蒔岡咲子

主に歩きです。

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最近の記事

彼女たち、わたしたち、あたらしい家族④

3 22時。夜勤者と申し送りをしていると、チャイムが鳴った。2人で慌てて松村さんの部屋に向かう。 「夫が帰ってくる!」 目尻を吊り上げて叫ぶ松村さんの姿は、昼間の上品なご婦人の姿からはかけ離れている。 「ご飯も作ってないのに!買い物もしてないし、どうしよう、殴られる、殴られる!」 「松村さん、旦那さんは今日帰ってきませんよ、今日はゆっくりおやすみになってていいんですよ」 「でも、早くしなきゃ!」 「大丈夫、私たちいるから」 2人がかりで両脇を支え、立ち上がって足をひきずりなが

    • 彼女たち、わたしたち、あたらしい家族③

      施設に戻ると、残った人たちが昼食の準備をしていて慌ただしい。 「だだいま!」 「あら?どこ行ってきたの?」 うーん?と見合わせる人たちの間にすかさず職員が入る。 「そこの前の、川のとこだよ」 「へえ!川が流れてるのね。知らなかった。今度行くときは声かけてね」 「そうだね、天気の良い時、また行こうね」 お昼の準備が整うと、職員も一緒に昼食をとる。 「今日はずいぶん野菜細かく切ったねえ」 職員のひとりが笑いながらスプーンで野菜をすくいとる。 「水上さんがなんかと間違えて刻んじゃっ

      • 彼女たち、わたしたち、あたらしい家族②

        2 「はい、今日は何の日でしょおか!」 朝食を終えてひと段落すると、おもむろに施設長の林が猫なで声で言う。日ごろから住み慣れた我が家のような環境に、と口ぐせのように言うが、保育園のようなワッペンをつけたエプロンを着て声を張り上げる姿を見て、若手の職員たちは苦笑して入居者をみやる。入居者もニヤリと意味ありげに笑う。高齢者はとてもクレバーで、人間をすぐに見分ける。自宅とはかけ離れたこの施設で、不自然なあらゆる作業をさせられながら、動物的な直感が研ぎ澄まされているのではないかと思う

        • 彼女たち、わたしたち、あたらしい家族①

          1 松村さんはいつも淡いパステルカラーの手編みのセーターを羽織っていて、しゃんと伸びた背筋を庇うようふんわりと纏う姿は、いかにも上品な印象を与えた。 「フランスの毛糸で編んだの」 自作の羽織りを褒められると、いつも必ずそう返答した。 「だからちょっと、いいでしょ?」 ウフフ、と照れながら笑う。90歳を超えても決してだらりと椅子に腰掛けたりせず、遥かに歳下の職員たちにも丁寧に受け応えするので、こちらも妙にしゃんとしてしまう。 そのパステルカラーのセーターも、松村さんが亡くな

        彼女たち、わたしたち、あたらしい家族④

          白馬岳⑧

           やがて白馬大池に辿り着いた。水は透き通っていて生物の気配は感じられない。池の脇で休憩したが、止まない雨の中長居する理由も見当たらずそそくさとまた降りていった。大きな岩を跨ぐようにして下る道は滑り、いつか転ぶかもしれないといっていた矢先に根津さんが滑って尻餅をついた。 「まいったな」 と恥ずかしそうに笑っていたので、大丈夫ですか、この道は危ないですよね、ましてやこの天気だし、と励ましてから間もなく私もまた大きく平らな岩で派手に転び、額のあたりを強打した。 「さんざんですね、我

          白馬岳⑦

           翌日も変わらず雨だった。私の計画したルートは比較的安全と言われていたので雨で行程を変更する必要がなかったが、根津さんは縦走する予定だったらしくぎりぎりまで迷っていた。しかし一向に雨が収まる気配がない様子を見て、私と同じルートで下山することを決意したと言い、再び一緒に歩き始めた。  白馬岳は高山植物も含めた圧巻の景色で人気の山だったが、視界はずっと真っ白、おまけに足元は滑り、気を緩める時間がなく、緊張しながら進んだ。しかしあまりに歩くことに集中しているとだんだんしんどくなって

          白馬岳⑥

           やがて予定時刻を大幅にオーバーして目的地のテント場に辿り着いた。おー、やっとついた、と二人で握手をした。山小屋でテント場の受付を済ませたあと、今更なんですけどと言いながら名前を伺うと根津さんといった。根津さんはテント場を一望して、あのへんなら張れるねといって真ん中あたりに荷物を降ろした。その隣にはもうひとつ分のテントの場所があるかないかだったが、果たして、こういう時にちょっと会話したからといってよく知らない人の隣に張って良いものなのか、あるいは山の同志ということで細かいこと

          白馬岳⑥

          白馬岳⑤

           登りの斜面を幾度も見上げている途中で男性がいることには気づいていたが、その安定した歩調と、軽々とした身のこなしからしてやはり熟練した登山者なのだろうと思っていた。しかし軽い足取りで視界から消え、離れたかと思うとまた追いついてしまい、何度目かで挨拶をした時に、なんとなく挨拶だけで黙っているのもおかしい気がして恐る恐る話しかけた。すると男性はその雰囲気とは裏腹に、人懐こい笑顔で応じてくれた。 「いやあ、きついね。こんなにきついと思わなかったよ。完全になまってるね。」 「今朝、始

