hyoushi_のコピー

長編小説「眠る男」

 九階建ての巨大書店は、都内の乗り継ぎ駅にほど近く、客は帰宅前に吸い寄せられるように店へと導かれる。多くの人々は専門書のフロアを除く一階から三階までをあてもなく彷徨い、彼らの抱える漠然とした欲望を埋める一冊を探している。
 夕方五時を過ぎた店内には、レジへの応援を求めるアナウンスが度々入るが、それすらかき消されるほどの人混みに溢れる。文芸のコーナーには、入れ替わり立ち替わり人が訪れ、一冊、また一冊と売れ、昼間にすし詰めにした棚はみるみるうちに隙間だらけになる。
「西さん」
 宮崎さんがカウンターから呼びかけ、ワゴンに積んだ本を申し訳なさそうに指さす。
「新刊出しって、今日の残りはワゴンだけですよね」
「うん。終わりますか?」
「大丈夫です。あと、ポップカードお願いします」
 私は白紙のポップカードを受け取り、エプロンのポケットに押し込む。その間に、宮崎さんは問い合わせで呼ばれ、人だらけの棚のどこかへ消えていった。
 宮崎さんは、私より五つ年上のフロアで最も長く務めるアルバイトだ。社員の間でも、取次の間でも一目置かれ、入社五年目の私にはとても把握できない情報は、だいたい彼女が知っていて、おまけに小柄で痩せているのに私の二倍の本を一度に抱えてしまう。必要なこと以外はほとんど口にしない上、銀色の縁の冴えない眼鏡に邪魔されて、目が合ってもいまいち考えていることが読めない。
「すいません、土曜日のワイドショーでやってた小説を探してて・・・ええと、なんだったかな、恋愛小説なんですけど」
 カウンターの前にきた女子高生は、悩んだ末にタイトルが出てこないようで、携帯電話のぼやけた写真を見せる。
「あぁ。それ明日発売ですね。よろしければ取り置きなさいますか?」
 私が頷いて答えると、彼女は「お願いします」と言って、紙に名前と電話番号を記入した。
 同じ小説はそれから何冊も予約が入り、私はしばらくカウンターで取り置きの書類を書き続けた。明日発売の小説はポスターもフロアに二枚貼っていて、予約はひっきりなしに入ってくる。おかげで小一時間ほどの間に女子高生から五十代の主婦までが続々と手続きした。
 多くの女性客が、恋愛小説を求めてフロアを訪れる。棚は見渡す限りにパステルカラーの装丁に溢れ、設定の似た殻違いの物語がずらりと並ぶ。彼女たちは一つの物語を読み終えると、まるで電池が切れたみたいに書店の棚へ走り、新しい物語を求める。架空の恋愛は彼女の体を流れ、一体どこにたまっていくのだろうか。何百冊の新刊がだれにも読まれずになくなればどんなに良いだろうと、膨れた取り置きの書類を商品課へ持って行きながら、ふと考える。
 九時を回ってピークを越えると、出し切れていない本がワゴンの上に高い塔をつくりあげる。売り上げた分のほとんどは、翌朝には倉庫から店頭へと運ばれ、私たちは一日かけて前日の棚の隙間を埋め続ける。一日で終わらないものは、翌日、また翌々日と持ち越され、忙しくなるにつれて塔は恐ろしく高くなる。
 宮崎さんは早歩きでフロアを回り、ワゴンの塔の端を明日のために少しずつ崩していく。ワゴンの傍では、アルバイトの江口くんが倉庫にない発注リストを書き進め、閉店の準備に取りかかる。
「西さん、明日のポップってできてますか?」
「今から描くよ。発注できた?」
「確認お願いします」
 江口くんはリストを片手にカウンターまでやって来て、私は一通り目を通すとサインをし、江口くんに返した。
「じゃ、事務所からファックスしたらあがっていいよ」
「よっしゃー。これで終わりですね」
「今日もご苦労様。また明日だね」
「そうですね。じゃ、あとお願いします」
 私が頷いたところで、カウンターの前を宮崎さんが小走りで横切った。二十冊以上の本をバランスよく左腕と体で支え、次々に棚の隙間を埋めていく。そういえば、とシフトを確認すると、宮崎さんは九時上がりのはずだった。時計は九時半を過ぎていて、既に三十分の残業になっていた。
「宮崎さん、残業になっちゃってるけど大丈夫かな」
「どうなんですかね。宮崎さんってなんも言わないんで、どうもとっつきにくいんですよね」
「そんなこと言っちゃだめよ、でもそうね」
 私は手元のポップカードに目を落とし、小声で同調する。江口くんは不服そうに小さくうなる。
「あの人、家でなにやってるか想像つかないですよね。彼氏は絶対にいなさそうだし」
 江口くんの言葉に確かにそうだなと思い、私は顔を上げ、フロアをせわしく回る宮崎さんを見て頷いた。
 小学校のとき、宮崎さんのような女子がクラスに一人はいた。学級委員や図書委員を任されるような、先生に気に入られる真面目なタイプの生徒だ。でも、なぜだかクラスメイトには好かれない。決して悪い子ではないのに、なぜだか彼女のやることなすことがクラスの笑い者になるのだ。宮崎さんは年上だけど、そういう印象を与える人だった。宮崎さんの癖毛はエアコンの風に揺られ、使い古した制服のシャツは襟の色がくすんで見える。彼女の見た目にこだわりがないところも、原因の一つなのかもしれない。
「じゃ、お疲れさまです」
 江口くんは軽く頭を下げ、私も「お疲れさま」と言って見送る。
 凝り固まった肩を回し、窓の外を見るとすっかり日がくれていた。エスカレーター横に広がる一面のガラスには、夜の景色が映し出される。近隣のビルの居酒屋の灯りがつき、暗い空にぽつぽつ光を浮かばせている。街中は、昼から夜の街へと変わっていく。駅へ続く大通りには人が溢れ、書店へ入る人、出ていく人で、街は入り乱れている。
 ふと顔を上げると、夜の景色に重なって、フロアの風景が反射する。
 多くの客は一人で棚を彷徨い、宛てもなく本を探し回る。私はカウンターに立ち尽くし、宮崎さんは小走りで棚の合間を出たり入ったりを繰り返す。江口くんは軽く背伸びをしながらバックヤードへ戻って、みんなはガラスの中でばらばらに動き回る。
 暗くなった空とビルの灯りの間に、私たちはまるで浮遊しているように見える。フロアは、まるで一人ぼっちの集まりのように思えた。

 仕事を終えて外に出る頃には、同じように帰宅を急ぐ人の波ができあがっていた。私は酔っぱらい混じりの波に飲まれるように、電車に乗り、ようやく最寄り駅までたどりついた。
 都心から少し離れたベッドタウンは二十三時を過ぎても人が多く、住宅地は夕飯の残りの匂いやお風呂から溢れる水の音に満ちている。大学生の時から住んでいる一人暮らし用のアパートだけは、この時間になっても灯りがまばらで、だれの住んでいる音も聞こえない。
 玄関の鍵を探していると、携帯電話が鳴った。
「ゆりえ?」
 美緒の声だった。相変わらずのあっけらかんとした声で「ゆりえだ、ひさしぶりだねぇ」と続ける。
「うん。美緒、元気にしてる?」
「元気だよ。ゆりえ仕事はどう?」
「ぼちぼち忙しいかな」
 私はそう答えながら部屋の電気をつけ、床に散らばった読みかけの本を片付ける。本棚に入りきらない分は、とりあえず邪魔にならないように棚の横に積み重ねていった。
「今日さ、旦那が遅くなるから時間できちゃって、電話しちゃった。主婦って旦那が帰ってくるまでの時間がほんと暇なのねぇ」
 美緒は退屈そうにつぶやいて、ちいさなため息を漏らした。
 一昨年、美緒は商社に勤める恋人と結婚した。三十歳を目前にした結婚ラッシュに乗り、百貨店の販売員の仕事を契約社員からパートに変え、膨大にできた時間を弄んでいる。せっかくだからと習い事をしようにも、美緒の優柔不断のせいで一つに絞りきれず、ヨガもしたい、料理教室も行きたいと、あちこち顔を出してはやめを繰り返している。
 旦那の帰宅が遅いとき、寂しがりの美緒は時々こうして電話をかけてくる。私たちはお互いの近況を教え合い、それから美緒の溜まった喋りたい話に散々付き合って、眠る前までの時間をつぶした。私は美緒の延々と続く話を耳に入れながら、部屋を片付けたり、取り込んだ洗濯物を畳んだりするのが習慣になっていた。私が高校時代の友達で一番連絡をとっているのは美緒だけで、他の付き合いと言えばフェイスブックにあがる近況を知る程度だけだった。
「ゆりえさぁ、今度クラス会あるんだけどいかない?」
「え、高校の?」
「そう。なんか連絡まわってきてさ。実家に帰らずにこっちで働いてる子たちだけで集まろうよーってなったらしくて。高校のみんなに会うのって久しぶりだし、行こうよぉ」
「いつ?」
「来週の金曜。ね、いこうよ」
 壁にかけたカレンダーの二十七日を眺め、私は特になにも印がないのを確認して「いいよ」と答えた。美緒は「よかったぁ〜」と喜んで、話が落ち着くと、思い出したかのように次の話題を切り出した。
「そういえば、信宏って富山に転勤になったんだってね」
「え?」
「連絡まったくしてないの?」
「うん」
「あれ、なんで別れちゃったんだっけ」
 美緒は思い出せずに冗談交じりに尋ねる。私はとぼけたように「なんだったっけ」と答え、「この前の英会話教室どうだったの?」と話題を変えた。それから美緒はイギリス出身の先生がイケメンだったことを自慢気に話し、しばらくすると電話の奥でインターホンが鳴って、「帰ってきた、付き合ってくれてありがとう。また電話するね」と言って、はしゃいだ声で電話を切った。
 信宏の名前を聞いたのは、いつ以来だろう。結婚ラッシュを迎えて、ほとんどのクラスメイトは家庭に入り、恋愛の話をする機会もめっきりなくなった。美緒の口から突然飛び出した名前に、思わずどきり、としてしまう。
 五年前に別れた信宏は、美緒と同じで高校時代のクラスメイトだった。同じクラスでも、付き合う前は特に仲が良かったわけではなかった。野球部の信宏は、大抵同じ部活の男友達の輪にいて、私も美緒をふくめた数人の女友達といたから、ほとんど二人きりで話したことがなかった。卒業後、たまたま同じ大学に入学したことで、私たちは話す機会が増え、なんとなく付き合うことになった。でも、結局二年も経たない内に私が別れを切り出した。それ以来、私たちは一度も連絡をとっていない。
 信宏と過ごした二年間が頭をよぎっては、すぐに霞んでいく。信宏と別れてから、私はだれとも付き合っていなかった。自分からアプローチすることも、されることもなく、いつの間にか結婚の適齢期は過ぎかけていた。三十歳を目前にして、美緒を含めた周りの友人たちはぞくぞくと恋愛し、結婚していき、私だけが流れから取り残されていた。
 携帯電話のアラームを七時にセットし、ベッドに潜る。枕を抱きかかえてお決まりの体勢を整えると、顔の前で本を開く。明日発売の小説のポップを描くため、と自分に言い聞かせ、一ページ目をめくって小さな明朝体を目で追い始める。こういうとき、私は決まって本を開くのだ。
 ページを進めるにつれて、思い出しかけては遠ざかる信宏の顔も、二年未満の色々あったはずの思い出も、物語の場面によってかき消される。家でも職場でも、私の半径三メートル以内には必ず本の山があって、一冊ずつがこうして私の思考を強制的に停止させるのだ。思い出すべきことも、思い出さなくても良いことも奪われ、物語は時になにより私を救う存在になる。
 ふと、信宏の言葉が頭をよぎる。
「そうやって現実から目をそらすのは、ゆりえの悪い癖だよ」
 思い出した途端、意識が戻りかけて首を振る。信宏は私がこうして本に走ることに否定的だった。私は彼のそういうところが、たまらなく嫌だった。
 今の私には、家族も、恋人もいない。アパートの一人部屋の半端な広さは、いつもこうして忘れていった。
 

 発売日の恋愛小説は、週末と重なったこともあってか、予想以上に売れた。文芸フロアだけでなく、急遽一階にも特設ワゴンを設置し、高校生から主婦世代までが入れ替わりにやってきて、おもむろに一冊手にとると、正面のレジへと直進していった。白い表紙に一列の赤い線が一周とりかこみ、背表紙でハートを描くデザインが、レジで次々に袋に詰められていく。私は午前中すでに三分の二ほどできた隙間に本を補充し、隣で発注の数を読み上げる宮崎さんに耳打ちした。
「やっぱりすごいね」
「人気作家ですから」
 相変わらずのそっけない返事で終わるかと思いきや、宮崎さんは「西さんは読まないんですか?」と続けた。
「今ちょうど読んでますよ」
 私はそう答え、「宮崎さんはいつもなに読んでるんですか?」と尋ねてみた。けど、宮崎さんはリストに目を落としてペンを走らせるばかりで、私の質問には返事をしない。あまりの愛想のなさに「もうちょっと会話くらい続けてよ」と言いたくなるのを堪え、周りの客たちに視線を移す。
 私は目の前の溢れ返る女性客が、無表情で恋愛小説を手にとっていく様子を眺めた。本は次々となくなって、その場にいるときにもう一度補充をしなければならないほどだった。昨晩読んで仕上げたポップは一文字も読まれることなく、彼女たちはタイトルと著者名だけを確認し、会計をすませると、大通りの人だかりの中へ逃げるように消えていった。
 宮崎さんは、いつまで経っても質問には答えない。横から顔を覗こうとしても、眼鏡の縁が邪魔で、今日は目さえ見えづらい。私たちはフロアに戻って、今日分の入荷を黙々と棚に入れ、隙間ができないように補充し続けた。

 事務所の隅につくられた休憩室は、長机を五つ並べただけの小さなスペースで、人が増えるとお互いに向かい合って座ることになる。そのせいか、宮崎さんはいつも一番奥の電子レンジ向きの椅子に座っている。いかにも小学生の頃に買ったような色褪せた黄色の弁当箱を広げ、レンジを向いてこちらに背を向けたまま読書に勤しんでいる。
 手前の二つの机ではレジのアルバイトの女の子三人が、近所のサンドイッチチェーン店の袋を広げ、携帯電話で写真を見せ合って楽しそうにはしゃいでいる。一人が「えー彼氏できたのー!」と思わず大きな声を出し、隣の女の子が口を塞ぎ、周りを見渡して三人は笑い合う。
「彼氏かっこいいよねぇ」
と、一人が言うと、女の子は長い髪を指先に巻き付けながら「そんなことないよぉ」と照れくさそうに頷く。
「あ、なに、またメールきてんじゃん、羨ましいなぁ」
「あんただってこの前の男の子どうなったのよ〜」
 彼女たちが口に出す男の名前は、次から次へと移り変わる。宮崎さんは気にする素振りも見せず、ページをめくる手を止めない。彼女たちはまるで宮崎さんなど見えていないかのように、声のボリュームを徐々に上げていく。
 私は女の子たちに「お疲れさま」と声をかけ、彼女たちと二つテーブルを挟み、宮崎さんの斜め後ろの席に座った。彼女たちは「あ、お疲れさまです」と言い、急に小声で話し出して遠慮がちな身振りに変えた。
 宮崎さんの耳に、女の子たちの話はどんな風に聞こえるのだろう。どのくらい見ていても、宮崎さんは同じ姿勢のまま微動だにしない。何の本を読んでいるのか気になったけれど、使い込まれた薄茶色のブックカバーに隠されて、タイトルすら把握できない。本を読む宮崎さんと、恋愛話に夢中になる女の子たちの間で、私はコンビニ弁当の箸を進める。食べ終えてしまうまでの間、宮崎さんは一度も振り向かなかった。
 休憩時間が三十分を過ぎたところで、私も同じ体勢をとり、昨晩読みかけた本をめくる。女の子たちのお喋りは延々と続いて、いつの間にか少しずつ声は大きくなっていった。副店長が途中で顔を出して「ちょっとうるさいよ」と小言を言うまで、女の子たちの話は止まなかった。私と宮崎さんはまるでそこにいない幽霊のように気配を消し、ただ黙って本を読み続けていた。
 

