを切ろうとも、いつも決まって画面の中に姿を現した。
 道路では電柱の後ろに隠れんぼをしたり、スーパーのお菓子売り場でチョコレートをねだったり。部屋では私の膝の上に頭と腕をべったりとつけて眠っていたりと、男の子はまるで私の子供のように振る舞った。私がシャッターを切るときにカメラ越しに微笑みかけると、男の子はふっくらした頬を弾ませて、細い目が余計につぶれるほど喜ぶ表情を見せた。
 私は写真に写る男の子を見るたびに、えくぼが窪む人なつっこい笑顔から、彼のことを思い出した。いつかは子供が欲しかったし、できれば彼との子供だったら、と思ったことは何度もある。その子供が、今、目の前に見えていた。もちろん、彼が怖がるといけないから、このことは黙っていることにした。

 一週間後、私は買い物ついでに駅前の家電量販店のカメラコーナーに立ち寄った。
 蛍光灯で眩しく照らされる店内には、サンプル用の子供の写真パネルがいくつも吊り下げられ、辺りは何組もの家族連れで賑わっていた。子供たちが通路を元気よく走り回り、大人はカメラを片っ端から手に持ち、悩ましげに確かめている。私は家族連れを避けながら歩き、レジの店員に声をかけた。
「すいません。この中で、子供が一番きれいに撮れるのってどれですか」
「失礼ですが、カメラは初心者でしょうか」
 店員の問いかけに頷くと、店員は家族連れを通り越して、三脚を肩にかけた中年男性たちが立ち並ぶ一角に案内し、そのうち一台を選んで私に手渡した。
「写りが良いとなると、やはり一眼レフでしょう。種類がたくさんありますが、まずはこのあたりだと、女性でも扱いにくくない大きさだと思います」
 店員が差し出したのは、大きくて頑丈なカメラだった。両手に重みがずっしりと伝わる。おそるおそる右目に近づけて、カメラのファインダーを覗いてみると、目の前の景色が四角い枠に切り取られた。カメラを色んな角度から見るために裏返してみると、レンズはまるで巨大な目のようで、前から覗きこむと口を開けた自分の顔が映った。
「こうやってオートモードにしておくと、だれでもすぐに撮れますよ。慣れたらマニュアルモードに切り替えて、ここと、ここをいじって・・・」
 店員はカメラのボタンやダイヤルを操作しながら熱心に説明してくれた。私は店員の説明に一つずつ頷きながら、サンプルの色鮮やかな写真を確認し、男の子のことを考えた。
「今日はパンフレットを差し上げますので、ご検討されますか」
「いえ、これを買って帰ります」
 私は遠慮がちに薦める店員の言葉を遮るように返事をした。レジで支払いを済ませると、箱に入れられた新品のカメラは、私のものとなった。

 マンションに帰り着くと、箱を早速開けて、店員に習った手順でセットをする。カメラのダイヤルをオートモードにして、夕暮れ時の部屋の中に向けて構えてみた。シャッターボタンに右手の人差し指を添えて、指先で強く押しこむ。
 カシャッ。
 そこに写ったのは、あの男の子だった。そして、隣には彼が立っている。しかも、彼はいつもの仕事帰りのスーツ姿ではなく、紺色のセーターとジーンズという、今まで一度も見たことのないラフな格好をしていた。
「え?」
 私はカメラから目を離し、部屋の中を確認した。彼はどこにもいなかった。
 カメラをもう一度構えると、今度は声が聞こえてきた。
「ママ!」
 声を出したのは、さっきの男の子だった。まだシャッターも切っていないのに、男の子は私の前に姿を現している。それどころか、男の子は突然動き出し、こちらに向かって駆け寄ってくる。男の子は私の右足にしがみつくように腕を伸ばし、私の顔を上目遣いに覗きこむ。隣の彼も私の傍まで歩み寄り、男の子の頭を手のひらで優しく撫でた。
「え? どういうこと?」
 私の問いかけに彼は答えず、その代わりに口元に穏やかな微笑みを浮かべて、私の肩に手を置くような仕草をした。
「ほら、抱っこだってよ」
 彼は男の子を抱きかかえて、私の腕へ運んでくる。私は左手を曲げて、しっかり受け止めようとする。けれど、男の子に重さは少しもない。肩に置いた彼の手も触れられている感触はなかった。でも、私の目の前には、確かに彼にそっくりな男と、彼と私の息子のような男の子がいた。
 男の子は私の腕の中で楽しそうにはしゃぎ、私の首に両腕を回す。男の子の重さは感じないのに、耳のすぐ近くから「ママぁ」と高い声がする。彼は「重たくなったよなぁ」と感慨深げに呟き、男の子の柔らかそうな髪をぐしゃぐしゃと撫でつけた。