          白馬岳⑤

          白馬岳④

           1時間ほど登ると「ようこそ、大雪渓」と書かれた大きな岩が表れ、山小屋が現れた。山小屋の前から雪渓を見上げると、大きな白い斜面と、黒いつぶつぶが見える。点のように見えるのは人らしい。山頂のほうはガスがかかっていて様子はわからなかった。白い斜面は堂々としていて立派で、「雪がある景色のほうが山にとっては当たり前なのだ」と誰かに聞いたことを思い出した。斜面からスーッと降りてくる風がひんやりと冷たく頬に当たり、これから踏むはずの雪の冷たさを教えてくれた。あたりはゴーゴーと絶え間なく水

          白馬岳③

           電車には私の他に2,3人の登山客がいただけだった。重い荷物を下ろし座る。窓ガラスは古いものらしく白く曇っていて、真ん中あたりだけはっきりと外の景色が見えた。やがて電車が発車すると窓の中央部分に、どんよりと曇った空と、青々とした田圃、ポツポツと控えめに建つ民家と、ところどころ煙が立ち上っているのが映った。私はこの景色をすぐに好きになって、曇り空だったが何かとても良いことが起こりそうな予感がした。何番目かに停車した駅で登山の恰好をした男性が一人乗り込んだ。男性は使い古した感じの

          白馬岳③

          白馬岳②

           夜は地元の若者が酔っぱらって通り過ぎる気配がしたが、見慣れているのだろう、何事もなく朝を迎えた。約四時間の快眠。強ばった身体を伸ばしたあと、近くの公衆トイレの扉を勢いよくガラッと開けると、下着姿の中年女性がサッと何か布のかたまりでブラジャーを隠して「ひゃ!びっくりしたあ」とため息をついた。 「ちょっと汚しちゃってるんですけどすみません、どうぞどうぞ」 そう言いながら招きいれる素振りをして、辺りを布きれのようなもので拭いた。頭を洗ったのか、洗面台の周りが水浸しだった。用足しを

          白馬岳②

          白馬岳①

           2017年の夏は雨ばかりで、山に行くことを楽しみにしている者にとっては憂いの年だった。後にそのように記憶されるに違いないと思いたくなるほどのこの年に、憂いていた者のひとりであるところの私も幾度か山行を見送りながら、もう8月の半ばになっていて、焦っていた。次の連休も雨の予報。しかしこのままではどこにも行けなくなる。えいやっ、もう雨でもなんでもいい、と、仕事を終えると駅のコインロッカーに預けた大きなザックを取り出して、私はひとり長野県白馬岳に向かった。大型のコインロッカーは80

          絶望からの山登り③

           そうやって動植物とやりとり?ができることが分かったので、以降あまり不安な気持ちにならなかった。むしろ森は賑やかだった。木々も、鳥たちも、飛んでいる虫も、思い切り言いたいことを言っていて、おしゃべりだ。こんにちは。さようなら。ザク、ザクと地面を踏みしめながら。ありがとう。またこんど。見たことない植物。知らない動物の鳴き声。ひとりきりだと思っていたけど、ここに来れば仲間として受け入れてもらえる。私はただの生き物の一種で、それ以上でも以下でもない。心地よい感覚だった。  それ

          絶望からの山登り③

          絶望からの山登り②

           我ながら名案だと思った。どうせどこに行っても安心して眠れる場所なんてないんだ。山奥なら電波も届かないから誰にも煩わされない。知り合いに会って避けられ傷つくこともない。それに思い切りぎゃあと叫ぶことができる。ひとりで、誰にも伝えずに登ろう。もし遭難したらそれはそれでいい。どうせ明るい未来なんてないんだ。  そう思いつつも私は持ち前の慎重さを発揮して、絶対に遭難しない類の超安全な低山を探し、地図の読み方を学び、遭難事例の本を読み耽った。そして埼玉県の日和田山というところに登

          絶望からの山登り②

          絶望からの山登り①

          行くところがなくて始めた山登りだった。 30目前にして生活はギリギリ。働いても働いても働いても、100均で何を買うか迷うくらいしか楽しみが見当たらなかった。きつい仕事、楽しみもない。しかし(客観的にどう見えていたかわからないが)自分としては自分なりの正義というか倫理というか、そういうものを貫く努力をしてきた証のつもりだった。ところが世の中では私の考える正義とか特に必要としていないようだった。自覚としては「毎日努力している」。当時は何故か、苦労すればするほど真実に近づけると

          絶望からの山登り①

          非正規でアラフォー、女性で未婚であるということ

            私はタイトルのような条件で生きている人間の一人です。  正直なところ、こんな年齢になるまで毎月のやりくりにハラハラしながら生活することになるなんて思っていなかった。社会保険や諸々を引かれ月収は20万弱。専門職といえば専門職だが、非正規だからボーナスはない。単発のアルバイトでもすれば別だが、臨時収入がほぼ見込めない都心在住の月収20万弱はわりときつい。家賃と光熱費、食費をのぞいて自由になるお金は数万円。時折、予期せぬタイミングで冠婚葬祭、家電の購入などやむを得ない出費が

          非正規でアラフォー、女性で未婚であるということ