 新宿駅で待ち合わせた美緒は、さすが百貨店の販売員をしているだけあって、主婦独特の生活臭さは微塵も感じさせなかった。ベージュのワンピースの上に黒の薄いストールを羽織って、ストッキングにはラメで小振りなアンクレットの模様が入っている。
 それに比べ、私は会社のエプロンを脱いで、白シャツにカーディガンを羽織っただけのラフな格好で、美緒が「ひさしぶりぃ」と言い寄ってきても、私は同じテンションで返事ができず、「ひさしぶり」と冷静な声で返し、無邪気に差し出した美緒の両手にそっと触れた。
 交差点の大通りから一本路地に入ると、指定されたカジュアルレストランはすぐに見つかった。煉瓦のアーチで縁取られた入り口を抜け、照明の落ち着いた店内へ案内されると、千晶が見えた。
 千晶は立ち上がって「こっちだよぉ」と手を振った。千晶の前には北沢、前田、それに田中が並んで座っていた。男たちは坊主頭の野球部時代の面影はほとんどなく、スーツを着ているせいもあって、懐かしいと言うよりも知らない人たちのようだった。美緒は「千晶だぁーひさしぶりぃ」と明るくはしゃぎ、男たちにも手を振って、私と美緒は千晶の隣に並んで座った。
「ひさしぶりだねぇ〜美緒は相変わらず年とらないねぇ」
 千晶は美緒のワンピースの背中のレースを指さして「かわいいねぇ」と言い、美緒は千晶の白シャツに映える首元の華奢なネックレスを見て「これ知ってる」と言い合った。二人のやり取りは、高校時代にカーディガンの色や髪の結び方を褒め合っていたときと、まるで変わらないように思えた。
「西さんもひさしぶりぃ。社会人になってこうして会うの初めてだねぇ」
 千晶は私を思い出して声をかけ、私は「そうだね」と言って微笑んだ。
 最初の乾杯をすると、向かいの奥に座る北沢は、美緒の結婚指輪を指さした。
「美緒は、今結婚してんだっけ」
 北沢の言葉に、千晶は「うらやましいよねぇ、大恋愛して結婚なんて」と唇をとがらせてグラスを回し、手前の男子二人は「え、そうなの?」と驚いた。美緒は左手の薬指に馴染んだ指輪をおおげさに上げて見せつけた。小さなダイヤモンドの粒が、細長い指の付け根で目映く光っている。
「じゃーん、今年で二年目なの」
「地元じゃみんな結婚してるのにな。俺たちみたいに大学で東京きてそのままだと、中々チャンスないよなぁ」
 前田が悔しそうにつぶやくと、北沢は「ほんとだよな」とやたら頷いて同意した。
 東京に進学して就職したのは、当初は二十人近くいた。でも、ほとんどが転勤や家庭の事情でいなくなってしまい、彼らの多くは結婚していった。クラス会で私にも声がかかったのを考えると、美緒を除く五人だけが独身で残っているのだろう。男子三人はともかく、千晶も独身なのは意外だなと思った。
 男子が美緒の結婚話に夢中になっていると、千晶は大きなため息をついた。
「私の職場って化粧品だからさぁ、男なんて彼氏か旦那じゃなきゃ来ないわけ。おかげで出会いすらないわよ」
「千晶、彼氏もいないのかよ」
 前田が意外そうに驚くと、北沢が「できなさそーじゃん」とからかって笑い、千晶は「うるさいわねぇ」とふざけて軽く叩く真似をした。
「そういえば西って、今なにやってんの?」
 私が運ばれてきた取り皿を配っていると、前田がふと聞いてきた。
「本屋だよ」
「書店員かぁ〜お前学生のときから本ばっかり読んでたもんな。全然変わってないじゃん」
 予想通り男子はげらげら笑って、継ぎ足したワインを飲み干した。
「そういえば、信宏とは別れたんだろ?」
 北沢は頬のニキビを気にしながら興味なさ気に聞き、私が「そう」と答えると、「あいつ元気かなぁー」とだけつぶやいた。
「なんで別れたの?」
 開始から静かにしていた田中が急に口を開き、私が「忘れちゃった」と答えると、北沢は飽きてしまったのかすぐに学生時代の話に切り替えた。
 それから、野球部が甲子園を目指すどころか予選の二回戦で敗退してしまったこと、担任の女教師が未だに結婚できていないことや、同級生のだれが結婚して子供を産んだかを延々と話した。結婚ラッシュはまもなく終わり、出産のピークへと向かっていく。私とはまるで関係のない話が繰り広げられ、次第に会話の輪から外れていく。赤ワインはボトルで追加され、テーブルの奥で二人がグラスに並々と注ぎ合った。
 北沢は顔を真っ赤にさせながらも飲み続け、上機嫌に古くさいジョークを飛ばす。汗っかきの前田は何度もハンカチで額を拭い、シャツを何度かはためかす。千晶は北沢に煽られてワインを飲むにつれ、おおげさに身振りを加え、ふざけて笑う。千晶のグラスの縁には赤いリップの模様がつき、動くたびに体から甘ったるいバニラの匂いを放った。美緒は料理にはほとんど手をつけず、他の人の話に必要以上に頷き、愛想良く振る舞った。
 北沢と前田は相変わらず美緒と千晶に夢中で、私の方はほとんど見ない。田中はみんなの話に耳を傾けながら、なぜか時々私の方を見て、すぐに目をそらす。隣の美緒はわざと私に「やだぁ」とか「ねぇ」と同意を求め、さりげなく会話の輪に入れようとした。美緒の気の使い方を見ていると、まるで本当に高校時代のことを思い出してきて、なんだかやるせなくなった。
 高校時代から、私はひたすら普通で、平凡な人間だった。成績もぱっとせず、かと言って悪くもなく、だれかに特別嫌われたり、好かれたりすることもなかった。友達の多い美緒や千晶と一緒にいたとき、私は自分がおまけのような存在だと思っていた。
 その時と変わらず、今の私も、同じように彼らの話に適当に相槌を打ち、愛想笑いを浮かべていた。彼女たちが面白そうに話す話題に、できるだけ面白く思ってそうに反応する。私は他の人の話に乗ったふりをして、運ばれてくる料理を六人分取り分け、飲めないワインをちびちびと口へ運んだ。
 終電前に、私たちは店の前で別れた。
「じゃ、みんな気をつけてね」
 美緒は満面の笑みで手を振り、近くまで迎えに来た旦那のもとへ急いだ。男子たちは「羨ましいなぁ」と小言を言い合い、残りの五人はまとまらない速度で駅までの短い道のりを歩き出した。地下鉄とJRが分かれる広場前で、田中はなにか言いたげにこちらを見たけれど、前田にからまれて、やがて人混みに紛れていった。そういえばと振り返っても、いつの間にか北沢と千晶の姿も見えない。なんとなく取り残された私は気まずくなって、地下鉄の改札へ行くために道を早足で曲がった。
 改札への階段を下りたところで、北沢と千晶がふらつきながら一緒に歩いているのを見かけた。千晶は北沢に煽られてワインをさんざん飲んでいたから、だいぶ酔いが回ったらしい。
「おい、歩けるか?」
 北沢が聞くと、千晶は「うーん」と困ったように息を漏らす。
 倒れかけた千晶のストールを掛け直し、北沢は本当にさりげなく彼女の肩に触れた。そのとき、千晶の耳元で北沢がなにか耳打ちする。千晶は黙って頷いて、右手で北沢のスーツの裾を掴りしめた。
 私は冷めかけた酔いを引きずりながら、人のまばらな電車に乗り込んだ。駅の反対口に輝くラブホテルのネオンに、寂しがりの大人たちが吸い寄せられるように群がる。痛々しい蛍光の明かりが目に焼き付き、瞼にカラフルな残像を残していく。
 千晶の肩に触れる北沢の手を思い出し、急に吐き気がこみ上げる。
 北沢は千晶のむせかえるほどのバニラの匂いを嗅いで、千晶は北沢のニキビ跡の頬を撫でて、二人はお互いになにを思うだろうか。高校時代にふざけ合うほど仲良しの男女は、歳をとった今、男女になった。二人は夜が明ける頃には恋人になるだろうか。ううん、きっとならない。
 あんなのは恋じゃない、と心の中で呟く。
 私は慌てて鞄を漁って、読みかけの本を取り出す。おもむろにページをめくり、とにかく文字を追って、頭から二人を消し去ろうとする。
 若い主人公は、冒頭で出会った一人の男に惹かれている。物語が進むにつれ、二人は対話を重ね、共通の体験を持ち、予想通りに恋に落ちる。男は絶妙のタイミングで、ここぞとばかりの甘い台詞を放ち、そのたびに主人公は自分がどれほど彼を好きか自覚する。私の頭は徐々に物語に引き込まれ、主人公と共に、男に心を奪われていった。物語の典型的なラブストーリーは、私にとって究極の理想だった。
 そのとき、ばたん、と目の前で音がした。顔を上げると、前に立っていた同じ年くらいのスーツを着た酔っぱらいが転んで尻餅をついたようだった。
「いっけねえ」
 男は酒くさい息で言い、私のすぐ傍の手すりに掴まって立ち上がる。周囲の人たちから「うわぁ」とか「嫌だ」と声が上がる。男はおぼつかない足つきで、そのまま隣の車両へのろのろと歩いて行った。私を含めた乗客は白い目で彼の後ろ姿を見つめ、やがて元の車両の空気に戻る。私はあまりに驚いて、心臓が速まったままで、落ち着かずに周りを呆然と見渡していた。
 すると向かいに座る男が、一瞬、信宏と重なった。
 分厚いコートの上からでもわかるほどがっしりした体つきをしていて、それに似合わず目は小動物みたいにどこか悲しげだった。私は思わず食い入るように男を見つめてしまう。男は私の視線に気づいたのか、怪訝そうに顔をあげる。
 私は慌てて目をそらし、本の文字列へと戻した。さっきの恋に落ちた主人公に感情移入しようとする。でも、中々うまくいかない。男の視線と、座席の足下の効き過ぎた暖房が、余計に私の意識をフィクションから遮ってくる。とにかく会話だけでも追って、少しずつ落ち着きを取り戻す。
 本の主人公は、まもなく恋に落ちる。惜しげもなく甘い台詞を吐く男には、信宏や北沢たちの持つ生々しさはない。彼らはどんな匂いも発さず、温度も持たない。彼らの顔も体も、輪郭のぼやけた想像でしかなく、私の頭の中で理想の像としてつくりあげられる。
 私はこうして本を読むことでしか、恋ができない。
 電車の中は暖房で温められ、着ぶくれした人々の汗の匂いが充満する。ひどい空気だった。また気分が悪くなる。現実の男は、いつも吐き気がするほど生々しい。私は本を持ち上げて鼻に押しつけ、最寄り駅までの時間をひたすら耐え続けた。

 クラス飲みから三日後、未登録のアドレスからメールが届いた。差出人は、田中だった。久しぶりに会えてよかった。今度一緒に食事に行かないか。という内容だった。絵文字もデコレーションもついていない簡潔なメールは、なんの特徴もない田中の見た目を彷彿とさせる。私はつい先日会ったばかりにも関わらず、田中の顔をすでに忘れかけていた。高校時代にほとんど話さなかったせいか、田中を思い出すと、なぜか北沢と前田が出てくるのだ。
「やっぱり行くべきでしょ」
 電話でメールのことを告げると、美緒は迷わずにそう返答した。
「どうして、田中って私喋ったことほとんどないし」
「別に嫌いじゃないでしょ?」
 美緒のけろりとした声に、私はつられて頷いた。
「じゃ、問題ないよ。会ってみて、嫌だったらやめたらいいじゃん」
「そうだけど・・・」
 私の返事に納得しないのか、美緒は一呼吸置いて続けた。
「信宏とは合わなかったんじゃない。ちゃんと話してみたら、田中とはうまくいくかもしれないよ」
 私は納得できなかったけど、美緒に言われるがままにメールを返信することにした。とりあえず、週末なら空いているとだけ伝えると、電話を切ってまもなく、田中から日程合わせの返事がきた。
 眠る前に、田中について知っていることを思い出そうとしてみた。彼と交わしたいくつかのあったような会話の中に、そういえば本の話題があったかもしれない。でも、田中がなにを読んでいたかは浮かばなかった。本棚から埃をかぶった高校のアルバムを引っ張り出し、田中の写真を探した。すると、北沢たちの端に並んでぎこちなく笑う田中を見つけた。その姿は、美緒や千晶の端に映る私の笑い方とどこか似ていた。
 美緒の言うとおり、田中が嫌いなわけではない。それに、田中はたぶん悪い人ではない。北沢みたいに簡単に千晶に引っかかることはなさそうだし、美緒も私に薦めるのだから悪い印象は持っていないのだろう。でも、良い人そうであることが果たして正解なのかはわからない。私はこういう人なら好きになれるのだろうか。美緒が旦那とした「大恋愛」に続くような、恋愛、が生まれるのか。
 人は、どんな風にして恋に落ちるのが正解なのだろう。
 アルバムを本棚へ戻し、私は鞄の中の読み終わった本を出して、次に読む新しい本を買いだめした中から選び出す。壁に沿った五つ並ぶ本棚には、膨大な量の恋愛の物語が眠っている。殻違いの設定の主人公たちが、似たような恋に落ちていく。物語の男たちはだれもが一様に優しく、ベストタイミングで愛の言葉をささやく。瞼の裏でつくられる映像の中で、私は何度も彼らに恋をしてきた。彼らの多くは同じような男だった。だれからも好かれる、顔もそこそこで、優しく、主人公を誰より愛している男だ。もし田中をちゃんと好きになったら、近寄られることも、肌に触れられることも平気になるのだろうか。
 収まりきらない小説は、棚の横に平積みをして並べられ、いつしか小さな塔へと変わる。塔に取り囲まれた部屋はまるで柵のようで、私はその間でひたすら出口を見失っていた。信宏と別れて以来、私は本を読むことでしか恋を味わえない。顔も体も持たず、触れることもできない彼らに、時々、やるせなくてたまらなくなる。

 週明けに取次から送られる入荷は、地下の倉庫の荷台にフロアごと分けて積まれる。三階の文芸売り場は他のフロアより圧倒的に量が多い。とにかく本を端から少しずつ解体して台車に乗せ、フロアへ運び込む。朝一の仕入れを午後までにやりきらないと、また二時になると二回目の入荷がやってくる。江口くんと私は、フロアのバックヤードで荷台から本を下ろし、棚入れしやすいようにジャンルの仕分けをする。ミステリー、海外文学、推理小説、ティーンエイジャー向けの小説、定番の純文学、各出版社別の文庫・・・いくつにも分かれる小振りな山を積み上げていく。
「今日はまだましですかね」
 江口くんは仕分けの手をとめ、一冊を眺める。
「もうすぐ忙しくなるかもね。冬って忙しくなるのよ。うちのフロアだけじゃなく、他も大量に入荷するから、階段もどこも本で溢れかえるの」
「げ! 信じらんないっすね。もう棚に入らないですよ」
「それくらい売れるのよ。閉店間際には棚もがらがらなんだから」
「うわぁ〜」
 間抜けな声を出して、江口くんは再び仕分けの本に手をのばす。私は手を止めずに分け続け、江口くんは腕に収まるだけの本の山を抱きかかえ、フロアの扉を軽く引いて肩で開ける。
「僕、先に出してきちゃいますね」
「お願い」
 江口くんが出て行くと、私は本を半ば投げるようにして積み、どんどん高さを重ねていく。荷台の下部はどれも同じ本のようで、発売中の人気の女性作家の小説が、ざっと見積もっても五十冊は届いていた。おそらく今後もまだまだ入荷させるだろう。少しざらつきのある表紙はすでに手に慣れて、目で見らずともわかるほどだった。
 そのとき、一冊の形の違う本が紛れているのに気がついた。ほとんど同じ形の文芸書の中で、横長の変わった形の本は明らかに浮いて見える。手にとってみると、表紙には若い男の子が寝そべった写真がでかでかと印刷されている。どうやら写真集のようだった。きっと商品課が慌てて間違えたのだ。
 確認のためにページをめくると、そこには若い男たちの姿が並んでいた。
 ある男は日当たりの良いベッドに裸のまま横になって片腕をこちらに投げ出し、またある男は寝間着のようなスウェットを着たまま、台所でインスタントコーヒーにお湯を注ぐ。十代後半から二十代後半の男たちの、あどけない日常の姿が見開きにさらされている。カメラにポーズを決めているわけでも、姿勢良く立っているわけでもない。彼らが普通に過ごしている姿を、同じベッドの上に寝転んで、あるいはダイニングテーブルから台所を覗いて、あたかもすぐ傍で見つめているような感覚に陥る。それは、彼女だけに見せ、彼女だけが見られる男の姿だった。写真集のページをめくるにつれ、まるで恋人同士のような錯覚を起こさせた。
 そのとき、なぜだか彼らの顔は一つも映されていないことに気がついた。後ろを向くか、あるいは俯いて前髪で表情を消していて、髪型や体型が違っても、彼らは不思議と同じ男に見えてくる。
 私の指は、無意識に紙の上を滑っていた。
 ざらついた印刷の上を走り、寝転がる男の肌を確かに撫でている。刷り立ての写真集からインクの匂いが鼻をつく。無防備にさらす肌は若さのせいか艶やかで、毛穴が見えないどころか、汗の匂いも感じられない。思わず吐き気がするような、私の苦手な男の生々しさは一つもなかった。その感覚は、小説に出てくる男たちとまったく同じだった。まるで小説の男たちが体を持ち、目の前に現れたような不思議な気分になった。
 私は息を飲み、彼らの体を夢中になって指先で触れる。
「西さん、そろそろ休憩に・・・」
 急に後ろから声がして、私はちいさな悲鳴をあげる。後ろには三歩ほど離れたところに、宮崎さんがいた。宮崎さんの目線は、私ではなく、手の中の写真集にある。私は、なにをどう言い訳しても無駄だと一瞬で悟り、わざと少し驚いた顔をして本を持ち上げた。
「あ、これ、すごいですよね」
「はあ」
 宮崎さんは眉をひそめて頷き、私は慌ててメモにペンを走らせた。
「七階の行き違いなんです」
 顔が急激に赤くなるのを感じながら、写真集をボックスに入れ、素早くフロア訂正のメモを貼る。七階に運んでもらうためにエレベーターの前に置き、行き場のない手を慌てて荷台の他の本にかけた。
「そうなんですか」
 宮崎さんはなにを思ったかボックスに近寄って、その写真集を手に取った。彼女は躊躇うことなく、あっさりとページをめくる。さっきまで眺めていた男たちの写真がさらされて、私は高鳴る胸を必死で押さえ、仕分けの本の山に手を伸ばした。
「男の子ばっかりですね」
 宮崎さんの棒読みの感想がやけに響き、私は慌てて背を向けて同調する。
「そうですね」
「西さんって、彼氏いないんですか」
 私をからかっている素振りはない。宮崎さんは、至っていつもと同じで真面目な聞き方をした。
「はい」
「私もです」
 宮崎さんは、なぜかこちらを見つめたまま目を離さない。私はわけがわからず、耐えきれなくなって目をそらし、その場から離れようとフロアへの扉に手をかけた。
「こういうの憧れますか」
 単調な言葉の響きに、「どうだろう」とだけ言い残し、私は慌てて扉を引いてフロアへと出た。扉が重みで閉まるとき、宮崎さんがなにか言った気がした。でも、戻って聞き直すことはできなかった。フロアの中はいつもと同じ邦楽のメロディラインに満ち、私は深呼吸して新刊のワゴンに足を向けた。
 宮崎さんの目が見づらくて、その後はそっけない会話しか交わすことができなかった。バックヤードで居合わせるとすぐにフロアに戻り、悪いなと思いながらも、足が自然と彼女を避けてしまう。男たちが無防備に体をさらす写真集を、私が夢中になって撫でる姿を見て、彼女は一体なにを思っただろう。もちろん、気持ち悪い女だと軽蔑しただろう。今まで私が散々彼女を見下してきたように、彼女も今日から私をそういう目で見てくるに違いない。頭で色々考えているうちに、彼女がどんな目で私を見ているのか知るのが、いやに怖かった。

 一時間残業して仕事を片付け、ちょうど事務所から出たとき、後ろから「西さーん」と声がした。大通りの人混みの中から、江口くんが手を振っていた。なにやら肩に膨らんだショルダーバックをかけ、重たそうに体が傾いている。
「あれ、遅いですね」
「あぁ、そう。残業で。江口くんは?」
「漫画買ってたんです。自分の店で買うのは気が引けて、あっちの本屋まで行きました」
 江口くんはちょっと恥ずかしそうに通りの百貨店の本屋を指さして笑う。布製のバッグは詰めすぎているせいか、ジップが閉まりきらずに中の漫画の端が見えていた。江口くんはバッグを肩にかけ直し、私たちは駅までの短い道のりを歩いた。
「西さんって、やっぱり小説好きなんですか?」
「そうだね、わりと」
 私が適当に答えると、江口くんは話題に食いついてくる。
「だれが好きなんですか?」
 江口くんの唐突な質問に、私はうまい答えが見つけられなかった。最近読んだのはポップカードを描くこともあって、話題の恋愛小説の著者関連ばかりだった。あまりに話題になっているし、江口くんには中々言いにくい。でも他に答えようとしても、他のジャンルの本は一つも頭に浮かばなかった。私が答えにもたついていると、江口くんはあっけなく話題を変えた。
「宮崎さんって、絶対恋愛小説ばっかり読んでると思うんですよね。なんかちょっと、さぶいなって思いませんか?」
 嫌みのない言い方に、私は「そうだね」と苦笑いをした。
「恋愛したこともなさそうなのに、夢でも見てるんですかね」
 江口くんの言葉に、私はなにも返せなかった。
 ちょうど東口の改札に着いて、JRに乗る江口くんに「お疲れさま」と手を振った。彼は肩にくいこむ鞄を引き上げ、軽くお辞儀をして手を振り返す。私は彼を見送ると、私鉄の改札まで人の波に押されながら、のろのろと進んでいった。
 頭の中では江口くんのからかうような「さぶいなって思いませんか」が響く。宮崎さんが何を読んでいるかは知らないけど、私の本棚の大半は恋愛小説だった。私はずっと、そればかり読んできた。一体、私と宮崎さんの一体なにが違うのだろう。
 美緒や千晶と会っているとき、私は明らかに浮いている。でも、書店では浮かないのか、私にはわからない。アルバイトの女の子たちの恋愛話にだってついていけない。私は一体どの位置にいるのだろうか。世の中の人々をおおまかなカテゴリに分けたとき、美緒と千晶が女の子たちと同じ位置にいるならば、私と宮崎さんは確実に同じ場所に収まるに違いないのだ。小説を読んで恋愛気分に浸っているのは私のことで、江口君の言う、さぶい女の一人だった。
 電車に乗ると、鞄に入れたままの小説の残り僅かなページをめくった。
 小さな文字はインクの模様から物語へと変わり、指には紙をめくっているという感覚すらなくなる。本の重みも、周りの気配も、すべてがそこから排除され、目に映るのは文字ではなく、登場人物の目に映る景色と化す。本を開いている間、私の体だけが置き去りにされて、「私」は現実から消えてしまうのだ。ページをめくり、まためくり、やがて最後のページを迎える。
 主人公が男と結ばれてハッピーエンドを迎えたとき、文字の連なりは終わり、そこには空白の未来が提示される。私は突然物語から出され、手元にあるのが本だと気づく。現実に帰ってくると物語の世界は消え、私は急に本の外側にいる人間に戻り、主人公たちとは何の関わりもなくなってしまう。さっきまで触れ合っていた物語の恋人は奪われ、私は一人きりの現実に戻る。恋人も家族もいない、たった一人で毎日を生きる、孤独な人生が待ち構えているのだ。
 物語に浸るとき、私はいつも孤独でしかない。
 携帯電話には、田中からのメールが届いていた。「今夜は寒いね、そっちはどう?」という何でもない内容を確認し、私は眠ったことにしようと、携帯を閉じて鞄の奥にしまった。帰り道を歩きながら、私は今朝の写真集のことを思い出していた。