 それから、私がカメラのファインダーを覗くたびに、二人は私の前に姿を現した。最初の数日間は、朝になると二人が突然いなくなるのではないかと思っていたけど、彼らは毎日私の前に現れて、朝と晩の食事を共にし、夜には同じベッドの上で眠った。それは、今まで私がどんなに望んでも、決して叶うことのなかった光景だった。
 私は外でも二人を見られるようにと、カメラに付属のストラップの紐を通すことにした。首にかけられれば、会社に行くにも、休憩時間にランチに行くにも、毎日カメラを持ち歩ける。不便なことと言えば、カメラが大きくて目立つせいか、シャッターを切ったり、ファインダーを覗いたりしていると、店員から注意されることが増えたことだった。それに、カメラは想像以上に重たくて、動くたびに腕に当たる上に、首と肩もひどく凝った。
 それさえ我慢すれば、上司から頼まれた書類のファックスを忘れて小言を言われたり、彼からメールの返事が来なかったり、なにか嫌なことがあるたび、私はいつでもカメラを覗くことができた。カメラを覗けば、大好きな彼と、私たちの息子がたちまち現れ、二人の姿に束の間見入った。
 私は二人が消えてしまわないように、毎日欠かさず写真を撮り、大量に買い貯めた写真用紙にプリントすることにした。彼が夕飯の準備を手伝ってくれる姿。息子がお風呂に入るのを嫌がる姿。あらゆる場面でシャッターを切って、二人の姿をなるべく多く手元に残した。


 翌週の木曜日、仕事終わりに待ち合わせ場所の居酒屋に行くと、彼が先に席についていた。右手で煙草を吸いながら、左手に持つ携帯電話を眺めている。彼の背中は前屈みに丸まっていて、その後ろ姿は毎日家で見ている彼とそっくりだった。私は思わず吹き出しそうになるのを堪えて、彼に声をかけた。
「遅くなってごめんね」
 私に気がつくと、彼は携帯電話を慌てて閉じ、スーツのお尻のポケットに押し込んだ。
「あぁ、いいよ。お疲れさま」
 彼は私をまじまじと見つめ、ほんの少し首をかしげた。
「なにか良いことあったの?」
「え、どうして?」
「いつもより楽しそう」
 彼はそう言って、運ばれてきたビールを引き寄せ、枝豆に手を伸ばした。彼は店員に茄子のお浸しを追加すると、私が肩から外そうとしたカメラに目を向けた。
「そのカメラ、どうしたの?」
「買ったの」
「へえ、意外だな」
 それ以上なにか聞くだろうと思ったけれど、彼は気の抜けた返事をしただけで、すぐに興味をなくしたようだった。
 彼はそれから先週上司よりも大きい商談を成功させたことを自慢気に話し、一杯目のビールを瞬く間に飲み干した。私は適度なタイミングで頷いたり、笑ったりして、彼が話しやすいように返事をする。
 彼は酔いが回ってくると隣の席に移って、私の腕をさすったり、肩を抱き寄せたりした。彼が動くたびに、シャツから洗剤と汗の混ざったような匂いが漂って、熱く火照った体温が伝わってくる。私は彼の肩に頭をのせて目を瞑り、彼の声の振動を耳に感じた。時々、彼のお尻のポケットに入れた携帯電話が私たちの話を遮るように鳴り、そのたびに彼は面倒くさそうに開いて確認した。
「今日は早く帰るの?」
「そうなんだよ、嫌だけどね。奥さんの両親が泊まりに来るらしいから、あまり遅くなれないんだ」
 彼はもっともらしく眉をひそめ、私の手の甲を擦った。
「ねぇ、あなたの家族ってどんな感じなの?」
「え? どうしたの、今までそういうこと聞かなかったのに」
 彼は可笑しそうに目を逸らしたけれど、私が答えを待っているのがわかると、おかわりしたビールを一口飲んで口を開いた。
「そうだなぁ。奥さんは、もう子供たちのお母さんって感じだよ。女の人ではないな」
「子供はかわいい?」
「当たり前だよ。子供ってさ、人生観っての? 簡単に変えるよ。だって俺がいないと存在してないんだよ。すごいよな、本当に」
 彼は両腕を組んで感心したように呟き、残ったビールを半分まで一気に飲み干した。
「私にもわかる」
「え? きみ、子供いないじゃん」
「わかるのよ」
 私が頷くと、彼は興味もなさそうに「ふうん」とだけ返事をした。
 私たちは九時を回ったところで店を出て、最寄り駅まで手をつないで向かった。酔っぱらったサラリーマンと、居酒屋のキャッチが行き交う大通りを、私たちはお互いの隙間を埋めるほど体を寄せ合って歩いた。彼の手は湯船に張ったお湯のように温かく、汗でじっとりと湿っている。信号待ちで立ち止まると、通り沿いのカラオケボックスのガラス張りの入口に、私たちの姿がふと反射する。十代や二十代の若いカップルに混ざって、私たちも、ちゃんと本物の恋人のように見えた。
「泊まれなくてごめんな。また連絡するよ」
「ううん。またね」
 彼は改札口までくると、私のことを抱きしめると、手を寒そうにポケットに入れ直した。私は階段を上る彼に向かって大げさに手をふって見送る。背が高いことを遠慮がちに隠すように丸めた猫背の後ろ姿は、やっぱり、家で見るもう一人の彼とよく似ていた。
 今から、彼は自分の家に帰っていくのだ。
 私のアパートの部屋ではない、彼が私と出会う何年も前から築いてきた家庭だった。そこには彼を待っている奥さんと二人の息子がいて、私の知らない家での彼がいる。彼は玄関を開けて、自分の息子たちに迎えられたとき、本当はどんなふうに笑うのだろう。私が家で見るもう一人の彼と同じように、息子の前では必ず膝を曲げ、目線を合わせて話しかけたりするのだろうか。
 彼の離れていく後ろ姿を目で追いながら、私はカメラのシャッターボタンを指でさすった。

