プラグマティズムと「現証にすぎず」について
何かで見かけた「プラグマティズム」という言葉に興味をひかれて本を読んでみました。
プラグマティズムをWikipediaで調べると「ものごとの真理を理論や信念からはなく、行動の結果によって判断しようという思想」とあります。実用主義などと訳されるそうです。
結果が実用であることが真理。役立つことに意味があるというと、役に立ってないものを切り捨てたり、役に立てていない自分を責めてしまいそうな冷たい感じもしますが、本を読むと、その印象が変わりました。
本文では、結果をどのように判断するのかが、こんなふうに書いてあります。
自分の下した断定(判断)が、「興味を促進し目的を満足したか」どうか、つまり心が軽くなったかどうかによって、その判断結果の真偽(善悪)を決める。役に立ったかどうかは人から判断されるのではなく自分の心で判断することができると思うと、なんだか心強さを感じます。
ところで、日蓮大聖人も御書の中でこんなことを書いています。
仏法は道理や経文に沿っているかも大事だけど、現実に起きた結果が一番大事という意味ですが、プラグマティズムとよく似ています。
私は、この現証というのを、病気が治ったとか、事業に成功したとか、そういうみんなが納得する成功体験のようなものと思っていました。
でも、プラグマティズムにおける結果の判断方法を読んで、「現証にすぎず」っていうのも、現実に見えている客観的な結果というよりは、心が軽くなったかどうかってことかもしれないなと思いました。
たとえば、体型に悩むAさんとBさんがいます。Aさんは最後まであきらめずダイエットを達成し、Bさんは途中でダイエットをあきらめました。その後、Bさんは、自分が痩せたかったのは「太った自分は駄目だ」と思ってたからだと気づき、そのままの自分を認めるようになりました。
見た目の結果や世間的な評価から言えばAさんが正しく、Bさんは間違った選択をしたように見えます。でも、心が軽くなったか?という基準で見れば、AさんもBさんも正しい選択をしたと言えます。
こんなふうに考えながら、信心というのも、自分の中にある答えを信じるということなのかもなぁなどと、思ったりしています。
余談ですが、この本を図書館で予約したら司書さんから電話がきました。どうやら本が古くてかなり汚れているので確認のために連絡をしてくれたらしく、私がうーんと悩んでいると、「国会図書館HPのアーカイブでも読めます」と調べて教えてくれました。親切な司書さんに感動しつつ、興味に向かっていくと色んな人が助けてくれるんだなとプラグマティズムを感じました。