 朝礼を終えた店内は、開店への準備に慌ただしく、レジのチェックの音やアルバイトの子たちの点呼の声に溢れていた。今朝の新聞の書評がレジ前に並べられ、私はメモを片手に取り上げられた小説の題名を書き写す。やっぱり恋愛小説は評価も高く、これで益々売れるだろうなと、ぼんやり考える。
「あの、この前のことなんですけど」
 急に声をかけられて顔をあげると、宮崎さんがいた。私はあまりに驚いて一瞬なんのことかわからなかったが、すぐに写真集のことを思い出した。おそるおそる彼女の目を見ると、宮崎さんはしどろもどろに話し始めた。
「西さんがよければなんですけど、教えたいことがあって」
 宮崎さんの声は、レジの音で消えそうなほど小さく弱々しい。私は「なに?」と尋ね、黙ったままの彼女の返事を待った。
「男の人と眠る場所があるんです」
 宮崎さんの言葉は、すぐに理解できなかった。彼女の言葉一つずつを繰り返し、ようやく理解したところで、彼女の目がいたって真面目なことに気づき、私は余計に訳がわからなくなった。
「やめてくださいよ、そんなフィクションみたいな」
「ちがうんです」
「なにが?」
「添い寝」
「え、女向けの風俗みたいなってこと?」
「いや、眠るだけなんです」
「はあ」
「気に入らなかったら聞かなかったことにしていいんで、一度行ってみてください」
 宮崎さんは折りたたんだ水色の付箋のメモを私に押しつけて「だれにも言わないでください」と、小学生みたいなことをつぶやいてバックヤードへ走り去った。私は水色のメモ紙を開いて眺める。そこにはどこかのウェブサイトのアドレスが書かれていて、不規則なアルファベットから意味は読み取れなかった。
 ちょうど問い合わせの電話がかかって、慌ててポケットに入れた。その後、私は仕事に追われているうちに、メモのことはすっかり忘れてしまっていた。

 新宿で待ち合わせた田中は、前回のスーツと違い、ボーダーのシャツにダウンを重ね、ジーンズを履いたラフな格好だった。人の出入りの激しい西口で、田中は携帯ばかり見ているせいか小さく見えた。私が「田中くん」と声をかけると、田中はよほど驚いたのか「うわぁ、早いね」と言い、待ち合わせぴったりの時間を指す時計を二度見した。
 私たちは一人分の隙間を保ったまま歩き、大通りの二階にあるカフェに入った。店内からは外の人混みが見渡せて開放的だったが、隣と席がどことなく近く、テーブルもやや小さめで落ち着きづらい。田中はメニューを睨んで十分考え込んだ末にアイスコーヒーにし、私はちらっと見ただけでレモンティーにした。
「この間さ、全然話せなかったから誘ってみたんだ」
 田中はストローで氷をかき混ぜながらそう言って、私の顔をまじまじと見つめた。
「そうなんだ」
「楽しかった?」
 疑うような視線に、私は「え?」と聞き返した。
「いや、西って千晶や美緒といて笑ってるけど、いつも楽しいのかなって思ってたんだ」
「楽しくなさそうってこと?」
「そうだな」
 私はしばらく考え込み、「そうだね」と言った。
「でも、田中も北沢たちといて楽しそうには見えないよ」
 田中は驚いて飲んでいたコーヒーをむせて、何度か咳き込み、頷いた。
「高校のときからさ、俺たち似てるなって思ったんだ。野球部のみんなとつるむのも嫌じゃないけど、正直、一人でいるほうが楽だった。あのときは、特にな」
 田中はそれから堰を切ったかのように愚痴り始め、私は適当に頷きながら、レモンティーに沈んでいく氷を見つめていた。
「西さ、クラスの隅で本ばっかり読んでただろ。美緒たちとも仲良さそうだったけど、一人が好きそうでさ。俺も一人でいるの好きだったから、似てるのかなって思ってた。みんなでつるむより、一人で好きなことしてる方が充実してた。西もそう思ってたんだろ? 俺、西が本読んでるのよく見てたよ。あの頃に読んでたのって・・・」
 回転の速いカフェで、いつまでも話し続ける田中を見ながら、私はなんだか自分を見つめているような気分になった。田中のそり残した髭がやけに気になって、そうすると、ダウンを着ているせいか汗ばんだ首もとも気になった。
「聞いてる?」
 田中は急に手を伸ばして、私の右手に触れた。田中の手は生ぬるく湿っていた。私は振り払うのをこらえて、「うん」と頷いた。
「なに読んでたのかって話」
「えっと、小説」
「どんな?」
「恋愛・・・小説、かな」
 私はそう答えながら、頭の中で千晶の肩に触れる北沢を思い出していた。
 同じことを田中にされたら、私は喜んで彼についていくだろうかと考えた。それは、どう考えてもできそうになかった。田中の手の感触が何度も右手に蘇って、私は信宏と手を繋いだときも同じことを思ったことを思いだした。
 やっぱり、私には無理なのかもしれない。信宏から田中に代わったとしても、耐えることができないかもしれない。私は田中の手を無理張り振り払わないように必死で、その後交わした会話はほとんど耳に入っていなかった。
 夕方に駅で別れるとき、田中は夕飯を誘ったけれど、私は約束があると断って、また連絡すると約束した。駅の改札で見送る田中を振り返らず、私はまっすぐにホームの階段へと足を進めていった。
 
 最寄り駅に隣接する書店に立ち寄り、写真集のコーナーで足を止めた。この前行き違いで見つけた写真集が、新刊台の隅に重ねられ、だれかが手にしたのか一冊だけが中央に置き去りにされていた。雑誌や文芸の賑わいから離れ、客もまばらな書店の一角で、定価三千円の男の子たちは、前と変わらぬ姿で体を晒している。
 私の人生は、主人公たちとはかけ離れて、いたって平凡だった。美緒や千晶とは違って、私はどこにいても浮くことも目立つこともない、なんでもない脇役に過ぎなかった。でも、物語を読むときだけ、私は幸運に満ちた主人公になれた。ひとたびページをめくれば、運命の人に出会い、恋に落ち、ハッピーエンドを迎えられる。目の前の現実から抜け出し、理想の世界へと連れ出される。
「ちょっと、すいません」
 急に声がして驚くと、女性から私の隣から手を伸ばし、写真集を手に取った。彼女はそそくさと本を手に、レジへ向かった。
 棚に陳列する膨大な数の書籍と、まるで道を見失ったように彷徨う客。私を含めた店員は、この見えないルートを取り仕切り、彼らをフィクションの世界へ導く。
 フィクションの味をしめた私たちは、もはやこの中でしか生きられないのだ。
 書店のバックヤードに積まれる何百冊の山は、夢の塊であり、絶望の象徴である。幼い少女から孤独死を目前に控える老人にまで、フィクションは未来のある明日を押しつける。ページをめくり続ける限り、この世に物語が存在する限り、私たちはいつでも主人公になることができる。でも、物語はいずれ終わりがある。ドラマチックなことが起きるのは紙の上の文字の中だけで、私たちはページが終われば強制的に物語から追い出される。架空の恋愛は、いつか必ず奪われることになるのだ。
 フィクションを愛する人間は、なんて孤独なんだろう。

 家に帰ってベッドに潜り、写真集の薄いビニールを引きちぎる。
 時計の針は午前三時をさして、私は真夜中に顔のない男たちの姿を眺めていた。無防備に肌をさらす男たちの上を指で触れ、冊子から立ち上るインクの匂いを嗅ぐ。
 信宏と付き合っていた頃、彼が手を繋ぐたび、キスをするたび、抱きしめるたびに私は吐き気がした。生ぬるい体温が指に伝わり、粘り気のある舌が口へ入るたび、私はどうしても耐えられなくなった。私がやんわりと拒否をすると、信宏は必ず理由を求めた。彼に理由を咎められても、私は正確な答えが口に出せない。匂いがあって、体温がある彼が、生々しく焼き付いて離れない。思い出しただけでも、苦しくなった。
「なんで避けるの?」
 信宏がそう聞いたとき、「わからない」と正直に答えた。そしたら、彼はため息をついて、
「そんなんじゃ、いつまで経っても恋人にならないよ」
と言った。そして、私が避ける理由を「本の読み過ぎだろ」と責めた。たしかに、彼の言う通りかもしれなかった。
 でも、私は写真集を前に、彼らに触れたいと思っていた。彼らの温度を想像し、抱きしめられた感触を浮かべて、激しく胸が高鳴る。
 文字の羅列でしかなかった男たちが、生々しい肉体を持つ。決して嫌な気分にはならない。彼らの腕、足、胸、その一つずつを目に焼き付け、頭の中に浮かべる。やがて指が伸びて、インクの上を這う。色づけされた彼らの肌に、思わず鼓動が速くなる。彼らはどんな肌をしているのだろう、指で押せば沈むほどに柔らかいのか、もしくは筋肉質で跳ね返されるくらいに硬いのか。体温は生ぬるいのか、熱いお湯のようなのか。どれくらいの腕の力で抱きしめるのか。
 彼らの肌を想像し、抱きしめられたときの感触を、自分の左腕でつくる。彼らは物語の中の男たちと同じように、私の頭の中で性格や仕草が付け足され、理想の男へと変化していく。私だけを愛するための男は、私の物語にのみ存在する。
 もし、たった今この部屋をだれかが覗いていたとしたら、その人はこれを孤独と呼ぶのだろうか。薄っぺらい写真集を開いたまま、私は鞄をたぐり寄せてメモ紙を探した。



 瞼を閉じた後の記憶は、まるでなにもない。
 夜明けの日差しが顔にかかって目を覚まし、私はようやく隣の男のことを思い出す。男は寝返り一つ打たず、寝言一つ話さない。私が体を揺すっても、脇をくすぐっても、大声を出しても目を覚まさない。男は知らない私と眠ってどんな夢を見るのだろう。もしかしたら、なにも見ないのかもしれないけど。

 昨晩、初めてこの部屋を訪れた。
 深夜に地下鉄に乗り込み、見慣れない駅で降りた。駅の周りにはコンビニとドラッグストアがあるだけで、他には特に何もない静かな住宅街だった。二階建ての似たような一軒家とアパートが隙間なく密集した道を進み、何度も小道に曲がって、坂を上っては下った。携帯電話の地図が示す目的地と私の居場所の印がようやく重なると、私はなんの特徴もない古びたアパートの前にたどり着いた。
 アパートは、どの部屋にも明かりがついていない。廊下には乾いて固くなった洗濯物が吊され、煙草が詰め込まれた空き缶が転がっている。錆び付いて名前もない郵便受けを確認し、私はおそるおそる階段を上がって、指定された部屋の前まで辿りついた。
 二○二号室の重たい扉を開くと、男はすでに深い眠りの中にいた。
 部屋には布団を敷いただけの六畳ほどの和室と、玄関側にコンロ一台の簡易的な台所となにもないダイニングがあった。家具らしきものはテーブルくらいで、それがなおさら布団を異質なものに思わせる。向かいのマンションの灯りがカーテン越しに光を撒き散らし、古びた畳の埃っぽい匂いの中に、わずかに男の体の匂いが漂っていた。
 テーブルの上に置かれた紙には、以前メールでもらった注意書きと同じ内容が記されていた。寝間着は布団の横にあり、どうしても眠れない場合のために戸棚の中に薬がある。男は完全に眠っていて、私が帰った以降でないと目を覚まさない。男は私のことを何一つ知らないし、同じように男についても何一つ書かれていない。
 私は内側から鍵を閉め、男の眠る布団へと近づいた。
 眠っている男の顔は、特別に美しく整っているわけではなかった。柔らかそうな黒髪が耳にかかり、前髪の隙間から額にちいさな痣が見える。眉は手入れされずに長いままで、歳はたぶん二十五歳にもなっていない。口はわずかに開いて歯が覗き、首にうっすらと汗をかいている。
 私は押し入れに見つけた寝間着用のワンピースに腕を通し、布団の傍に腰を下ろし、足先を入れてみる。男の汗のせいか、中はじっとりと熱かった。布団をめくり、少しずつ体を押し込み、肩まで入ると全身が生ぬるい温もりに包まれた。眠った男の顔が目の前にきて、彼の規則正しく吐く息が私の頬をかすめる。
 男の匂いは、さっきよりずっと濃く、強くなった。体の熱が直接肌に伝わって、一瞬、逃げ出したい衝動に駆られるのではと、どきりとする。でも、なぜだか決して嫌な感じはしなかった。冷えきった足先をいたずらに男の脹ら脛につけてみたけど、男はわずかな抵抗も見せずに受け入れる。開いたままの左腕に頭をのせ、もうしばらくして、胸に鼻を押しつけた。
 確かに、生身の男だった。
 でも、不思議なことに信宏に以前感じたような不快感は一つもない。私は息を吸って、男の匂いで体を満たす。写真集の男たちを見つめ、思い浮かべた体温や感触が、次々に与えられていく。まるでよく知る親しい人の家に泊まったときのような安心感が、私の張り詰めた緊張を解いていった。
 夜明けの街は、明るい水色に満ち始めていた。
 眠りから覚めきらない体を引きずって玄関を出て、突き刺すような寒さへ身を投げる。階段から転げ落ちないように慎重に降り、だれもいない道に出る。迷うように狭い路地を抜け、大通りに出たところで、ようやく二度目の眠気が襲ってくる。
 本当に、あの部屋で眠っていたのだ。
 帰り道を歩きながら、まるで一冊の本を読み終わったような気分に浸っていた。つい十五分前まで部屋にいて、見知らぬ男と同じ布団で眠っていたことは、疑いようのない事実だった。男はまだ夢の中だろうか、それとも、だれかが起こしにきたのだろうか。部屋を出ることは、物語から強制的に出される感じとよく似ていた。
 人もまばらな始発の電車に乗り、巨大な街を駆け抜けて、私は外の景色をぼんやりと眺めていた。

 朝礼を終えた後、一階のレジカウンターに並べられた各新聞の書評欄をメモ紙に書き取る。日曜の朝刊を見比べて、先週のものと書籍を入れ替えなければならない。私が先週買った写真集も取り上げられていて、どうやらそれなりに売り上げ、注目を集めているようだった。
 数冊のタイトルを書き終わる頃、宮崎さんがバックヤードから出てくるのが見えた。彼女はカウンター前の棚まで確認に行く途中、私に気がついて小声で挨拶した。
「おはようございます」
「あ、おはようございます・・・」
 私が返事をすると、宮崎さんは棚の前で足を止め、周りをきょろきょろ見渡した。だれも近くにいないのを確認すると、私の方へほんの少し近寄ってくる。
「行きましたか?」
 私は答えに迷った末、黙って頷いた。
「そうですか」
「あの部屋って一体・・・」
 今しか聞けないと思って言いかけたところで、カウンターの奥から「やっだぁ」と笑い声がした。アルバイトの女の子二人がレジの下から顔を出し、私は思わず口をつぐんだ。
「よく眠れますよね、それでいいんです。心配しなくて大丈夫です」
 宮崎さんは彼女たちに聞こえないようにつぶやいて、後ろの棚を確かめに行った。私は女の子たちを横目で追って、さっきの会話を聞かれていないことを祈った。新聞をサービスコーナーに置くと、フロアまでのエレベーターの中で、昨晩の部屋のことを考えていた。
 宮崎さんからもらった水色のメモには、会員制のウェブサイトのアドレスが書かれていた。アドレスの下に書かれたログイン名とパスワードを入力すると、複雑なアルファベットのメールアドレスが表示される。そこに空メールを送って、一分も経たないうちに自動転送で一通のメールが返される。
 最初のメールには、部屋についての説明が書かれていた。

 ①この部屋は安心できるお客さまによる紹介の会員制です
 ②名前や年齢などの個人情報の登録は不必要です
 ③男は決して起きません、お客さまの情報は一切知りません
 ④部屋に入りましたら、内鍵で戸締まりをお願いします
 ⑤男に対してのいたずらはご遠慮ください
 ⑥予約は自動転送のメールにて承っております
 ⑦眠れない場合は、戸棚に薬が入っておりますのでご使用下さい

 たった七つの箇条書きと、簡単な料金システムだけが記されていた。値段は決して高くない。いかがわしい風俗ではなく、男は眠っているだけなので、それは納得ができる。サイトには不必要なことは何一つ書かれておらず、客への挨拶やお礼は一切省かれている。
 肝心の男たちのことも、同様になにも書いていなかった。彼らの名前や顔はもちろん、人数さえ記されていない。他の風俗サイトのような紹介写真どころか、サイトには画像の一つも載せられていない。それはまるで、だれかがいたずらでつくったともとれるような、本当に簡易的なサイトだった。
 宮崎さんに聞きたいことは、もちろん山ほどあった。
 男はどうやって眠らされているのか、なにをしても起きないのか。眠っている間、もしかしたら男の腕が鬱血するんじゃないかと心配になったりもした。結局、夜明け前に目が覚めたときには、男は寝返りを打ったのか腕は私の頭から自然と解放され、こちらに背を向けて眠っていた。私が着替えをすませる間も、男が起きる気配はまったくなかった。男は、一体いつ目覚めるのだろう。眠らされている薬は、かなり強いものなんだろうか。睡眠薬に詳しいわけではないけど、普通はもっと簡単に目覚めてしまうのではないか。私が書評の書籍を入れ替る間にも、疑問は次々に浮かんできた。
 開店のチャイム音が鳴り、一階から「いらっしゃいませ」の声がばらばらと響きわたる。三階のフロアはついたばかりの蛍光灯が眩しく、まだだれもいない棚の間を歩き回る、宮崎さんのスニーカーの足音だけが目立っていた。
「おはようございます」
 江口くんは軽く頭を下げてカウンターに入り、カレンダーの裏に書いたシフトの割り振りを確認する。「俺、朝一で入庫ですね」と言い、軽く背伸びをしてフロアを見渡した。
「そうそう、今日から来週のフェアの準備するから」
 私の言葉に、江口くんはわかりやすく肩を落とした。
「次は何のフェアなんですか?」
「この間の恋愛小説の作家さん。彼女の選書と著書の棚をつくるのよ」
「うわぁ、絶対混むじゃないですか」
 江口くんはため息まじりに悲鳴をあげ、バックヤードに入庫を取りに引っ込んだ。
 カウンターに一人きりになると、私は視線の先で宮崎さんを探した。数人の客が行き交う棚の間で、彼女の姿が目に留まる。そのとき、宮崎さんが棚入れをしながら、右足が微妙に動いていることに気がついた。店内に流れるヒットチャートのオルゴールにアレンジしたBGMに合わせ、右足が時々、目立たないようにリズムを刻んでいる。彼女が振り返りかけて、私は慌てて視線を手元の紙に戻した。前からあんな感じで棚入れをしているときがあったのだろうか。顔を合わせるのは気まずく、しばらくシフト表を見つめたままでいた。いつもと違ってみえるのは、私の考えすぎかもしれない。
 夕方五時になると、宮崎さんは「それじゃ、お疲れさまです」と言うなり、すぐにエプロンを外してカウンターから出ていってしまった。
「あ、おつかれさま・・・」
と、私は慌てて返事をした。カウンターには薄緑色のメモが貼られている。多分、彼女からの引き継ぎの仕事だろう。
「宮崎さんって、時々そっこう帰りますよね」
 江口くんは新刊を出しながら、いそいそとバックヤードに消える彼女を見て言った。いつもなら言わなくても残って仕事を続けるのに、宮崎さんは度々こうして定時ぴったりに帰るときがある。メモに書かれた仕事は、まだ五個以上残っていた。残りは新刊用のポップカードや文芸誌のバックナンバーの補充などで、複雑な仕事はないように工夫されていて、下には宜しくお願いします、と走り書きが添えられていた。
「そうだね、たしかに」
「もしかして男だったりして」
 面白そうに吹き出す江口くんをよそに、私は苦笑いを浮かべ、注文書を書き進めてそれ以上聞こえないふりをした。ちょうど、江口くんのポケットの内線機がピロロロと鳴り、「はい、文芸担当の江口です〜」と答えながら、電話を片手に棚の奥へと消えていった。
 宮崎さんはきっと、あの部屋に行ったのだ。前回確認したときに、今夜の予約はすでに入れられていたはずだった。五時半までに電車に乗れば、ちょうど向こうには六時過ぎにはつく。
 江口くんのからかうような笑い方に、私はもう同意することができなかった。今の私には、彼女をからかう資格なんてない。同じ部屋に通い、同じ男と眠って似たような欲を埋めることに、なんの変わりもないのだ。