 アパートの部屋には、二人の写真が少しずつ増えていった。
 息子がアイスクリームを頬張る姿や、アニメのヒーローのポーズを真似する姿。彼のフライパンを振る後ろ姿や、お風呂上がりの息子の髪を乾かしてあげる姿。いついなくなってしまうかも分からない二人の姿を、私は毎日撮り続けた。プリントした写真は、いつでも見られるように、フォトフレームに入れて部屋に飾った。
 部屋の壁はもちろん、戸棚の上、玄関の靴箱の上に至るまで、写真は日を増すごとに増え続ける。今では、八畳のワンルームのどこを見渡しても、大好きな彼と、私たちの息子がこちらに向かって微笑んでいた。
 私は仕事から帰ると、毎晩二人のために夕飯をつくることにした。息子には大好物のチーズ入りの特製ジャンボハンバーグとサラダ。彼には、他にいつもの居酒屋と同じ、濃い味つけのおつまみもつくった。三人分の食事の用意がテーブルに整うと、彼のグラスにビールを注ぎ、私は台所側の椅子に腰掛ける。それから、カメラをテーブルに向けて構え、ファインダーを覗いた。
「ハンバーグだぁ」
 息子は近所のリサイクルショップで買ってきた子供用の椅子を揺すって、おおげさに喜ぶ。
「よかったなぁ。さあ、挨拶をして」
「いただきまーす」
 息子は彼に言われて、ひときわ元気よく声を出した。彼はビールを一口飲むと、おつまみの茄子のお浸しに箸を伸ばした。
「お。今日の茄子、すごくおいしいな」
 彼は感心したように深々と頷くと、瞬く間に飲みこみ、早速もう一つを箸で摘んだ。
「本当? それなら良かったわ。前回失敗しちゃったから、塩とだしの分量を変えたのよ」
 私が思わず喜ぶと、息子も「ママ、よかったね」と微笑んだ。夕飯を食べ終えると、私は冷凍庫に買い貯めた箱のアイスクリームから、小振りなサイズのカップを取り出した。

