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10/6 パブリック心霊スポット

夏と同じテンションで水やりしていると、根腐りしはじめてきたのに気づいて、慌てて屋外のファーストクラスにシートを変えてご機嫌をとった店の観葉植物。ずっと夏模様でいる私の心を、そろそろ模様替えしろよ、と教えてくれていたかもしれない。名前が思い出せないその植物を、最近覚えたグーグルレンズにかざそうとしていたら、「おはようございます!!!」と後ろから元気のいい挨拶が。
真っ青の体操服を着た学生の集団が一斉に店の前を歩いている。大きなリュックサックには「SEIRYO」の文字。どうやら市内の高校生らしい。
「俺らの時代もそうやったけど、まだ行きよるんやね、鹿島」コーヒーを飲みにきたガス屋の谷口さんは、母校の生徒がはしゃぎながら店の前を通るたびに、ちらちらと外に目をやった。
鹿島はちびっ子や家族の遊び場だけにとどまらず、高校のオリエンテーションや遠足の目的地にもなっていたり、その参道は地元高校野球部の雨の日のトレーニングコースだったり、たまに手を繋いだカップルが通ったりと、これからのオフシーズンも通りを賑わせてくれる面白さがある。
参道にはすでに、秋祭りのだんじりが組み上げられていて、学生たちは大きな丸太に触ったり、ふざけて担ぐふりをしたり、釣具店のシブい佇まいを見た一人の子が、「これ、妖怪ウォッチに出てくるあの店にそっくりや!!」と驚いていたり、妖怪ウォッチのことはデジモン世代の我々にはさっぱりわからないけれどなんだか道中も楽しそうだ。釣具店の隣には、民家を一棟貸しにしたエアビーの宿があるのだけれど、その日の宿にはすごく威勢のいい台湾人のお客さんが3人泊まっていて、学生たちとカタコトのコミュニケーションを楽しむ声を聞いた。

はまを開けていると、こんな新たな出会いを目にする喜びもあるけれど、この場所(旧SANYO電機チェーンみしま店)に暮らしていた三島のばあちゃん(=祖母の従兄弟)が細々とやっていた駄菓子屋の頃のことを聞けるのも面白い。
「毎日のように、じゃなくて、本当に1日も欠かさず毎日ここに駄菓子を買いにきよったんよ」と話す人もいれば
「私がまだこの土地に嫁いできたばかりの頃、隣の奥さんと一緒に毎日この場所でずっとおしゃべりしてた」と話す人もいる。
「昔は祭りのたびに甘酒を大鍋いっぱいに作ってみんなに振る舞っていて、私も一日中手伝ったもんよ」というのはうちのばあちゃん。この鄙びた船の甲板みたいな緑の床は、おばちゃんが子どもだった頃の足跡や、せわしい性格のばあちゃんが絶対一回はひっくり返しているであろう甘酒が染み付いているから、ここを再び踏み締めるものはみんな、私情を挟まずにはいられない。

今となってはSANYO電機はパナソニックに買収され、瓶のコカコーラはいつの間にかペットボトルに代わって、子供の数は減っていき、三島のじいちゃんは亡くなり、三島のばあちゃんは施設に入って、この店も長い間シャッターを閉じたままだった。そのシャッターをもう一回開けてみて、家の隅々まで風を通してみる試みだけれど、この近辺でこんなことをやっている人は珍しいらしく、周辺からいろんな人が恐る恐る扉を開いて訪ねてくる。
私のやってることや世界に求めていることはアイルランドにいた頃から変わっていなくて、駄菓子屋だったこの建物の機能も三島のばあちゃんの頃から変わっていなくて、人が集まる場を今の時代に即してそのまま引き継いでいるだけ、という感じ。
そんな場所にみんな、一体何を求めてやってきているのかと様子を見ていると、「興味本位」だったり、「一度は来たいと思ってたけどガラス張りやから一人で行くのは怖くて」とか、心霊スポットのような立ち位置も否めないが、そのなんとない好奇心(curiosity)は、はまの日常にはないもので、同時にその人にとっての非日常部分の側面を切り出せているような気もする。

私が「はま」を開ける前から、この地域はずっと昔から「はま」と呼ばれていて、住所ではなく旧地名としてのこの呼び名を使っているのは、すでにこの地域に残る人たちだけになってしまっている。
そんなはまの人に、小さい頃から無限かと思うほど貰ってきた北条の恵みをなるべく多くの人に分けたい。だって魚も野菜も自家消費するには量が多すぎるし、遅かれ早かれいつか思い出をシェアして笑い合うなら、その人数は多い方がいい。これは、はまじいを亡くして気づいたことだ。
私が死んだり、建物に万が一のことがあったり、「はま」の地域もろとも天変地異で消滅してしまっても、それまでにこの場所を訪れた人の心に、どう「はま」のことを残していくかが勝負だと思って。
ターゲット層とかビジネスモデルとかを設定しないから、松山からやって来る銀行の営業からは手のひら返したようにぞんざいに扱われるし、自分自身ちょっと迷子になるけど、誰の心に「はま」を届けたいのか、どんなふうに広がってほしいのかは、ここに至るまでにあらかじめ決めていて、別に銀行にぞんざいに扱われようとお前のズボンに乗っかった腹の肉に比べたら、いくらかは社会的に意義のあることをやっている。後は風まかせみたいな感じで、「はま」は漕ぎ出した。


戦後の漁業農業、それによる地域のあり方、海や森林資源のこと、どう自然と立ち向かっていくか、関係者でもそうでなくても、いろんな視点でいろんな立場で考え方は違う。昔は良かったといえば良かったのかもしれないし、今は悪いというならそうかもしれない。前職の時なら会社としてどう動けていだだろうとか、もしはまじいが生きていたならどうしてただろうとか、めっちゃ考える。でも、今は私の両手で扱えるスケールで、考えていかきゃいけないのだ。
沖ではなく、丘ではなく、あえてその間で浮かんでいるはまが提案していきたいのは、一つの価値観じゃなくて、わたしに対しても、あなたに対しても、一つの答えに疑問を投げかけていくこと。
令和らしいとか、今の時代らしいとか、それでどうこうっていうのも、今をこうして生きている誰にもわかりえないことだから、今日もとりあえず一つ一つ、やることやってから考える。その日たべる魚を釣っている。


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