 仕事を終えて店を出ると、街の中は、一人で夜を明かしたくない人たちが溢れ返っていた。北口の可愛い女の子たちが相手をしてくれる店へ向かうおじさんたちや、カラオケの前でオールをするか悩む男女のグループがあちこちで立ち止まって、追い越すこともできない。
 酒臭い人の流れに乗って歩いていると、前から聞き覚えのある声がした。
「あ、もう終電なくなっちゃう」
 顔をあげると、二人ほど挟んだ前に千晶がいた。少し酔っぱらっているのか、千晶の頬はもう赤くなっていて、目尻が黒っぽく滲んでいた。隣には、千晶より頭一つ分ほど背の高い男がいる。二人はほとんど隙間もあけずに並んで歩いていて、千晶は親しげに彼のコートを掴んだり、軽く叩いたりした。
「もう十二時過ぎたもんな。じゃ、うちにいこうか」
「えぇ?」
 千晶は鼻にかかった甘え声で聞き返し、男は顔色も変えず、千晶の手を強引につかんで引き寄せる。
「なに、いやなの?」
「だって、別に私たち付き合ってるわけじゃ・・・」
「なに言ってんの、別にいいじゃん」
 ヒールの靴がぐらついて一瞬よろめき、「私、もうそういうのはちょっと・・・」と口ごもる千晶に、男は「そんなの気にするなよ」と言い放つ。千晶が嫌がっているなら声をかけた方がいいかなと思ったけど、彼女は強い抵抗をすることもなく、男の手に引っ張られ、改札へと吸い込まれていった。
 二人の姿が見えなくなると、私は人の波に押されるまま、地下鉄の乗り場に向かった。
 地下鉄の改札付近は、歩きにくいほどにあちこちにカップルが溢れていた。柱のあちこちで立ち止まり、今日の別れを惜しむように寄り添い合う。彼らを避ける度に、私は壁際に追いやられ、なるべく鞄を体に寄せて早足で歩き続けた。鞄の紐を強く握りながら、なんとも言えない息苦しさが胸の奥に詰まっていた。
 さっきの千晶が、ふと頭をよぎる。明日の朝になったとき、彼女はなにを思うんだろう。彼女を腕に入れたまま、男は朝まで千晶に優しくしてくれるだろうか。もしかしたらすぐに背を向けて眠ってしまって、千晶は結局一人きりで眠るかもしれない。それとも、耐えきれずに夜明け前に家を出てしまうのか。千晶の華奢なヒールに押し込まれた足は、なんだかひどく惨めに思えた。
 電車が発車して、反対口のネオンが目に焼き付く。
 外の空気が冷たい分、電車の暖房は余計に強められ、窓が曇るせいで景色はほとんど見えない。座席は熱すぎるほど温められていて、何度座り直しても居心地が悪かった。
 私は本をめくっては閉じ、めくっては閉じを繰り返し、あと一駅のところで仕方なく諦めて鞄の中に押しやった。いつもならすぐに読めるはずなのに、今日はなんだか集中できない。一行目すら追い終わらないうちに、いつの間にか宮崎さんや千晶のことを考えてしまうのだ。
 添い寝の部屋に通うことには、もちろん抵抗もあった。眠っているとは言え、若い女の子たちにお金を払って相手をしてもらう中年男性たちと、ほとんど変わりはなかった。私と男たちも、歳は十歳近く離れている。そう考えると、私より以前から通っている宮崎さんは、なんの抵抗もないのかと疑問がよぎる。でも、宮崎さんの考えていることは、私には想像もできない。
 今夜、宮崎さんはどんな風に部屋で過ごすのだろう。ただ眠るだけなのか、それともなにかするんだろうか。禁止されたいたずらは曖昧すぎて、なにがだめで、なにが良いのかははっきりと書かれていない。部屋には管理する人の気配も、監視するカメラもなさそうだった。部屋にいる間、なにが起こったかは、おそらくだれも知ることができない。もちろん、その方が私にとっては好都合だし、安心して部屋へ行くことができる。でも、同時に眠った男の眠りの深さから、頬を叩いても、殴っても、たとえ首を絞めたとしても、男は目を覚まさないのでは、とよからぬことまで考えさせる。
 眠ろうとベッドに潜っても、シーツはいつまで経っても冷たいままだった。私は毛布を肩の上までのせ、昨日と同じように横向きになって体をまるめる。背中に覆い被さる重みはまるで抱きしめる男の腕のようだった。それが余計に、昨日を思い出させる。でも、シングルベッドは思った以上に広くて、腕を伸ばしても、足を広げても、一昨日までのようにはうまく埋まらない。
 携帯電話のお気に入りに登録した予約サイトを開き、明日の日付を選択する。私は迷わず送信ボタンを押し、一分もたたないうちに確認メールが折り返された。
 現実の男はあんなに嫌なのに、どうして添い寝部屋の男なら平気なのかは、自分でもわからない。でも一度眠ってしまえば、今更行かなければ良かったなんて、私には一つも思えなかった。
 他の客たちはどんな理由を抱えて、部屋へ来ているのだろう。

 部屋の予約は、一回だけしか入れられない。一度部屋へ行ったら、翌日から次の予約ができるようになる。当日キャンセルが出た場合は、サイトから確認することができた。タイミングよく予約を入れなければ十日以上空くこともあると、宮崎さんが教えてくれ、それからは制服のエプロンに携帯電話を忍ばせるのが日課になった。時間ができるとバックヤードで携帯を取り出して、キャンセルが出ていないかを執拗に確認した。
 二回目の訪問は、前回とは違って時間ぴったりになるように駅についた。
 各駅停車しか止まらない駅にはいつも人が少なく、ドアが開いて降りるのはせいぜい二、三人だけだった。一つしかない改札から二本の道に分かれ、彼らは私と逆方向へと進んでいく。駅前のコンビニには立ち読みをする客が一人と、眠たそうな店員がレジに一人。そこから先は、外灯もまばらな道が続く。目印もない路地の曲がり角は、なんとなく足が覚えていて、携帯電話のナビゲーションを見ることもなく、アパートの付近まで辿り着いた。近隣の住宅はどこも電気が消えていて、子供の声も、洗い物の音も聞こえない。
 部屋のドアを開けると、以前とは別の男が眠っていた。
 男というより、彼は二十歳にも満たないくらいの少年だった。前回の男よりも体は痩せていて、猫背にまるめた背中を壁側に向けている。柔らかくパーマがかかった髪は、まるでたった今風呂に入ったように石鹸の匂いを放っていた。外から遠くのマンションの明かりが入りこみ、青い血管まで透けた肌を照らして、私は思わず見入ってしまう。
 男の寝息は、どこか頼りない。ほとんど無音と言えるほど、すうすう、と弱々しい呼吸をして、上半身がやや持ち上がる。めっきり寒くなったせいなのか、布団の中には腹から膝の上までに電気毛布が被せてある。スイッチは弱に設定され、布団のすぐ傍のコンセントに繋げられていた。
「ねぇ、ほんとに眠ってるの?」
 男は、もちろんなにも答えない。身じろぎ一つしないせいで、時々、まるで死んでいるのではないかと思わせた。
 私は服を脱いで布団へ入り、熱すぎる男の体に近寄って、背中に額を押しつける。それから手を伸ばして首周りをまさぐり、どくん、どくんと、強い脈拍を指に確かめた。男の体温で温められた布団にくるまり、雨が降りつける外の景色を眺める。時計はまだ二十三時を指していて、夜の闇は深みを増していく。
「なにか話でもしようかな」
 本当に何気ない、長い夜を過ごすための単純な思いつきだった。
 それから、私は独り言のように、頭に浮かぶ思いついたことを男に話し始めた。まずは生まれ育った田舎のこと。田舎と言っても、田園風景が広がるようなのどかな街ではない。東京から電車に乗って三時間程度で着くような、新幹線とまではいかなくても、特急電車が止まる中規模の駅で、街のどこからでも小高い山が視界に入ってくる。それから小学校から中学、高校と大学を経て、社会人の今に至るまで、大きなトラブルも事件もなかった。ずばぬけて成績が良いわけでも、悪いわけでもなく、私は極めて平均的な生徒だったと思う。なんでもない三十年近くの人生を語っていると、回り回って、やがて本の話題に行き着いた。
「本を読み始めたのは、小学校の低学年ときだったかな」
 共働きの両親は毎晩帰りが遅く、私はクラブや塾から帰ると、眠るまでの膨大な時間を持てあましていた。それを見かねた母親が、学校で販売される十二冊セットの児童図書を購入してくれた。十二冊のうち十冊は、いかにも子供向けの家族や友人との繋がりをうたう作品ばかりでつまらなかったけど、残り二作は初めて読む上級生向けの恋愛の話だった。
「主人公は中学生の女の子だった。彼女の前に、運命の相手が突然現れる話。彼はクラスに転校してきた勉強もスポーツもできる格好良い男の子。二人は互いに意識し合い、どちらともなく惹かれて恋に落ちて、最後はクラスでも公認の素敵なカップルになるのよ。どんな美人が彼に告白しても、彼は少しもなびかないで主人公だけを愛するの。結末には、もちろん二人が結婚する未来が描かれていた」
 物語に入りこんでいる間、私は私ではなく、主人公の女になっていた。彼女が男の子から告白を受けたとき、私は目から涙をぼろぼろ溢して喜んだ。ほとんど目立つことのない私にとって、ハッピーエンドを迎える主人公の人生は夢そのものだった。彼女たちが見せてくれる束の間の夢は、目の前のつまらない日々から私を抜け出させてくれた。
 やがて児童図書から離れて、図書館や本屋で好きな本を探し始めた。両親は私の読書に大賛成で、本を買うためならと、お小遣いも多めにくれるほどだった。テレビで話題の本や、書店で平積みされた本から、私は迷うことなく恋愛小説を選らんで読み漁った。
「一冊、また一冊と、彼女たちの人生を共にする度、私にもいつか、同じような展開が待っているんだと思うようになったの。物語は至って普通の私を、普通ではない特別な主人公みたいにしてくれたのよ」
 私の話す言葉は、白い空気になって部屋の中を漂う。
 夜はさっきよりもずっと深くなっていた。風が吹くと薄い窓ガラスが揺れ、外の雨音は激しさを増していった。いつの間にかタワーマンションの灯りはほとんど消えて、星も見えない空と街が黒々と同化している。カーテンのない窓から暗闇が入りこみ、部屋の輪郭が溶かされて、どこにいるのかわからなくなる。私は男の体に身を寄せて、肩まで布団に潜りこむ。温かい。そして、得も言われぬ安心感が体を包みこむ。
 十歳ほども離れた男と眠りながら、私の心は驚くほど落ち着いていた。
 信宏と付き合っているとき、こんな風に思ったことは一度もなかった。彼が寝返りを打つたびに、私は彼の体温から逃げるように壁際にできるだけ寄せてちいさくなった。信宏だけじゃない、満員電車の人混みだって吐き気に襲われて途中下車したくなるほど苦痛なのに、今はこうして眠る男と触れ合っていたかった。私が感じる嫌な気持ちは、この男の前には現れない。それは、私が男について何一つ知らなくて、彼もまた私のことを何一つ知らないせいだけなのだろうか。
「ねぇ、夢でも見てるの、それともなにも見ないの」
 男は指先一つ動かすことなく、深い眠りに落ちている。
 部屋だけが、まるで切り取られた本の中のようだった。ドアも窓も関係なく、部屋は世界中から切り離された密室だった。現実ではない。夢でもない。私は今、どこでもない狭間を漂っている。私が今部屋にいることは、美緒や田中はもちろん、宮崎さんだって、他のだれも知らない。夜明けがくるまで、私はここにいることを許され、男はここにいることを強いられる。それは、何より私を安心させた。
 それから、私はまた思いついたことをぽつぽつ口に出した。自分でも忘れていたような失敗や、恥ずかしい出来事。なんでもない日々に起こる些細な起伏を、まるで懺悔でもするかのように男に話し続けた。眠る男にする話は、最初は一方的な独り言にしか聞こえなかったけど、次第に、男は私のすべてを受け入れてくれているような気がし始めた。私の話を聞かされて、男は頷きもしなければ、否定もしない。それが返って、私の主張を肯定させる。長々と話を終えた後、私の心は前よりずっと落ち着いていた。
 やがて明るくなっていく窓の外を見つめ、私は布団からはみ出さないように男の傍に寄り添った。

 翌日、休憩時間に美緒に誘われて、ランチに出かけた。
 駅ビル前で待ち合わせた美緒は、人混みの中から私を見つけると「ゆりえ、こっちだよぉ」と手を振った。美緒はウールコートから白いニットワンピースを覗かせて、街を行く暗い色味を着込んだ人たちの中で、一人だけ春を迎えたみたいに華やいで見えた。
「ごめんね、ちょっと休憩押しちゃって」
「ううん、忙しいのにありがとう」
 美緒は嬉しそうに笑い、私の手をとって「あっちだよ」と無邪気に引っ張った。
 私たちは駅ビルのレストランフロアへエレベーターで上がり、美緒のお気に入りのイタリアンへ向かった。一面がガラス張りの開放的な店内は、眩しいほどに晴れた空と、駅付近に立ち並ぶビルが見渡す限りに広がっていた。ランチタイムの一人客が多いようで、首にカードを下げた人が目立つ。広めの四人席に案内されると、私たちは向かい合い、木目に縁取られたメニューを眺めた。
「千晶もね、隣の百貨店で働いてるんだって」
 美緒は前のめりになって喋り、隣に並んだビルを指さした。
「そうなんだ」
「わたしの職場も遠くないし、みんな意外と近かったんだね」
 窓の外を見ながら、美緒は自分の職場を「あっちだよなぁ」と探した。私は「もう決まった?」と聞くと、美緒は「えぇーどれもおいしそうで決められない」と、散々悩んだ末に、私と同じ、クリームパスタとサラダとデザートのついたランチを選んだ。
「田中と連絡とってるの?」
 ウエイトレスが厨房に戻ると、美緒は興味津々に切り出した。
「あの後もメールくるんだけど、あんまり返してない」
「どうして? 気に入らなかった?」
 私の返事に不服そうに首をかしげた。
「そうじゃないんだけど・・・」
 私は理由を言いかけて口ごもり、その間、美緒は携帯電話に届いたメールに目をむける。画面を見つめ、彼女の口元が思わずほころんだ。きっと旦那からの連絡だろう。美緒は私の視線に気づいて、返事を打たずにテーブルの端へ置いた。
「旦那さん、元気にしてる?」
「相変わらずだよぉ。忙しくて遅く帰ってくるときもあるけど」
 私の質問に待ち構えたように答え、美緒はにこやかに微笑んだ。
「そういえばさ、今度旦那が休みのときに、料理教室で習った煮込みハンバーグつくるんだけど、ゆりえも食べにこない?」
 美緒は急に思いつき、前のめりに両腕をテーブルに置いた。
「え? わたし?」
 驚いた私に、美緒は「他にだれがいるのよ」と言って笑った。
「いいじゃん、最近うちに来てないし、三人でご飯食べようよ」
「邪魔したくないよ」
「何言ってるの、決まりね。今度の週末あけといてね」
私が苦笑いをすると、美緒は念を押して決めてしまった。
 主婦や独身女性がこぞって通う料理教室は、美緒が最近体験レッスンに行ったばかりだった。複数あるコースの中から、美緒は一番人気の煮込みハンバーグを選び、前回つくったときの写真を携帯の画面で見せた。画面の写真には、デミグラスソースのハンバーグと大きめの野菜が器に盛りつけられ、生クリームの線がバランスよく描かれている。「これ、意外と簡単にできるんだから」と、美緒は画面を指さして微笑む。
 運ばれてきたパスタを食べながら、美緒はとりとめもない日常の話をした。美緒の旦那はお酒が強くなくて、接待で飲まされると顔を真っ赤にして帰ってくること。週末に郊外のアウトレットに行って、一目惚れしたワンピースを買ったこと。お義母さんの誕生日プレゼントは、マッサージクッションと食器セットのどちらが良いか。
 高校生の頃から、美緒は他の人よりも恵まれた人生を送っていた。それは今でも変わらない。先生や友人から好かれるのはもちろん、彼女が少しでも努力をしたことは必ず報われ、褒められてきた。地道な努力でしか進まない脇役の私とは違い、美緒の人生は主人公のように何倍も恵まれて見えた。だれにでも好かれて、友達も多く、最後には大恋愛の末に結婚までした人生は、申し分のないハッピーエンドに向かって続いている。美緒の話はどれも私の日常とは遠く離れていて、彼女の人生は物語に描かれる理想そのものだった。私は美緒の話に相槌を打ちながら、空になったデザートの皿をいつまでもスプーンでなぞり続けた。
 去り際に、美緒は田中ともう一度会うことを薦めた。「一回だけじゃ、なにもわからないかもよ」と言って私の背中をぽんと叩き、私は「そうだねぇ」と曖昧に返事をした。
 仕事に戻る間際、携帯電話が震えてメールが届く。田中からだった。
「元気にしてる? 兄に子供が産まれて姪っ子ができたよ」
 画面をスクロールすると、生まれたての赤ん坊の写真が添付されている。ほとんど目も開いていない顔がアップで写され、生まれた日付がピンク色のスタンプで押されている。
 田中はあれ以来、出勤前の朝や休憩時間、退勤後くらいに他愛もないメールを送ってきた。メールの内容は、今日は残業が長引いたとか、どこの店で食べたなにがおいしかったとか、当たり障りのないものがほとんどだった。一週間に一通のときもあれば、一日一通のときもある。田中の何でもない日々のかけらが、こうして時々届けられる。
「元気にしてるよ。姪っ子さん可愛いね。おめでとう」
 と、メールを打つ。
 なんのひねりもない返事に一瞬迷ったけど、これ以上なにを加えたらいいのかわからなかった。私は二通に一通程度に短い返事をして、食事に誘われたときは忙しいからと言って断った。田中のことは嫌いではないけど、好きかというと、また違う。