 夕飯を食べ終えると、私は冷凍庫に買い貯めた箱のアイスクリームから、小振りなサイズのカップを取り出した。
「今日もお留守番頑張ってくれたからね。はい、パパにもらってね」
 息子は「やった、アイスだ!」と声をあげてはしゃいだ。私が彼にアイスを手渡すと、彼はカップの蓋とシールを剥がして、息子の右手にスプーンを握らせる。
「食べ終わったら、ちゃんと歯を磨くんだぞ」
「はぁい」
 息子は元気よく返事をして、アイスを慌てて口に頬張った。私はテーブルの椅子に腰掛け、二人が並んで食べる姿にカメラの焦点を合わせ、シャッターを切る。
「ママはご飯たべないの?」
「いいのよ。お腹すいてないの」
 私は息子の髪を撫でるように水平に手を動かす。息子の言う通り、私だってお腹はすいていたけれど、カメラを右目から外すと、二人は見えなってしまう。そのせいで、私はご飯を食べるときも、テレビを観るときも、眠るときでさえも、二人が消えてしまわないようにカメラを手離すことができなかった。
 私がカメラの中の二人と過ごしている間、当の彼本人は仕事が忙しいのか、水曜日になっても、毎週約束したはずの木曜日になっても連絡がこなかった。一度も途切れなかった連絡に、もちろん心配したけれど、家のもう一人の彼は私の不安をかき消すように、相変わらず優しく、私に接し続けてくれた。


 その晩、彼は最初なにも喋らなかった。
 二週間ぶりに連絡が来たかと思えば、メールには待ち合わせの時間だけが記されていて、いつもの居酒屋に行くと、先に着いた彼が上着も脱がずに座っていた。店内の暖房が効きすぎているせいか、彼の前髪は汗でしっとりと濡れている。私が彼の髪に触れようと手を伸ばすと、彼はほんの少しだけ後ろに身を引いた。
「君と会うこと、今日を最後にしようと思う」
 突然、彼が話を切り出した。伸ばしかけていた右手は、テーブルのちょうど半分くらいで行き場を失った。
「奥さんになにか言われたの?」
「あいつはそんなのとっくに知ってるよ」
「え?」
「この間、奥さんが俺のことを責めているのを見て、まだろくに言葉も喋れない次男が泣いたんだ。俺の服を力一杯つかんで、喉がおかしくなりそうなくらい泣き叫んだ」
 ウーロン茶を三分の二ほど流しこむと、彼は俯いていた顔をあげてこちらを見た。
「きみには本当に悪いと思ってる。でも、これからは子供たちを大事にしたいんだ」
 彼は残りを一気に飲み干して、自分の携帯電話を開いて画面を確認し、携帯電話をポケットにしまった。それから、手をあげて店員を呼び、上着から財布を取り出した。私は俯いたまま顔をあげられない。視界の上端で、彼がもう一度携帯電話を取り出した。
 駅の改札口まで来ると、彼と別れた。
 もう手を握ることも、寄り添いあうこともない。私たちは黙って店からの道を歩き続け、改札前で一旦立ち止まると、手を振ってさようならをした。元気でね、とか、じゃあまたね、とか言ったわけではない。お互いに片手をあげただけで、それはまるで少しばかり別れる挨拶のようだった。彼は急ぎ足で階段を上り、私は人混みの中に紛れていく後ろ姿を見届けた。
 きっと、私たちはもう二度と会わないのだろう。自分の家族の待つ家にしか、彼は帰らない。私がいくら駄々をこねても、みっともなく泣いてみても同じことだった。
 二年間を一緒に過ごして、私は彼の恋人にはなれたけれど、家族になることはできなかった。彼には他の家族がいる。そこには、私と、私たちの息子は入らない。付き合い始めた頃から、ずっと当たり前のことだった。
 帰り道の大通りを過ぎたところで、数組の家族連れとすれ違った。子供たちは両親の手に引かれ、あるいはベビーカーの中で眠ったまま家路についている。両親はおもちゃ屋やスーパーの袋を両手に抱えて、夕飯の献立を相談し合っている。私は彼らを足早に追い抜き、帰り道を急いだ。