 フロアに戻ると、完成したばかりのフェアの棚は、大勢の女性客で賑わっていた。平日の初日にも関わらず、棚の前は本を入れる隙間もないほど混雑していた。棚にはポップカードが所狭しに貼られ、パステルカラーの装丁の本がずらりと並んでいる。客たちはポップを食い入るように眺め、彩り豊かな本を手に取り、持ち帰る本を厳選して探し出す。棚には人が途絶えることなく集まり、本は次々に抜かれていき、あっという間に隙間だらけになっていった。
「平日なのに注目されてますね。ネットで宣伝したからですかね?」
 江口くんはフロアの荷台に積んだ在庫を腕に抱えながら、隣で同じように本を重ねる宮崎さんに尋ねた。
「そうじゃないですかね」
 宮崎さんは続けて「でも」と言い直す。
「きっと寒くなったから、みんな寂しくなるんでしょうね」
と、きちんと聞き取れないほど小声で呟く。江口くんは彼女の言葉に首をかしげ、意味がわからないと言った顔で、腕を伸ばして顎まで本を抱えこむと棚のどこかへ去っていった。私は二人のやり取りを耳に入れながら、ワゴンの上で追加の発注書を記入した。
 私たちは客の間をぬって何度も仕入れを運んで入れ、在庫を切らさないように気を配り続けた。荷台に積まれる入荷本は日を増して多くなり、ますます巨大な塔をつくりあげていった。一日で早く片付けてしまわないと、また明日の入荷がやってくる。毎日増える入荷書籍数は、目眩がするほど多かった。バックヤードには私の身長より高く本が積み上げられ、入り切らないものは非常階段にまで溢れていった。
「西さぁん」
 聞き覚えのある声がして顔をあげると、エスカレーターに千晶がいた。千晶はひょっこり顔を出して、右手を振って三階へ上がってくる。
「どの階かわからなかったんだけど、すぐに見つけられた」
 千晶はコートのポケットに手を入れたまま、店内を落ち着かなさそうに見渡した。そういえば千晶の職場は同じ駅の反対口の百貨店だと、美緒が言っていたことを思い出した。
「どうしたの、仕事の途中?」
 私の質問に「ううん」と答え、千晶は新刊台の題名を目で追いながら返事を続けた。
「今日は午後休んだの。なんか朝から気分がすっきりしなくてさ。帰りに雑誌でも買おうかなって寄ったら、西さんここで働いてたの思い出して」
「そうなんだ」
「本屋の客層って、なんかけっこう変わってるねぇ」
 千晶はそう言って、フロアの奥を覗き込むように背伸びした。控えめなBGMより千晶の声は目立ち、棚に集まる女性客がこちらを振り返った。真昼の店内はほとんどが恋愛小説フェアを目的に来た客ばかりだった。彼女たちが血眼になって本を探し求めているのに比べて、興味もなさそうに見回す千晶はフロアの光景から浮いて見えた。
 高校時代、美緒を通じて一緒にいる時間も多かったけど、千晶と二人で話した記憶はほとんどなかった。先月の飲み会で会ってから、私が一方的に目撃したきりで、千晶は多分気づいていない。千晶はカウンター前までやって来て、ポスターやチラシを手に取り、私はシフト表に休憩の時間を記入しながら、「仕事忙しいの?」となるべく落ち着いたように尋ねた。
「まあねぇ」
 千晶は新刊台に目を落としたまま、ため息をついた。
「クリスマス近くて浮かれてるからか、みんな急に化粧品にお金つぎこみ出すのよねぇ。おかげで休みもなく連勤だよ。本屋さんも忙しいでしょ?」
「そうだね、家にこもっちゃう人も多いからね」
「こもりそう」
と、千晶は周りを見渡して苦笑いして、新刊台に重ねられた小説を手に取った。装丁に描かれるハートの柄は、居心地悪そうに千晶の手の中に収まり、彼女は思い出したように「あぁ」と頷いた。
「あ、この本なら知ってる。最近すごく売れてるんでしょ? 前にテレビで見たことある」
「人気だからね。もうすぐその人のフェアもやるんだよ」
「ねぇ、三階ってほとんど恋愛小説なの?」
 千晶は新刊台からフェアの棚を見渡して「そうだよ」と言うと、「うわぁ」とあからさまに驚いた声を漏らした。
「小説って読むのって時間かかるじゃない」
「まあ、でも、好きな人はいっぱいいるから」
 周りの客が千晶を見ているのに気づき、私は声のボリュームを落として返事をした。
「だって、つくりものよ。読んでも虚しくなるだけじゃない」
 千晶は苦笑いをした。千晶の声が耳に入ったのか、新刊台を見ていた女性客は、いづらそうに立ち去ってしまった。悪びれもしない千晶の態度に、私はだんだん腹が立ってきた。
「この前、改札の近くで見たよ。あれって彼氏?」
「え?」
 私の言葉に、千晶はさっぱりわからないといった顔をして、ほんの少し間をあけたあとに「あぁ」と笑い混じりに呟いた。
「ちがうよ。彼氏じゃない」
「そうなんだ。じゃ、好きな人?」
 私の返事に苦笑いを浮かべ、千晶は顔の前で右手を軽く振った。
「わかるでしょ、西さんだって大人なんだから」
と、眉をさげたまま、わざとらしく笑ってみせた。馬鹿にしたような笑い方に、私は思わず頭に来て反論しようとした。
 口を開きかけた瞬間、隣の棚から宮崎さんが「あの」と声をかけた。それから「あ、問い合わせ中ですか」と慌ててやめた。私は出そうになった言葉を飲み込み、「いえ」と答える。千晶は宮崎さんを一瞬振り向き、なにも見なかったように視線を戻して、私の方を見た。
「雑誌見ていくわ。またね」
 千晶はひらひらと手を振って、反対側のエスカレーターに向かった。千晶のヒールの足音は硬いフロアに響きわたり、カウンターの周りには甘ったるいバニラの香水が残された。フロアの女性客はまるで違う生き物でも見るかのように、千晶の後ろ姿を珍しそうに見て、またすぐに視線を棚に戻した。
「お友達なんですか?」
 宮崎さんが隣へやって来て、他の客に聞こえない程度の小声で話しかける。
「高校の同級生で・・・」
 すると、「あぁ、なるほど」と納得したように頷いて、私が「どうしてですか?」と聞くと、
「いや、西さんとは全然ちがうから・・・」
と言って、宮崎さんは上目遣いにおかしそうに笑った。彼女の笑った顔に、私の背筋が急に冷たくなった。
 宮崎さんが笑ったのを見たのは、初めてだった。出版社から持ち寄られたポップや納品書に不自然な誤字があっても、一度も笑わなかったのに、今目の前で彼女は小声で「ぷぷ」と声を出して笑っていた。眼鏡越しに見える目元はいつもと変わらず、表情の緩まない微笑みは、なんだか気味が悪く思えた。
「宮崎さんは、どうしてあの部屋に通ってるんですか?」
「え?」
 私の急な問いかけに彼女は困惑の顔をして、まっすぐに私の瞳を捉えた。
「西さんと同じ理由だと思いますけど」
と、言って、またおかしそうに笑みを浮かべた。ちょうど、宮崎さんの内線が鳴り、問い合わせのためにフロアのどこかへ消えていった。
 レジに行くために非常階段のドアを開けると、階段には先に休憩にいった江口くんが背中を丸めて腰掛けていた。足元に紐を縛ったコンビニのビニール袋を挟み、視線は手の中の本に集中している。
「江口くんなに読んでるの?」
「漫画ですよ」
 江口くんは漫画をひょいと持ち上げる。指を挟んだままの表紙は、輪郭線の濃いカラフルな女の子たちが描かれている。漫画の内容は、かわいい女の子たちが平凡な主人公に群がるような、典型的な恋愛漫画だ。深夜アニメにもなっていたこともあって、私でも知っていた。
「あぁ、好きって言ってたもんね」
「本当はコミック担当希望だったんです」
「そうなんだ」
 江口君は私の返事を聞いたか聞いていないかのうちに、再び本の中に入りこんでいた。フロアを行き交う他のバイトの子たちは彼に話しかけることもなく、階段を上り下りしていった。江口くんの猫背の姿は、休憩室の宮崎さんの姿を思い出させた。
 ガラス張りの窓からは、巨大な街が一望できる。大通りの交差点の人混みの中に、千晶の姿が見える。千晶はポケットに手を入れ、早歩きで人混みをかき分けていく。その隣には、手を繋いだ高校生のカップルや、ジュエリーショップの袋を持った若い夫婦が歩いている。千晶は俯いたままで顔を上げない。
 交差点を行き交うのは、書店へ吸い込まれる客と、出ていく客。本を持っている人と、持っていない人。物語に浸るのが好きな人と、そうではない人。そしてまったく寄りつかない他の人。本なんかなくたって、幸せな現実を楽しめる人々。ふと、昼間の美緒の顔を思い出す。カラオケボックスのビルに隠れて、やがて千晶は見えなくなる。
 ピークタイムを迎えたフロアは、孤独の渦に飲まれていた。女性客はさっきよりも多くなって、いつの間にか通路も抜けづらいほどに混雑している。エスカレーターにも他のフロアの本を手にした女性が多く集まり、我先にとレジへ駆け足で急ぐ。
 小説、漫画、写真集、そのほか多くのフィクション。文芸だけではない、どのフロアの本でも同じだ。客たちは棚に所狭しに並べられた本を漁り、フィクションを手に入れていく。ここではどんな設定でも、どんな夢でも叶えられる。彼女たちは何万冊もの本の中から好きな夢を選び出し、いち早くページをめくって向こうの世界へいきたがる。ページをめくった先の架空の世界で、主人公の目となり、耳となり、現実では味わえないハッピーエンドに酔いしれる。でも、その姿からは言いようのない切なさも滲み出る。
 彼女たちは文字の中で恋をして、夢を見る一方で、以前の私のように本物の人肌を与えられずもがき苦しんでいる。みんな安心して、本当はそれだけじゃないのよ、と声を大にして言いたい。添い寝部屋で眠る男たちと過ごせば、紙の本なんかに頼る必要なんてない。文字には姿がない、写真には温度がない、でも眠る男には姿も温度もある。でも、そんなこと言えない。私は、自分が部屋に通えなくなることが怖かった。もしあの場所をなくしてしまったら、私はまたハッピーエンドを探す旅へと投げ出されてしまうのだ。
 エプロンのポケットに入れた携帯電話が二回震える。私はだれもいない棚に行き、ポケットから携帯電話を取り出した。
 今夜のキャンセルが、ちょうど出たようだった。

 私は男と眠るたびに、色んな話をするようになった。
 男はいつも違っていたけど、みんな黙って私の話を聞いてくれた。思い返してみれば、仕事に必要なこと以外で、普段だれかとじっくり話すことなどなかった。美緒との長電話も、聞き役に回ることが多く、自分がこんなに話したいことを持っているのは意外だった。口を開けば次から次へと言葉が浮かんで、話題は尽きることがなかった。
 恋愛小説を読み始め、私の部屋の本棚は少しずつ埋まっていった。やがて収まり切らなくなっても、捨てることはできなくて、一つ、また一つと同じ棚を部屋の壁に追加していった。そして本を読み終わる度に、私はハッピーエンドを迎える恋愛を、自分の未来にも夢見るようにもなった。
「本に出てくるような、ぴったり息の合う人が、きっと近い未来で会える気がしてた。もちろん、この人だと思って片思いしたこともある。でも現実はふられたり、ふられるのが怖くて告白できなかったりで、ほとんどうまくいかなかった」
 小学校から今まで、好きになった男の子たち。体育祭で足が速かった男の子、中学のとき一年間隣の席だった男の子。彼らは限りなく物語の理想像に近かったけど、口調がきつかったり、マザコンだったりで、完璧な人なんていなかった。彼らが頭の中をめぐり、最後に信宏の顔が出てきた。
「初めて告白してくれたのが、信宏だった。生まれて初めて好きだって言われて、単純に嬉しかった。こんな私でも、だれかに好きになってもらえるんだって思うと、ああ、私にも運命の相手がついにやってきたんだって確信した。だから付き合い始めたの」
 汗ばんだ男の額に張りつく前髪を掻きあげ、指先でとかす。
「でも、信宏もそうじゃなかった」
 私は付き合っているとき、信宏に何度もどこか好きなのかを尋ねた。その度に、真面目なところや話が合うところと言って、適当に長所らしきところを口に出すだけで、一度もまともに答えなかった。真面目な人は他にもいる。話が合う人だって、もっといる。そこには、私でなければいけない理由なんて一つもなかった。彼の答えを聞く度に、私ではない、まるで別の誰かを抱いているみたいに思えて、私は全然愛されてないんだな、と確信した。
 彼は、私が好きなわけではなかった。
「でも、信宏は私のことが本当に好きで、私だけが良いわけじゃなかった。私のハッピーエンドに続く運命の人じゃないんだと思った。付き合っていた頃、私が一番嫌だったのは彼とのセックスだった」
 突拍子のないキスから始まって、信宏は洋服の裾から手を入れて胸を触り、三分も経たないうちにスカートのジップに手をかけた。信宏は時々目を合わせ、ほとんどの間は軽く伏せて、私たちのやや離れた上半身の隙間を眺めていて、彼は私を見ていなかった。
「信宏の目線の先に、私はきっといなかった。私らしい人はいても、彼は本当の私を見ようとはしていなかった」
 口にすると、途端に涙があふれてきた。じわじわと、こらえきれなくなって、最後は声をあげて泣いた。言葉にして、声に出して、男に言ってよくわかった。私が嫌だったのは、彼のことが気持ち悪いからだけではない。私は自分が愛されないことがつらかったのだ。
 信宏の前に、私は存在していなかった。彼はきっと、たくさんの女から私を選んだわけではなくて、同じ地元から出てきて、なんとなく仲良くなった女で、一緒にいても嫌ではないから選んだのだ。信宏の言葉は、物語の男が主人公に語る台詞と果てしなく遠かった。だから、信宏は私の好きなことを否定した。彼が私を好きではないなによりの証拠だった。だから、彼に近寄られることも、触れられることにも耐えられなくなって、私は二年の我慢の末に、別れを切り出した。
 携帯電話の時計は、五時をさしている。
 私は布団を持ち上げ、裸の男を見つめる。私はおもむろにワンピースを脱いで、同じように裸になってみる。巨大な冷蔵庫にいるような、冷たい部屋の空気が一気に肌に押し寄せる。薄暗い窓ガラスに反射して、自分の裸が映りこむ。
 本を読み始めた頃の小学生の私は、そこにはない。
 目を避けたくなるほど生々しい、三十近くの女の裸が映っていた。鎖骨や腕周りは痩せて、胸の上は骨が浮き出ている。余計な脂肪は下腹部から太ももにかけて溜まり、体は全体的にだらしなく垂れ下がっている。たいしたことのない人生でも、それなりに歳を重ねていて、目の前の体が確実に過ぎた時間を物語っていた。
 私は肩の上に布団を羽織って、男の体の上に跨り、上から覆うように抱きしめた。男は冷え切った肌を当てられて体を震わせ、一瞬寒そうに身震いする。私は男の体と一切の隙間を埋めるように、ただ強く、腕に力を入れた。
 物語に登場する男は、主人公しか愛さない。そして写真集の男には、顔がない。でも、眠っている男にはすべてが欠落していた。本当はあるはずの名前も、年齢も、職業も、彼らはすべてを手放している。たとえ性格がどんなに優しくても、意地悪でも、起きていないのだから、私には知るよしもない。なぜだか理由はわからない。でも、彼らはどうしようもない私を、丸ごと受け入れてくれるような気がした。
 彼らは絶対に、私を否定しない。
 指を伸ばして、私は男の性器に触れる。温かく柔らかい手触りを確かめて、反対の腕で男の背中をさすって抱きしめる。男は重たくなったのか、身じろいで私を下ろそうとする。私は上に乗ったまま動かず、腕の力も緩めない。二人の間にできた空気が通り抜ける隙間という隙間を、全てなくしてしまう。この部屋に、私のすべてを受け入れてくれる人がいる。それは、私にとってかけがえのない希望だった。
 窓の外は、まもなく明るさを取り戻すだろう。

 添い寝部屋に通い始めたことで、必然的に私の睡眠時間は短くなっていた。眠る男の隣では夢も見ずに深く眠るのに、一人きりで眠るときはどんどん浅く、夢ばかり見るようになっていた。
 顔をあげると、洗面台の鏡に疲れた女の顔が映る。目の下の隈は、半円型の隈の染みのように肌に馴染み、どうやってもなくならない。頬も赤い吹き出ものが点々と目立ち、肌は荒れる一方だ。毎朝コンシーラーで丁寧に隠しても、昼を過ぎる頃にはもう浮き出てしまっていた。
 連日通うと、それなりにお金も底をつきる。一晩さして高くなくても、安月給の身からすれば余裕はない。昼食をコンビニからお弁当に変え、家の暖房は極力控えても、今以上に通い続けることは難しかった。入社した頃から毎月二万円ずつ貯金していた預金は、いつの間にかゼロが三桁に変わっていた。将来への漠然とした不安を埋めるためのお金は、目の前の不安を埋めるために失われている。私は通帳を握りしめて、少しずつ限界に近づいてきていることを悟った。

 田中からの連絡は、時々忙しくなると、ぱったりとなくなるときもあった。それでも休日には必ずなにかしらのメールが届いて、メールのやり取りは定期的に続いていた。美緒に言われたこともあったけど、急に冷たく接するほど嫌なわけではなかった。田中はどうして私を気にかけるのか、理由はまだ見えない。仕事がまあまあ忙しくて、体は元気で、という、ほとんどなにも変わらない日常が、携帯電話の中を繰り返し行き来した。
 食事には何度も誘われていた。でも、仕事が忙しいとか、体調が悪いとか、理由がなくなると美緒と会うと言っては度々断っていた。私の理由を信じて体調を気遣ってくれることが次第に申し訳なくなり、部屋の予約が埋まっていた日、私は田中の五度目の申し出を受け入れた。
 新宿西口に先についたのは、私だった。電車が遅延して五分遅れるとのことで、私はキオスクの隣に立って、改札付近にごった返す人混みを眺めた。デートの待ち合わせのような大学生の女の子や、高校生、同じ歳くらいの三十代近くの女たちがめかしこんで、柱のあちこちに立ち並ぶ。彼女たちは携帯電話を握りしめ、不安そうな目で改札を見渡し、メールの相手を待ち焦がれている。雑誌から切り取ったように着飾った彼女たちと比べて、私の格好は会社に行くときとほとんど変わらない。そのとき、人混みの中から、田中の顔がふっと現れて目に入る。
「遅れてごめん」
 田中は私の傍まで駆け寄って、申し訳なさそうに何度も頭を下げた。
「髪切った?」
 ひさしぶりに会うせいで、彼の髪が伸びたのか切ったのかわからずと聞くと、田中は「伸びた」と笑いながら返した。久しぶりに見る田中は、前よりずっと柔らかい話し方で、人なつっこい笑い方をした。
 田中は前に会ったときと同じ紺色のダウンを着ていて、寒そうにポケットに手を突っ込んだまま「行こう」と明るく言って歩き出した。私たちは今朝の寒さのことや、街を行く人の多さについて話しながら、映画館までの十分ほどの道のりを一人分の隙間を空けて歩いた。田中は、話している間ずっと上機嫌だった。
 休日の映画館は人が多く、私たちは田中が予約してくれたチケットを受け取った。彼が誘ってきた映画は、アクションでもコメディでもなく、いたって普通の邦画の恋愛映画だった。若い男女が繰り広げるありきたりな話の展開は、題名からも、ポスターからも簡単に想像ができた。田中はキャラメルと塩味の半分ずつのポップコーンを買ってくれて、カップル用のトレイが二人の間でぎこちなく差し込まれていた。
 エンドロールが流れて劇場が明るくなった頃、田中は「お腹すかない?」と切り出し、ポップコーンでお腹は膨れていたけど、このまま帰るのも気まずく、「なにか食べる?」と聞き返した。

 私たちは路上の勧誘に連れられるまま、夕飯を食べに近くの居酒屋に入った。一つずつ個室に分かれている店内は、カーテンみたいにイルミネーションが吊されていた。縦に伸びる青白いライトが散乱して、田中の笑った顔にぽつぽつと映り混む。
 席に着くと、田中は「休みっていいなぁ〜」とお絞りで手をふきながらぼやき、ためらいなく顔と首をごしごしと拭いた。
「田中の仕事って最近忙しいの?」
「どうかな、変わらないよ。取引先が遠いから地方出張は多いけどさ」
 田中はテーブルのメニューを取って、飲み物のページをめくった。田中は先に店員にビールを頼み、「どうする?」と聞かれて「同じ」と言い、サラダと唐揚げを加えて、二杯お願いしてからメニューを閉じた。
「西、疲れてない?」
「そうかな」
 私は窓に映る自分をたしかめると、朝塗ったコンシーラーはとっくに落ちて、隈がくっきりと出ていた。居酒屋の暗い照明に照らされて、余計に顔が疲れて見える。
「ほんとに平気か?」
「平気だよ、多分寝不足だから」
 私は笑ってごまかし、首を振った。
「今ちょっと仕事忙しくて。フェアが始まったばっかりでものすごく人が多いの」
「そうなんだ。なんのフェア?」
「恋愛小説」
「へぇ、やっぱり人気なんだなぁ」
 田中は感心したように頷いて、私は「そうなの」と同調した。
 ビールが運ばれてくると、私たちは軽く持ち上げ、「じゃ、お疲れ様です」と乾杯した。一口飲み終えたところで、私は本のことを思い出して口を開く。
「そういえばさ。田中って高校時代、本読んでたよね」
「覚えてたんだ。最近は通勤の電車でしか読む時間ないけど、それでもちゃんと時間とるようにしてるよ。でもなぁ、なんでだか小説はほとんど読まなかったな。今日の映画みたいなやつとか」
 私が「なんで?」と聞くと、田中は続けて喋り出す。
「小説でもドラマでもさ、他人の人生を追っていくと、そこで失恋したり、傷ついたりするだろ。俺は現実でも同じ目にあってるのに、なんで本でも味わわなきゃいけないんだって嫌になるんだ。結末がハッピーエンドでも、現実はそうじゃないだろ」
 田中はビールを一口飲み、口の周りについた泡を舌で軽くなめた。
 彼の言葉を聞いて、私はすぐに昔の信宏が同じことを言っていたのを思い出した。私は苛立ちと悲しみが同時に押し迫って、返事に悩んだ末、俯いたまま尋ねた。
「ああいう恋愛って信じてない?」
 私の質問に、田中は眉をしかめて考え込んだ。
「そうだなぁ・・・うまく言えないけど、きっとみんな、ああなりたいんじゃないかな。夢を見たいというか」
 田中は言い終わった頃にはっと思い直したのか、「あぁ、ごめん。なんか嫌な言い方になったかな」と言って頭を下げた。私がなにも言わずにいると、店員が「失礼します」とやってきて、卵の落ちかけたシーザーサラダと唐揚げを手早くテーブルの上に置いた。田中は取り皿を私の前に置きながら、不安そうに顔を覗きこんだ。さっきまでずっと上機嫌だった田中の顔は失われ、急に陰りが出始める。
「どうして夢見ちゃいけないの?」
 私が聞くと田中は首をひねり、複雑そうに頭をかいた。
「い、いや、いいんだけど・・・」
「確かにどれも嘘の話かもしれない。でも、束の間だけ現実から連れ出してくれるよ。ハッピーエンドを望んだっていいじゃない。みんなが田中みたいに割り切れるわけじゃないよ」
 勢い任せに出た言葉に、田中はあっけにとられたように、口を閉じるのも忘れて驚いていた。私は言い過ぎてしまったかもしれないと、ばつが悪くなって、取り皿に残るしなびたサラダを口に運んだ。
「ごめん、否定したかったわけじゃないんだ」
 田中は申し訳なさそうに謝って、私もなんとなく「私も言い過ぎた」と呟いた。私は黙ったままビールをちびちび飲んで、田中は腕を組んでしばらく考え込んだ。悩みに悩んだ末に、田中は天井を見上げ、なにかわかったように頷いた。
「そんなに望まなくてもいいんじゃないか。映画みたいにドラマチックじゃなくても、幸せな人生はいっぱいあるだろ」
 気まずい空気を振り払うように、田中は軽くおどけて答えてみせた。
「田中は幸せ?」
「うん、今も十分」
 田中は酔いが回って赤くなった顔で、照れくさそうに微笑み、「好きな人と結婚して、子供ができたらきっと無敵だよ」と付け加えた。
 目の前で微笑む田中の言葉に、きっと嘘はないのだろう。でも、どうして幸せだと言い切れるのかわからなかった。彼だって私と同じように、家族は遠くにいて、恋人はいないのだ。彼だって、眠れなくて孤独になる夜くらいあるだろう。それでも幸せだと言い切れるなら、物語に逃げる私の方がどこかおかしいのか。嘘でもいいからハッピーエンドを味わいたいと思うのは、間違っているのだろうか。
 田中は二杯目のビールを注文して、ポケットから携帯電話を取りだした。
「そういえばさ、この前メールで送った兄貴の子供かわいいだろ」
 おもむろに携帯電話を開き、待ち受け画面を私に向けた。デジタル時計の裏に、まだ瞼が重くてほとんど開いてない小さな赤ん坊の顔が見える。この前の写真とは少し違うようで、赤ん坊は薄桃色の柔らかいタオルに包まれていて、頬はほんの少し赤らんでいる。私はなにも考えずに頷いた。
「自分の子供なんて想像したら、かわいすぎて恐ろしいよ」
 そう言って、田中はごくごく喉を鳴らしてビールを飲んだ。
 田中が話している内容は、私の耳にはほとんど耳に入っていなかった。頭の中では、さっき田中が否定した言葉がうずまいていた。味の濃いドレッシングでしなびたレタスが、私の口の中でばらばらにされる。でも田中が言うように、物語は作り話だと言われたらすべてはそれまでだった。現実がうまくいかなくて、どうして物語に逃げるのが間違っているのだろう。
 田中は子供の話を延々と話し、私は「そうなんだ」とか「へぇ」と少ない相槌を打ちながら頷いた。さっきの田中の言い方が引っかかっているのに、彼は一つも気にしていなくて、無神経だなと思った。苛立ってごくごくとビールを飲むと、田中は「いいねぇ」と言って細い目を余計に垂らせて笑っていた。
 
 時計が八時を回ったところで、私たちは店を出た。外はかなり冷え込んでいて、いつの間にか雨が降って止んだのか、道はどこも濡れていた。私たちは同じように少しだけ離れて歩き、駅までの道のりをなんとなく進んでいった。駅に向かうにつれてカップルが多くなり、私たちははぐれないよう、少しだけ距離をつめた。
 酔っぱらいのスーツ姿の集団を避けようとしたとき、私の肩が当たりかけて、田中は私の左手を引っ張って引き寄せた。
「人、多いね」
 田中はそう言って、手を握る。汗ばんだ手のひらが私の手の甲につけられる。私はなんとか振り払わず、駅までの人混みをすり抜けるように田中に添って歩いた。改札までの道のり長く、何度も人にぶつかりかけた。さっきの居酒屋での言い合いは、田中はまるで忘れてしまったようだった。
 街を行き交う恋人たちを横目に入れながら、私と田中も、きっと同じ景色の一部なのだと思うと、不思議な気持ちになった。三十歳を目前にした男女が手を繋いで歩いていて、恋人に見えないわけがない。閉店した駅ビルのウィンドウに、寄り添って歩く私と田中の姿が映り込んだ。田中は引っ張るように前を歩き、私は半歩遅れて彼に続く。自分の顔が思った以上につまらなさそうでどきりとする。でも、彼は前ばかり見てそれに気づいていない。田中は、どうして私を選んだのだろう。ふと疑問が過ぎって、答えが思い浮かばない。
 改札まできて、山手線の反対側のホームに向かうとき、田中はさっきまで繋いでいた手を上にあげる。
「帰り道、気をつけて」
 彼はそう言って、赤らんだ頬を持ち上げ、だらしない微笑みを浮かべる。私たちは階段の端で人の群れに押されながら、少しずつ距離を離していく。私は足を止めたまま、三人分離れた田中に尋ねる。
「田中はさ、どうして私と会うの?」
「え? どうしてって・・・」
 私の質問に、田中は酔いが覚めたみたいに驚いて目を開き、返事に困った末、「そりゃ気になってるからだろ」と、口ごもって答えた。
「どういうとこがいいの?」
「・・・西は真面目だし、気が利くし、それに・・・うーん」
 田中は私の目を見たまま、頬を赤らめて恥ずかしそうに呟いた。人混みのなだれ込む階段に立ち尽くしたまま、私たちの間には邪魔そうに何人もの人が横切っていった。私は彼が続きを答えるかと思ったけど、それ以上続かないのか、田中は不安そうに私をまっすぐに見つめた。
「なぁ、なんで理由が知りたいんだ?」
 田中はしばらく私の顔を見つめ、少しの間、立ち尽くしていた。私はもう帰りたくなって、「なんでもない、またね」とだけ言った。田中は納得しづらそうな表情を浮かべたけど、私は気にせずにホームの階段を上り始めた。
 そういえば、映画でも同じような台詞が出てきたな、と思い出す。
 私のどこが好きなのか。
 主人公の女が聞いたとき、男は「君は一人きりしかいないから」と答えた。女は彼の答えに満足したように微笑み、男の胸へと飛び込んだ。男は彼女が明るくていつも笑顔だから選んだだけではない。彼女の好きな食べ物、よく言う口癖、お気に入りの音楽や映画。彼女が選ぶすべての物事を、男は納得して肯定する。たとえ好きなものがどんなに変わっていたとしても、それは彼女の個性と認識される。
 私たちは、だれでも世界に一人きりしかいない。街に溢れる女は、一人きりの集まりで成り立っている。すれ違ったカップルの中に、他の人じゃいけない理由を持つ人たちはいるだろうか。隣の女でも、向かいの女でもなく、私を選んだ理由が知りたいのに、田中は曖昧にしたままなにも答えなかった。私が欲しいのは、私だけが愛される理由だった。私だって、私のすべてを肯定してもらいたかった。
 田中はさっき、恋愛小説を作り話だと言った。確かにそれは間違いない。でも、私にとって作り話だけでは済まないほど重要だった。どうしてそれをわかろうともしてくれないのだろう。田中は信宏となにも変わらない。真面目で気が利く人間なんて、いくらだっている。田中は気づいていなくても、彼は私ではない、私みたいな女に恋しているだけなのだ。私のすべてが肯定されて、私だけが良いと思われる恋愛は、少なくとも私のような脇役には訪れない。そう考えた瞬間、私は心の底から美緒が羨ましく思えた。
 電車はひどく混んでいて、一駅進むたびに人が増え続けた。ダウンやマフラーを着こんだ人たちが押し合いながら寄り添って、さっきの田中よりずっと近い距離で人に挟まれる。日が暮れた窓には、埋もれた私の顔が映りこんで見えた。
 祈るような気持ちで予約画面を開くと、今夜のキャンセルが出ていた。

 私たちは幼い頃から、物語の中で繰り返し夢を見せられる。お伽話にも、子供向けの漫画やアニメにも、散々描かれる理想の愛。魔法の馬車も、目覚めのキスも、白馬の王子も、大人になって信じていないふりをしても、本当はだれもが心のどこかで待ち望んでいる。私たちは本を読むことで、主人公の目になり、耳になり、運命の相手と惹かれ合って、恋に落ち、甘い台詞に酔う。大人になった私たちは、物語に浸ることによってのみ、夢見ることを許容される。
 私の眠る男は、脇役の私が望める唯一のハッピーエンドだった。小説から写真集へ移り、そこから生身の眠った男に至った。男は薬によって性格はもちろん、表情や声も奪われ、生きた特徴のない想像上の人間に仕立てられる。別々の男ではなく、彼らはたった一人の理想の男として存在している。
「夜明けになっても、本当は出ていきたくないの」
 私は繰り返しそう言って、男の腕を撫でる。
「目を覚ましてもどこかに行ったりしないで、私とここにいたらいいのに」
 男の耳に口を近づけて話しかける。男はくすぐったいのか顔をしかめて、体を壁側へとかたむける。温かい男の肌が、私の思考を徐々に惑わせていく。夜は深い闇の中に包まれて、部屋の中にはいつまでも静寂が漂っていた。
 添い寝部屋は、現実とフィクションの狭間を漂う、不思議な場所だった。眠った男たちは、私に好きに愛させてくれて、なにも言わずにそれを受け止めてくれる。他のだれにも見せることのできない、特徴のない私を、私は喋ることや男を抱きしめることで受け止めてもらうことができた。彼らは絶対に私を否定しない。
 眠る男が与えてくれるのは、愛そのものに変わりはなかった。



 部屋で目覚めると、時々、たまらなく死にたい衝動に駆られる。眠った男に独り言を話すことで、彼らは私を少しずつ知って理解をしてくれていると感じる。けれど、一方で無言の沈黙しか漂わない部屋で、私の言葉は夜の闇に紛れ、だれにも届かずに落下し続ける。ここにしかいたくないと思うのに、ここすらも居場所ではないと感じてしまう。でも、私には他に行く場所がなかった。一人暮らしのアパートの部屋が、溢れ返る本で息苦しかったときと同じで、添い寝部屋も、目に見えない柵で囲い、私をひたすら閉じ込めていた。
 目を覚まして、携帯電話の時計を見る。時刻は六時半だった。窓の外はまもなく明るくなりつつある。私は体を起こし、隣の男の顔を覗き見て、ふと気づく。
「なに、これ」
 男の首には、細長い傷跡が三本伸びている。傷跡は耳たぶの下から首を這い、鎖骨へ向かってまっすぐ赤色に伸びていた。私は手を伸ばして、傷にそっと触れる。表面はほとんど乾いて瘡蓋になりかけていた。三本の長い傷は、まるでだれかに勢いよく引っかかれたように見えた。
 もしかしてと思って、私は慌てて爪を見る。でも、私の爪は仕事上いつも短く切り揃えているから考えられなかった。それなら、男は自分で引っ掻いたのだろうか。いや、それはないだろう。傷はそれなりに深く、自分でつけるにも強烈な痛みが伴う。他に考えられるとしたら、別の客に傷をつけられたくらいだった。
「痛そう・・・」
 私は腫れた傷跡を指の腹でなぞる。傷の先端に指を持っていき、そこからまっすぐ鎖骨へ向けて撫でる。指を軽く曲げてみると、それはまるで男にすがるような手の形になった。だれかが男にすがりつき、助けを求める手の形だ。
 この部屋にいると、時々、たまらなく死にたい衝動に駆られる。私以外のだれかも、部屋の壁に柵を感じて、抜け出せずにもがいている人間がいるのだろうか。
 男はなにも話さない。深い眠りの中で夜が明けるのを待っていた。

 
 開店前のフロアのバックヤードで、私はシフト表に一日の仕事の割り振りを書いた。恋愛小説フェアが予想以上の大盛況になったため、いつもの数倍は本が売れ、毎日の補充の入庫は日増しに多くなっていった。バックヤードには在庫がすでに壁のように積み上げられ、階段とフロアを繋ぐ導線もどうにか確保している状態だった。シフト表に棚入れ作業を優先的にできるように時間を組み、それぞれの休憩時間を確保すると、私は一旦ペンを置く。開店前の慌ただしさを前に、昨夜の男の傷をふと思い出した。
「おはようございます」
 エレベーターがチンと鳴って、宮崎さんが慌てて髪を結びながら、ワゴンに近寄ってくる。書き終わったばかりのシフト表を見て、休憩時間をメモ紙に書き写し、朝一の入庫の荷台を中腰になって確認する。
「あの、聞きたいことがあるんですけど」
 私が声をかけると、宮崎さんは顔をあげ、「なんですか?」と短い答えを返した。
「昨日、男の子の首に・・・その・・・傷跡があって。だれかが引っ掻いたみたいな、長い傷なんですけど・・・」
 宮崎さんは体を起こして立ち上がり「あぁ」と言って、しばらく間を置いて首をかしげた。
「だれかがしちゃったんじゃないですか」
 宮崎さんは右手で顎を触りながら、落ち着かなさそうに答える。
「え?」
「そのくらいよくありますよ」
 宮崎さんは軽く俯き、私の視線を拒むかのように目をそらした。
「どういうことですか?」
「添い寝部屋で禁止されていること、覚えていますか?」
 宮崎さんの顔は開き直ったように目を見据えて、私をまっすぐに捉えた。
「確か、いたずらって書いてありましたよね・・・」
「そうです、だからはっきりとはしてないんです」
 宮崎さんは淡々と答え、また中腰になって荷台のワゴンを覗きこむ。
「だからって、傷つけたりするのは違うんじゃないですか?」
 思わず声が大きくなって、私は慌てて口を閉じる。
「いいえ、いいんです。前に、お客さんが道連れにしたこともあるって聞きました」
 まるでドラマのあらすじでも話すように、宮崎さんはさっぱりした口調で話し続け、私はうまく理解ができずに「え?」と聞き返した。
「一緒に亡くなったってことですよ」
 彼女のはっきりとした声が、バックヤードに響きわたる。
「おはようございまーす」
 エレベーターがチンと鳴って、江口君がポケットに手を突っ込んだままやってきた。私たちは慌てて口を閉ざし、江口くんに「おはよう」と声をかける。江口くんは荷台のワゴンを見るなり、「入庫行ってくれたんですね、じゃ、インターネット注文の取り置きチェックしておきます」と言い残し、在庫の隙間をくぐり抜けてフロアへ出ていった。
 私は速まった心臓を押さえながら、息を飲む。きっと江口くんにはなにも聞こえていないだろう。そう考える私とは反対に、宮崎さんは一つも動揺を見せず、荷台に手をかけて仕分け作業をし始めた。私はフロアへ続く扉を開き、江口くんが遠くにいるのを確認して、扉を閉める。
「おかしくないですか?」
 私の問いかけに、
「おかしいことなんてたくさんあるじゃないですか」
と、顔を上げ、宮崎さんは口元に嫌な微笑みを浮かべた。
 宮崎さんの微笑みは、前よりずっと不気味だった。人が亡くなっているというのに、彼女はどうして笑えるんだろうか。私たちは彼らと眠る権利を、お金を払って得ることができても、生きている彼らを殺しても良いわけがない。彼女は深刻な私の顔を見て、笑いを堪えきれないのか「ぷぷっ」と吹き出した。
「西さんだってお金を払って通ってるんですから、なにも変わらないですよ」
 宮崎さんの言葉が、私の胸に突き刺さる。それを言われてしまうと、私はもう首を振って否定することができなくなった。傷をつけた女も、道連れにしてしまった女も、私となにも変わらない客の一人だった。宮崎さんが堪えられない笑いを含ませながら、バックヤードからフロアへ出て行った。扉が閉まって風が吹き込み、空中に埃が舞う。天窓から日差しが差し込み、無数に散らばる埃は突如露わにされる。
 添い寝部屋の世界は、まさに異常だった。今まで知らずに、いや、私は気づかないふりをしていただけだった。若い男たちがお金で雇われて集められ、睡眠薬を飲んで眠らされ、毎晩孤独な私たちの相手をさせられている。これだけを考えても、部屋は限りなく現実から離れた場所だった。すべての客が、純粋に眠るために通っているわけではない。それはわかりきったことだった。私だって、眠った彼らの体に触れて、起きているときには決してしないことをしていたのだ。考えれば考えるほど、私は入ってはいけない世界へ立ち入ってしまったのではないかという考えが、今更に沸々と出てくる。
 その日、宮崎さんは仕事中に何度もあくびをした。目の下の隈は濃く、彼女の暗い顔をより一層暗く見せた。大量の本を腕に抱えて棚入れをしながら、前よりわかりやすく音楽に合わせて足先でステップを踏んだ。ステップが激しくなると、まるでダンスでもしているようにすら見えてくる。いつも気味悪がる江口くんは、それに気づいても、ただ見て見ぬふりをし続けていた。