 玄関の電気をつけると、私は一瞬、立ち尽くしてしまった。久しぶりにカメラを外して眺めると、そこはかつての私の部屋ではなくなっていた。
ワンルームの床には、電車や車のミニカーや絵本、ゴムボールが散らばって、テーブルにはクレヨンと画用紙が置かれている。ベッドにも、彼のために買った寝間着代わりのジャージが置かれ、戸棚の上には買い置きした煙草が積んである。台所の引き出しには、スナック菓子やチョコレートが溢れ返り、流し台にも三人分の夕飯をのせた食器が手もつけられずに溜まっている。一人暮らしの狭い部屋に、まるで家族が揃って住んでいるような大量の荷物が押しつめられていた。
 私はカメラを構え、右目でファインダーを覗いた。すると、たちまち二人の姿が現れる。息子はテーブルの上でお絵かきをしている途中で、彼は息子の絵を覗きこんで、クレヨンでなにか描き足そうとしている。二人は私に気がつくと「おかえりなさい」と、声を合わせた。私はダイヤルを連写モードに替えて、四角い枠に二人を収め、ボタンを強く押した。シャッターを切って、切って、とにかく切り続ける。
 私の傍に駆け寄ってくる息子の姿や、彼が息子の絵をおおげさに褒め称えて見せてくる姿。二人が夕飯を分け合って食べる姿、お風呂の中で水鉄砲遊びをしてはしゃぐ姿。彼がお風呂上がりの息子の髪をドライヤーで乾かしてあげる姿。カメラのメモリーカードがいっぱいになるまで、私は二人の写真を撮り続けた。
 そのうちに視界が涙でぼやけ、彼と息子の姿がうっすらと霞んでしまう。カメラの重みで手は痺れ始め、目の痙攣も激しくなってきた。
「ママ、大丈夫?」
 息子の心配そうな声に、私はうまく返事ができない。私の持ち上げた頬は悲鳴をあげ、顔中が引きつった。私は息子に向かって何度も頷きながら、シャッターを切り続けた。どんなに痛くても、大切な家族が見られるなら少しもかまわなかった。
 そう思った瞬間、痛みが急に収まった。
 さっきまでの目の痙攣も、頬の引きつりも、どこも楽になっている。なにが起こったのかわからずに右手を見ると、持っていたはずのカメラがなくなっていた。まさか落としてしまったのかと思って、床を慌てて見渡しても、カメラはどこにも見当たらなかった。
「ママ!」
 聞き慣れた声に顔をあげると、カメラ越しに見ていた息子が勢いよく駆け寄り、私の両足に抱きついてきた。息子の温かい手の感触が太腿に伝わってくる。
「ねぇ、抱っこして」
 私は「う、うん」と返事をして息子の脇に手をいれ、ぎこちなく持ち上げようとする。両腕にずっしりと重さが伝わった。私は力を入れて息子を左腕に抱え、おそるおそる手を伸ばす。指先は息子の柔らかい髪に触れ、私の首もとには息子のはしゃいだ息がくすぐったくかかった。
「少しは落ち着いた?」
 隣に立っていた彼が、私の肩にしっかりと触れる。それは紛れもない本物の彼だった。私は彼のシャツに手を伸ばし、体の輪郭を確かめるように軽く押した。さっき駅の改札で別れたはずの彼が、今、目の前にいる。
カメラのファインダー越しでも、写真のデータでもなく、私はこの目で二人を見ることができていた。
 翌日の夕食後、私と彼は部屋の電気をそっと消して、冷蔵庫から苺のケーキを取り出した。細長い蝋燭に火をつけると、バースデーソングを一緒に歌い始める。ケーキを食卓のテーブルに載せると、息子の満面の笑みが橙色の炎に照らし出された。
「誕生日おめでとう。パパと話し合ったんだけどね、今日をあなたの誕生日にしましょう」
「ママ、ありがとう」
 息子はケーキを前に大きく息を吸い込み、四本の火を一気に吹き消した。私が電気をつけて「おめでとう」と手を叩くと、息子は照れくさそうに両手を頬に当て、私の体に寄りかかった。
 プレゼントに用意したカラフルなブロックに、息子は大喜びで箱を開け、彼と一緒にブロックを床に一つずつ敷き始めた。ワンルームの狭い床には、色鮮やかな家々が所狭しに建ち並び始める。大通りや入り組んだ小道を開けながら、ベッドの下ぎりぎりまで建物を積み上げると、そこに小さな町ができた。
 ようやく完成させると、息子は満足したように私の膝の上に頭をのせて、気持ちよさそうに寝息を立て始めた。息子の重みが伝わり、私は息づかいを指先で確かめる。私は息子の柔らかい髪を撫でながら、隣に座る彼の肩にもたれかかる。彼のシャツ越しに体温が伝わって、襟元からは私のよく知っている匂いがした。
「昨日泣いていたこと、もういいの?」
 彼がふと思い出したように尋ねる。
「うん、もういいのよ」
 もう涙はでなかった。私は目を閉じて耳をすまし、部屋の中に完成しただれもいない町を見つめながら、彼の心臓の音に聞き入った。

 (小学館「本の窓」5月合併号掲載)

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