 住宅街の七階建てのマンションは、まだ張り立ての壁紙のような新築の匂いが漂っている。結婚して一年経つ頃に、美緒たちは六階の一室に入居した。私は夏の引越祝いで来て以来で、旦那さんに会うのは久しぶりだった。私が初めて彼を紹介されたのは二人が付き合い始めた三年前で、彼は初対面にも関わらず、十分も話していると昔からよく知っている友達のように思える不思議な人だった。彼の身長は美緒よりも少し髙いくらいで、笑ったときも二重の目尻が少したれるところが彼女と同じで、二人の雰囲気はなんとなく似ていた。
「いらっしゃい」
 玄関を開けた美緒は、普段外で会うときと違って、髪を後ろで一つにまとめていた。丸襟のチェックのワンピースにニットを羽織り、室内用の柔らかそうな厚手のスリッパが廊下をぱたぱたと駆けた。
「お邪魔します」
 ブーツを脱ぐのに手間取っていると、廊下の奥から旦那さんが顔をひょいと出して、「お、ひさしぶり」と声をかける。ダイニングテーブルまで重ねた食器を運ぶ彼は、前より顔周りが少しふくよかに見えた。
「元気にしてた?」
 声をかけられて「元気ですよ」と返すと、彼は「そうかぁ」と大げさに笑ってみせた。
 同じ歳の美緒の旦那は、年齢の割にどこかあどけない少年っぽさが残っていた。バリバリ仕事をこなすサラリーマン、というより、純粋に働くことが嫌いではないタイプだった。美緒いわく、初対面でだれとでも打ち解けてしまうため、職場で滅多に敵をつくらないらしい。
「ここに置くよ。あとはフォークとグラスかな」
 彼は食器をテーブルに載せると、一呼吸置いてから、またキッチンへと戻っていった。久しぶりに見る彼は、笑い方や仕草が、以前よりほんのちょっと遅くなっていて、それがワンテンポずれる美緒とよく似ていて、二人を益々夫婦らしく思わせた。
 美緒のお気に入りのリビングの広い窓からは、住宅地の街並が見渡せた。入居の頃よりも家具が増えて、二人掛けのソファの隣に来客用らしき一人掛けが増やされていた。日当たりの良い窓辺には肩まで届くほどのベンジャミンの鉢が置かれ、毛足の長いブラウンのラグが一面に敷かれている。テレビ周りには旅行先で撮った写真や、こまごました土産物らしき飾りが置かれ、季節違いのシーサーが一匹だけぽつんとにらみをきかせている。すかすかだった食器棚は十分すぎるほどの皿が揃えられ、ダイニングテーブルには使い慣らされたクロスがかけられていた。部屋は隅々まで、きれい好きの美緒によって埃ひとつなく保たれていた。
「お腹すかせてきた?」
 美緒はそう言って、キッチンの調理台の上で煮込みハンバーグを盛りつける。
「うん、いい匂いだねぇ」
と、私はダイニングの椅子に腰掛け、キッチンに立つ二人を眺める。
「美緒は料理うまいんだけど、すぐつくりすぎるんだよ」
 旦那がからかうと、美緒は「別にいいじゃない、つくらないより」と唇をとがらせた。
 丸いプレートに、教科書通りにご飯とハンバーグが盛りつけられ、小皿には豆入りのサラダが分けられ、ついでに習ったという米粉のパンも、バスケットに入れられて食卓の上に置かれる。
「どう?」
 私が一口食べたところで、美緒は心配そうに尋ねた。私が「びっくりした、すごくおいしい」と言うと、美緒はほっとしたように肩の力を抜いて喜んだ。旦那も「おいしい、おいしい」と何度も言いながらがつがつ食べ、美緒は自分が食べるのも忘れて、夢中になって教室で習った料理のレシピを説明した。
「この前、仕事で職場の書店行ったんだよ。あの店っていつ行っても忙しいよなぁ」
「そうよぉ、特に文芸。ゆりえのフロアは人だらけよね」
 美緒はハンバーグをナイフで切り分けながら頷いた。
「まぁ、寒くなってくるとみんな家で本でも読みたいんだろうねぇ」
 私もそう言って同調し、「そっちも忙しいみたいですよね」と言い、旦那は軽く頷いた。
「年末はどこも大変だよなぁ。家でゆっくり過ごせる時間も中々とれなかったよ」
 彼はそう言って首を回し、眠たそうにあくびをした。美緒はそれに「ちょっと、あくび」と言って、肘で突いて軽くとがめた。
 ひさしぶりに家で過ごすのに、どうして私を呼んだんだろう、と疑問もよぎったけど、二人の話にのっている間に自然と忘れてしまった。お義母さんにマッサージクッションをあげたら、とても喜んでくれて、実際に使っている写真がメールで届いたこと。千晶のお店でメイクをしてもらったら、思ったより濃くなって帰ってから旦那さんが笑ってしまったこと。美緒と彼は同じタイミングで笑い、頷いた。
 お昼ご飯を食べ終わると、コーヒーを入れて、手土産に持ってきた近所の洋菓子店のアップルタルトを切り分けた。
「美緒はどのくらい?」
と、旦那の声に、美緒はダイニングから振り返って「あ、ちょっとでいい」と言った。美緒はハンバーグも四分の一ほど残して、パンには手をつけていなかった。
「どうしたの、お腹いっぱい?」
 私がからかうと、美緒は「えっとそうじゃなくて」と苦笑いした。美緒は旦那の方を振り返り、旦那は「ほら、言いなよ」と言って、切り分けたタルトを食卓までせっせと運んだ。
「わたしね、ゆりえに報告があるの」
 美緒はそう言って、前のめりにダイニングの椅子に座り直した。
「なに?」
「実はね、できたの」
「え? なにが?」
 私がわからずに首をかしげると、美緒は嬉しそうに微笑んで、ワンピースの上からお腹にそっと右手をのせる。
「赤ちゃん」
 美緒はそう言って、私の目を見つめた。
「いや、俺もびっくりして。まだ実感ないもんな」
「私だってないよ。でも、お腹にいるんだなぁ、って思うと、しみじみ嬉しくなってきちゃう」
 黙ったままの私に、美緒は「ごめん、驚いた?」と聞き、私は首を振った。
「突然だからびっくりして。おめでとう、美緒」
 私はよくわからないまま言って、美緒は「えへへ」と微笑んだ。美緒は右手をそっと、まだほとんど膨らんでもいないお腹に乗せる。
「まだ五センチくらいなのよ。でも、エコーで見せてもらったら、心臓がちゃんと動いてた。どくんどくん、って、すごくかわいいの。夏前には生まれてくるって、なんだか不思議だなぁ」
 美緒は戸棚から数枚のエコー写真を出して、私に手渡した。映画やドラマで見た通り白黒のエコー写真の中央に、小さな腕のような白い形が見える。腕をたどると、頭も、体も、なんとなく足も見えてくる。真っ黒の羊水の中に、赤ん坊は横向きに寝転んでいた。小さすぎてわかりづらいけど、握り拳をつくったような片腕だけは、妙にはっきりと見える。ぺらぺらの印刷用紙の写真を見つめ、二人は「前は本当に小さな粒くらいだったんだけど、どんどん人間になっていくのよねぇ」と感慨深そうに呟いた。
 夏になればこの子が生まれて、美緒の隣に家族が一人増える。旦那は照れくさそうに笑い、美緒の服の上からお腹にそっと触れた。彼が本当に幸せそうな表情を浮かべたとき、私は姪っ子の話をしていた田中のことを思い出した。

 タルトを食べ終わってから、旦那は夕方近くに一本だけ飲んだビールに酔いつぶれた。三人で子供の名前や性別を考えているうちに、残り半分をほとんど一気に飲んでしまい、一時間も経つとソファの上でうたた寝をしてしまった。美緒は寝室から分厚いブランケットを持ってきて、彼の肩の上にそっと被せる。「子供みたい、よだれが」と笑って、私に「ごめんね」と謝った。
「最近ずっと忙しかったらしくて、今日珍しくビールなんか飲んじゃって」
「お酒、ほんとに弱いんだねぇ」
「そう。一人じゃほとんど飲まないんだけど、今日はゆりえも来て、テンションあがっちゃったんじゃない? 接待で飲んでも、帰ってくると顔真っ赤にしちゃってるの。おっかしいよねぇ、もういい大人なのに、飲めない人は飲めないのよね」
と、美緒は笑って、眠った旦那の脇腹を「起きろぉ」と冗談交じりにくすぐる。すっかり熟睡しているのか、気持ちよさそうに寝息を立てて、起きる気配は少しもなかった。
 窓の外はすっかり暗くなって、近隣のマンションの灯りがつき始める。人影が時々動いて、住んでいる家族の気配がする。住宅地は子供の声や、車の通りすぎる音が行き交い、マンションの廊下も家へ帰る人が時々横切った。
 美緒はもう一杯珈琲を入れて、私に差し出した。私は「ありがとう」と受け取り、美緒は隣でコップに入れた水を飲む。戸棚から出してきたクラッカーを皿に盛りつけて、美緒は「これ、おいしいよぉ」と、一枚つまんで口へと運ぶ。
「お腹いっぱいなんじゃないの」
 私がからかうと、「お腹いっぱいでも、減っても気持ち悪くなるの。食べつわりだって。一番太るタイプなんだから」と、美緒はクラッカーをかじりながらぼやいた。
 ワンピースの上から見ただけでは、まだお腹の膨らみはほとんどわからない。高校のときから全く変動しない細身の体が、近いうちにお腹が大きくなって変わっていくのを考えると、なんだか不思議な気持ちになった。
「そういえば、田中との二回目のデート。どうだった?」
「ふつうだよ」
 そう言って、私もクラッカーを手に取る。
「田中ってなんで私のこと気になってるんだろう」
 私の質問に、美緒は「それは田中にしかわからないよ」と言って笑った。
「美緒はさ、旦那のこと嫌になったりしないの?」
 私の質問に、美緒は笑わずに真面目な顔をした。
「腹が立つことはあるよ。顔も見たくないときもね」
「嫌いになるってこと?」
 美緒驚いて笑い、「まさか」と顔の前で手を振った。
「仕事が忙しいと、彼も余裕がなくなって時々言い方が雑になったりするの。それで、私が怒ると、はいはいって感じで・・・。でも、私も子供ができてから不安定で、色々迷惑かけちゃうんだぁ」
「そうなの?」
「意味もなく八つ当たりしたり、どうでも良いことに怒ったり。でも、彼はそれを受け入れてくれる。色んなことを受け入れ合うのは、きっと嫌いとかじゃない。それが重なって、好き、になっていくんじゃないかな」
 私は、美緒が旦那に当たるなんて一度も聞いたことがなかった。週に何度もする長電話の中で、美緒は今まで家庭の愚痴はほとんど言わなかった。でも、大半の時間を夫婦で過ごす彼女にしてみれば、なにかしらあるに違いない。私は曖昧に頷いて、美緒の真面目に話す顔を見つめていた。
「この人を見てるとね、守ってあげなきゃなーって思うの」
「守られたいじゃなくて?」
「うん。守るほう」
 美緒の返事に、迷いは少しもなかった。
「男の人って強くないよ。こんなに人当たりよくてストレスなさそうなのに、時々、まったくご飯が食べられなくなったりするの。もちろん、女だから守ってもらいたいってのもあるよ。でも、仕事でくたくたになって帰ってくる彼を元気にしてあげたいって思ったから、この人と結婚しようかなって思ったの」
 前のめりに体を倒し、肘をついて隣の彼の前髪をそっと撫でる。
「明日なにもできなくなったら、私が守るしかないからね。彼も、この子も。家族ができるって、そういうことなんだなって、子供ができてしみじみ思うようになったな」
 美緒はずり落ちかけたブランケットを持ち上げ、旦那の体にかけ直す。少年みたいに安心しきって眠る彼と、彼を守ると言った美緒の姿を、私は一人掛けのソファに座ったまま眺めた。彼はすやすやと気持ちよさそうに寝息を立て、口をぽかんと開けている。美緒は「閉じなさいよ」とふざけて、彼の顎の辺りを押さえる。
「ゆりえにも、そんな人ができたらいいな。応援するよ」
 美緒はソファに座り直し、手を伸ばして私の手に触れる。私は「あぁ、うん」とぎこちない返事をしてコーヒーを飲み、どんな顔をすれば良いかわからずに俯いた。急に胸の辺りが息苦しくなって、コップを握る手に力をこめた。
「ゆりえ? 顔真っ青だよ?」
 美緒は心配そうに私の顔を覗きこむ。
「ごめん、水もらっていい?」
と言うと、美緒は常温の水を新しいコップに入れて渡してくれた。一口ふくみ、乾ききった喉を潤した。
 エアコンの風で温められた空気のせいか、こめかみが少し、痛くなった。美緒が語る旦那への愛情は、最初からあったものではない。彼と一緒に過ごすことで、思い出と対話は蓄積され、それが結果的に幸せな過去となり、二人の愛情をつくりだした。
 美緒の恵まれた人生は、他のだれかに甘やかされ、与えられているように思っていた。彼女は周りからとにかく愛されて、どんな幸運にも恵まれて、なんでもうまくいっていた。でも、実際は違う。美緒はきっとなにもないところから、自分でつくり出してきたのだ。明日もし彼になにかがあったら、彼女は旦那と子供を自分一人で守る。些細なことでも私に相談して、なにを食べるのかも、洋服を買うのも、中々決められない彼女が、唯一口に出した揺るぎない決意だった。二人と同じ部屋にいるはずなのに、私たちの間は途方もなく遠い。
 十六歳から変わってないのは、美緒ではない、私の方だ。美緒は年齢に合わせて少女から女性へなり、結婚して奥さんになって、まもなく母親になろうとしている。私だけが幼いままで、今はこの距離を埋める術も持たない。夏が来る前に、二人には子供が生まれ、お互いより大事な存在が一人増えるのだ。今の私には決して、二人のようにはなることができない。
 視界が涙でぼやけて、俯いた瞬間にこぼれ落ちた。
「ほんとに大丈夫?」
「大丈夫、ちょっと酔いが覚めてきた」
 私が眠る男たちに感じる愛は、美緒が彼に抱く感情と同じだろうか。もし男たちが起きていたら、私は彼らを愛せるだろうか。
 眠る男は、喋ることも、動くこともできない。だから、私を否定することは何一つなかった。私は受け入れられていると思っていたし、それこそが彼らの絶対的な愛だと感じていた。でも、彼らが体を起こし、言葉を放ち、私になにか問いかけたとき、今までの眠る男ではなくなってしまう。私を否定しない、唯一の安心できる存在としてつくりあげた虚像は、本当は現実のどこにもいないのだ。私が必死で手に入れたのは愛じゃない。美緒たちの間にあるような関係とは、まるで違った。限りなく愛に似た、よくできた模倣物でしかない。
 眠る男は、眠る男でしかなかった。
 私が信宏のことを嫌だと思ったのは、彼が肉体を持った生々しい男だからではない。信宏が、私の読書を逃げていると言って責めたことに、私を見ていないことに腹が立ったのだ。私たちは単にどちらのことも好きではなかっただけで、私は初めから生身の男が憎いわけではなかった。だから、男の温もりを求めて、添い寝部屋へ向かっていたのだ。現実の恋愛から逃げていたのは、私のせいでもあったのだ。
 

 家に着く頃には、すっかり日が暮れていた。旦那はあのまま眠りについて、私は二杯目のコーヒーを飲んだところで用事があるからと帰った。駅まで送ろうかと言われたけど、妊婦に来てもらうのは悪いので断り、「体、大事にしてね」と言い残して別れた。
 部屋のドアを開けると、電気の消えた部屋に近所の一軒家の明かりが差し込んでくる。子供がお風呂に入ってはしゃぐ声、洗い物をする音、自転車が行き交うベル。窓からは明るい四角の光があちこちに散らばり、星座みたいにきらめいている。星の光が本棚に差し込み、溢れ返る小説をくっきりと照らし出す。
 部屋は積み重ねられた本で埋めつくされ、見渡す限りに物語の宇宙が広がっている。私は嫌なことがあるたびに、物語に入りこんで、現実から逃げていた。混乱する思考を止め、現実からダイブさせ、私の理想郷をつくりあげてきた。
 おもむろに一冊を手に取り、一行目を目で追う。
 見えにくい文字を眺めて、なんとか物語の中へ入りこもうとする。でも、もうできない。いつまで文字を追ったとしても、以前のように物語の主人公に浸ることはできなかった。本を投げ出して、ベッドの脇に追いやった写真集を広げてみる。これも、やっぱりだめだった。体を持つ男たちを眺めても、もう彼らはインクでしかなかった。光沢紙の表面が光り、指は見えない色の粒をなぞるだけだった。
 添い寝部屋へ行って、彼らに会って確かめないといけない。
 気がつくと、反射的に家を飛び出して、駅までの道のりを走っていた。家路を急ぐ人の群れに逆らって、駅まで辿り着き、息切れをしながら電車に駆け込んだ。電車を乗り換えて、ようやく最寄りの駅に降り立つ。静寂に包まれるだれもいない夜道をひた走り、アパートの部屋を目指した。
 部屋のドアノブを回すと、中から鍵がかけられていた。どうしても今夜はここで眠りたい。ドアをひねるうちに涙が目にたまり、目の奥は熱くなった。私は嗚咽を噛み殺して、力を込め、ドアをひねり続けた。
 そのとき、中から鍵が外されて、唐突にドアが内側に開かれる。
「どうしたんですか?」
 中から出てきたのは、宮崎さんだった。
 彼女は用意されたワンピースに身をつつみ、いつもは結んだ髪をほどき、くしゃくしゃに乱して肩まで垂らしている。フリーサイズのワンピースは肩の位置がずれて、華奢な鎖骨を剥き出しにする。部屋の奥の暗闇には、外の光を浴びる布団がうっすらと目に入る。
「あ、え、えっと・・・」
 私の口から言葉にならない声が出る。私は今まで、自分だけが部屋へ来ていて、男は私だけと眠っているのだと、心のどこかで思おうとしていた。でも、そんな場所はどこにもなく、宮崎さんや、他の女たちと、眠った若い男を金で共有していることに変わりはなかった。
 言葉が見つからずにうろたえていると、宮崎さんは私の左腕をおもむろに掴んだ。
「もしよければ、一緒に寝ますか」
そう言って、宮崎さんは口元を上げて微笑む。
「いえ、いいです、大丈夫です」
 私は慌てて去ろうとしたけど、彼女の手が腕を離さない。
「いいのに」
 彼女の腕に力がこもる。私は怖くなって力ずくで手を振り払おうとする。その反動で、ドアに体を預けた宮崎さんがぐらついた。彼女の腕が離れたすきに、私は急いで階段を駆け下りた。
 狭い路地を駆け抜け、私はなにも考えずに走り続ける。どこへ行けばいいんだろう。たかだか二センチのヒールが足を痛めつけ、息切れのせいで口の中が切れ、血の味がしみてくる。路地はどこにも行き着かない。覚えたはずの道なのに、曲がり角を間違えたのか、同じような住宅街だけが続くだけで、大通りは一向に見えてこない。混乱したまま歩き続けた末、とうとうアパートまで戻ってきてしまった。
 まるで迷路のような街は、死んだように寝静まっていた。
 夜明け前のまだ暗い時間、部屋のドアが閉まる音がした。階段にかんかんと響く足音がして、宮崎さんが部屋から出ていく。携帯の時計を確認すると、始発がようやく動き始めた時間だった。
 私は彼女が最初の角を曲がるのを見届け、二階の部屋へと駆け上がる。
 ドアを開けると、布団の上側がめくられて、男の上半身は剥き出しにされていた。布団の隣には、ワンピースが乱暴に脱ぎ捨てられている。男は寒そうに身震いし、体を縮こまらせている。私はすぐさま駆け寄って、肌に触れようとした瞬間、男の首に赤く腫れた細長い傷が見えた。
 私は思わず、右手を引っ込めた。
 傷は前に見たものと同じで、三本の爪で引っ掻いた線が鎖骨へ向けて伸びている。この前よりも傷は深く、所々血が滲んで、押せば溢れてきそうなほどだった。たった今つけられた傷を前に、頭の中に宮崎さんの笑い顔が浮かんできた。
 女たちは、なにを思って部屋に通い、夜明けまでをどうやって過ごしているのだろう。大人しく布団に入って眠るだけの女がどれほどいるのか。いや、きっといないだろう。彼らの眠りを確かめることはもちろん、キスをしたり、性的ないたずらをしたり、あるいは泣き言や愚痴を言ったり、罵声を浴びせたり。傷をつけるより、もっと酷いこともあるだろう。私たちは、目を覚ました他の男ではできないことを、眠った男にしている。だれも知らない狭い部屋で、男たちは女の言い難い不安や心の溝を、無条件に受け入れる。彼らは眠ったままなにも知らず、なにも聞かされない。眠った彼らの意志は、ここには一つもない。彼らを蝕んだ跡は、時に本物の傷となり、また時に目に見えない傷となって残される。
「哀れな男ね」
 私は男の肌にそっと触れる。
 腕を伸ばして布団を剥ぎ取る。横たわる裸の男が外気に直接さらされる。男は寒そうに身震いをさせ、反射的にみっともなく手足を動かした。私は、男の性器に触れる。生温かく、柔らかい。男は驚いたのか、振り払おうと嫌そうに身をよじる。私は自分の服を脱いで、宮崎さんの脱いだワンピースの上に重ねて投げ出した。
「やっぱり、あなたじゃないみたい」
 口に出した途端に、私の目から涙がこぼれた。
 部屋の中で、私の言葉はいつまでも空中を漂い、だれの耳にも届かない。部屋を取り囲む柵が私を閉じ込め、駆り立てる。眠った男は、私を温めてはくれても、愛してはくれない。
「私はきっと、だれのことも好きになったことがないのね。愛されるための自信がないから、なにも否定されたくなかった。だから、眠ったままのあなたたちが、都合がよかった」
 完璧な恋人を見つけることは、きっとだれにもできない。ハッピーエンドに見える美緒だって、旦那の嫌なところも含めて受け入れている。千晶だって決して逃げているわけではない。不器用な甘え方しかできなくても、彼女は現実で傷つきながら恋をしている。
 添い寝部屋は、現実から逃げ出した女たちの最終地点だ。小説にも、写真にもない、フィクションの果てが、この部屋の眠る男だった。私たちは、名前も性格も失った架空の男に、自分に都合良い枠を当てはめ、理想の男につくりあげてきた。
「ごめんなさい」
 電気毛布のスイッチを弱から切にかえる。橙色のランプが消えて、私は男の頭の下に両腕を忍ばせ、胸の中に抱きしめるように包みこむ。寝息を立てる男は身じろぎ一つせず、私の体に身を預ける。
 窓の外が朝の景色へ変わり、部屋の中は急速に現実へと引き戻される。夜闇に隠されていた部屋が浮き彫りになり、古びた畳の目や、カーテンのない窓から見える街並が急に私を現実に突き放す。やがて、眠った男の顔までがくっきりと立ち現れ、男は他人のような顔つきになる。男は、もう私の眠る男ではなかった。見知らぬ顔を持ち、見知らぬ匂いを持った、他人の男だった。
 着替えをすませて最後に振り返ったとき、男はだらしなく性器を出したまま、相変わらず布団に体を横たえていた。
「私、もう行かなくちゃ」
 そう言って、私はドアを閉める。
 早朝の駅へ向かう道の途中は、家の音に溢れていた。添い寝部屋は、だれにも言えない欲を満たしてくれるけれど、唯一足りないものがある。それは、未来だった。部屋に通う女たちも、眠らされる男たちも、だれも未来のために生き続けていけない。私たちの先へ続く幸福は、良くも悪くも、部屋の柵の外にしかない。
 住宅地には食器を洗う音、掃除機をかける音がひびき、平日の午前の風景をつくりだしている。子供たちの笑い声が聞こえ、私はこの街で初めて人の声を聞いた気がした。
 

 家に帰ると、私は部屋中の本をまとめ始めた。
 ワンルームの壁一面に並ぶ本棚は、縦にも横にも、隙間なく本が積み込まれている。それでも収まりきらない本は、部屋のあちこちに重ねられ、行き場もなく小さな塔を築き上げる。ベッドの上に腰掛けると本が崩れ、床一面に敷いたラグマットはほとんど見えないくらいに覆われていた。把握していた以上の本の量に圧倒され、私は思わずたじろいだ。
 いつからこんなに大量の本に囲まれていたのだろう。今まで本の多さなんて、少しも気にしたことはなかった。でも、着実に本を買い続け、止めどなく読み続けたせいで、その一冊ずつが私の中に居場所をつくり、手もつけられないほど巨大化していたのだ。
 開いたままの顔のない男たちの写真集を手に取り、玄関に運ぶ。私は一冊ずつを積み上げて、紐で縛り、いくつもの塊をつくっていく。重ねて、紐で縛り、玄関に寄せる。何度も繰り返すうちに、ラグマットは少しずつ顔を出し、玄関には大量の本が重なっていく。すべて縛ってしまうと、両手に持てるだけ握ってアパートの下まで運んだ。エレベーターで往復して何度も運び、すべてをゴミ出し場へ移していく。みるみるうちに、空っぽだったゴミ出し場は、私の本だけで入りきらないほど溢れていく。
 夜明けがきて、遠くの空が白んでいく。
 だれもいない朝方の道に、私は一人で立ちすくみ、巨大な山と化した本の塊を眺める。山積みにされた大量の本は、一人の部屋に収まっていたとは思えないほどの量で、さっきまで自分の部屋にあったと考えると、急にぞっとしてくる。いつでも手に取れるように、必ず傍に置いてきた物語たちが、家から出され、朝焼けの日にさらされる。
 ゴミ箱の端にだれかが置き去りにしたライターが落ちているのが目に入る。おもむろに手に取った。何度かねじをこすり合わせると、青い色に続いて、橙色の火が噴き出した。
 指先の火を、上に重ねた本の四隅に近づける。じわじわと黒く焦げ、やがて橙色の火を燃やして隣の本に燃え移る。また一冊、一冊と広がり、巨大な塔は少しずつ炎を放ち始める。
 かつて愛した男たちが、橙色の炎に燃えさかる。
 私は一冊ずつの物語を思い出す。運命の出会いを果たし、甘い言葉を囁かれ、やがて恋に落ちる。君だけが好きだと男は繰り返し口にし、私はだれにも代われない主人公へと変貌する。ページをめくるにつれて、運命の恋はピークに達し、最後には空白のページに行き着き、私は物語から強制的に放たれる。やり場のない虚無感が、次の物語へと手を伸ばさせ、私は抜け出せないループに陥っていた。
 夢を与えられることは、決して悪いことではない。でも、夢の中でしか生きられないのは窮屈だった。溢れ返るフィクションの中には、孤独の渦がうずまいている。物語に浸っているとき、私たちは目の前の現実から解放される。でも、それはページが続くまでと限られている。最後のページを迎え、私たちは強制的に元の世界に投げ出されたとき、私たちはようやく手に入れた偽物のハッピーエンドを奪われる。物語を読む限り、添い寝部屋へ通い続ける限り、本物の結末は訪れない。この惨めなループを止めることでしか、目の前の道は変えられない。
 橙色の火によって、すべての物語が解放される。これまでの私を囲んでいた主人公たちの恋、写真集の顔をなくした男、そして、添い寝部屋の眠らされた男と、フィクションでしか生きられない惨めな私たち。どうか、今朝の男が孤独な夢を見ませんようにと、私は心の中で祈った。
 燃えさかる炎を横目に、携帯電話を取りだして電話をかける。
「西? どうした?」
 三回目の着信音が鳴り終わる前に、田中は電話をとった。外にいるらしく、電話の奥から車の音や人の話し声が聞こえてくる。
「今大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ」
「今日、時間あったら会えないかと思って」
「も、もちろん。でも、西から誘ってくるなんてびっくりした」
 田中は照れたように軽く笑い、頷いた。
「そうだ。前に聞いてた理由さ」
「え?」
 急に切り出されてわからないでいると、田中は咳払いをして言い直した。
「西のことが好きな理由だよ。色々考えたんだ。真面目なところとか、気が利くところとか。でも、本当はないんだ。というか、理由なんてなくていいんじゃないかと思って」
「なんで?」
「理由なんて説明できたら、逆に不自然なんじゃないかと思ってさ」
 田中はそう言って口ごもる。私は黙って頷いた。
「私、本当に人を好きになるってわからないの」
「え?」
「自分に自信がないの。それでもいいの?」
 田中はしばらくなにも言わず、「うん」と言った。
「どうして?」
「人はそんなに完璧じゃないよ。西だって、俺の嫌なとこくらいあるだろ」
 田中の言葉に、私は遠慮がちに頷いた。
「そういうのは仕方ないんじゃないかな。嫌なとこが許せるくらいで、良いところがとことん好きなら、それで丁度よくなっていくんじゃないか」
 田中は落ち着き払った声で言った。
「あ、そろそろ行かないと。夜に仕事終わってからでいい?」
「私は休みだから連絡待ってるよ」
と言い、田中は「じゃあ」と嬉しそうに返事をして電話を切った。

 百貨店の一階の雑貨売り場は、買い物客がちらほらいる程度で、狭い店内には化粧品売り場の香水の匂いが充満していた。マフラーやストールの売り場と、隣り合わせのハンカチ売り場の間に、美緒の姿を見つけた。初めて見る職場の美緒は、紺色のタイトスカートにベストという地味な服装に身を包み、いつもは下ろしている長い髪を頭の後ろにまとめていて、他の店員とほとんど変わらない格好をしていた。美緒は乱れた商品を手早く畳み、元の位置に戻しながら、周りの客に「いらっしゃいませ」と愛想の良い笑顔を振りまいていた。
「ゆりえ?」
 私の姿に気がつくと、美緒は小走りで通路まで駆け寄ってきた。「職場に来てくれたの初めてだねぇ、あれ、買い物の途中?」と言った後に、私の顔を覗き込んで首をかしげた。
「どうしたの? また顔色悪い?」
 心配そうに聞く美緒に、私は「あ、ううん」と言って首を振る。美緒は納得しづらそうにもう一度首をかしげ、「それならいいけど・・・」と呟いた。周りの客と従業員を見渡して、小声で耳打ちする。
「あと十分で休憩なんだ。時間あるならちょっと待っててよ」
 美緒はそう言って、何気なく私の手を握った。美緒の手が温かくて、私は自分の手が寒さで冷たくなっていたことに気がついた。昨日から手袋もせずに歩き回ったせいで、両手ともがちがちに冷えていた。美緒は「うわぁ、冷たい」と笑い、私はようやく気持ちが落ち着いた。私が「うん、待ってる」と頷くと、美緒は嬉しそうに微笑んだ。
 三階の陽当たりの良いカフェは空いていて、私たちは窓際のテーブル席に座った。店内にはベビーカーの子供を連れた女性二人がいて、互いに子供のことを自慢気に話していた。あとは買い物に来た一人客が数人いるだけで、ウエイトレスはグラスを拭きながら暇を持てあましていた。
「お腹すいたから、なにか食べてもいい?」
 美緒はメニューを眺め、ハヤシライスとオムライスで散々悩み、結局「やっぱりサンドイッチにする」と言った。
「私、コーヒーでいいや」
と伝えると、美緒はウエイトレスを呼んで二人分の注文をした。
「なにかあった?」
 美緒は不安そうに切り出し、落ち着かない様子でお手ふきを指先で弄んだ。
「いや、美緒に会いたくなったの」
 そう言うと、美緒は一瞬驚いて、それから目元を崩して笑った。
「なんだぁ、大事な相談でもあるのかと思った。でも、嬉しいなぁ。ゆりえって、昔からそういうのあんまり言ってくれなかったから」
「そうかな?」
「この前も、子供できた報告、私は最初にゆりえにしたかったんだけど。ゆりえはまだ結婚もしてなくて、今は好きな人もいないし・・・その、落ち着いてからでもいいんじゃないかって旦那に言われたの。でもね、本当はゆりえに一番に言いたかったんだよね」
「なんで?」
「ずっと元気なさそうだったから」
 美緒は言いにくそうに呟いた。
「そう見えた?」
「うん。だから、会いに来てくれて嬉しいよ。もっと私に頼ってくれていいのに。私がいつも頼ってばっかりじゃない」
 窓から差し込む光が、美緒の指先を照らした。以前見たときとは違って、ネイルはきれいに剥がされて、爪は短く整えられていた。前より化粧も薄くなって、無理した若さはなくなり、美緒は歳相応の美しい女性に見えた。
「美緒はさ、どうして今の旦那さんを好きになったの?」
 突拍子のない質問に、美緒はきょとんと目を丸くし、それから「うーん」と考え始めた。
「最初から好きだったわけじゃないよ」
 美緒は落ち着いた口調で切り出した。
「そうなの?」
「合コンで出会ったわけだし、その日に連絡先聞かれたから結構警戒したなぁ。でも、それから一緒にご飯を食べに行ったり、映画を見に行ったりしてるうちに、なんとなく好きなものが似てるなぁって感じたの」
「それが、好きになるの?」
 ウエイトレスがサンドイッチを運んで、美緒の前に置いた。私の質問に美緒は少し悩み、サンドイッチを一つ手に取って頬張った。
「わたしね、好きって増えていくものだと思うの」
 美緒は悩んでいた顔をあげ、私がいる右側にお尻をずらして向き直す。
「最初に好感を持ってることって大なり小なり、相手の中身じゃなくて見た目よね。でも、そこから少しずつ関わっていって、同じ時間を過ごして、同じ経験をして、その中で相手のことを知っていいなって思っていく。それがたくさん重なったときに、好きって感情になるんじゃないかな」
 美緒の言葉に、私は深く頷いた。
「今みたいに彼のことをいいなって思うの、最近なのかもしれない。最初から好きだったわけじゃないよ。ちょっとずつ、好きになっていったの。人によっては一目惚れして変わらないこともあるだろうけど、私は思い出を重ねていかないとできないなぁ」
と言って、美緒は照れくさそうに笑った。
「ゆりえはさ、関わっていく過程で信宏と合わなかったんでしょう。それは、ゆりえが悪いわけじゃない。ただ合わなかったんだよ」
「そうかなぁ」
「試してみなきゃわからないこともある。だから、田中と会うのを薦めたの。しつこかったらごめんね」
 美緒はばつが悪そうに言い、軽く頭を下げた。
「今日ね、田中に会ってくるの」
 私の言葉に、美緒は驚いて「どうしたの?」と聞き、「無理してない?」と続けた。
「大丈夫」
 私が心配そうな彼女に微笑み返すと、美緒の表情はぱっと明るくなった。私は隣に座る美緒に手を伸ばし、セーターの上からそっとお腹を触る。手で触ってみると、思ったよりもおへそ辺りは膨らんでいて、指先に温かい体温が伝わってきた。私は手の奥にいる子供を思い浮かべると、口元に自然と笑みがこぼれた。
「動くかな」
「まだじゃない?」
と、美緒は嬉しそうに笑う。
 美緒はハッピーエンドを迎える物語の主人公ではない。もし旦那と喧嘩して、たとえ離婚したとしても、もしくは子供になにがあったとしても、美緒はきっと目の前の現実から目を逸らすことはしない。彼女は物語の主人公ではないことを知っているから、強いのだ。
 お互いの嫌なところを受け入れ、許し合うことで、男女の間に初めて恋愛が成立する。長所だらけの格好良い登場人物は、現実には存在しない。それは相手だけでなく、自分も同じだ。私たちはだれも主人公たちのように完璧ではない。完璧ではないから、苛立つこともあるし、わがままも言う。だけど、本だらけのアパートや添い寝部屋で感じたような、たまらない息苦しさは現実にはない。眠る男たちが与えてくれるのは架空の愛情で、多くのフィクション中毒者に与えられる束の間の夢に過ぎなかった。
 仕事に戻る美緒と別れ、駅の改札へ向かう途中、人混みの中で千晶の姿を見つけた。
 千晶は携帯電話を握りしめ、落ち着かない表情を浮かべ、改札から出てくる人の流れを目で追っていた。人通りの多い改札で、千晶は前に見たような息苦しい表情はしていない。だれかを思い、だれかを求める、無防備な少女の表情をしていた。千晶は、現実の恋愛の中で生きている。それはフィクションに逃げる私たちより、ずっと正しいやり方だった。うまくいかなくて傷ついても、それでも千晶は目の前の恋から逃げることはない。
 千晶がふと、微笑みを浮かべた。電話がかかってきたようで、携帯電話を耳に当てて話しながら、嬉しそうに笑っている。彼女の初めて見る柔らかい表情を見て、私は胸を撫で下ろした。改札から出てきた男に千晶が近寄ったところで、私は男の顔を見ず、その場を後にする。

 夜になって、新宿西口の改札に着くと、田中の姿はすぐに見つかった。改札に溢れる人混みの中で、田中は落ち着かなさそうに辺りをきょろきょろと見渡している。私を見つけられないのか、中々目が合わない。田中の隣にも、後ろにも、待ち合わせらしき男女が立ちつくし、降りてくる客の中に自分の相手の顔を探している。
「田中、こっち」
 私は声を出して、彼に向かって手を振る。改札を出たところで、田中はようやく気づいて、いつものだらしない微笑みを浮かべた。そのとき、前みたいな嫌な気持ちは、思ったより浮かばなかった。私は人混みから駆けだして、ゆるく手を振り返す田中のもとへ急いだ。


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