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わしらの貝しごと(下)

店に戻ってすぐ、バゲットを買いに来た佐藤親子と夕暮れの空で立ち話をしてから、仕事にとりかかる。ヒナタメと岩牡蠣を分け、一緒にくっついてきたストレンジャーシングス達を水で軽く落として水から茹でる。砂や泥は完全には取り除けない。燻製や山菜のアク抜きなどに使ってきた、実験用のボロボロの鍋が活躍する。
道後温泉くらいの熱さになったらヒナタメはぷくぷくと泡をふく。口が1mm程度開いて包丁が通りそうになったら火からあげる。
あの道後温泉の熱さが平気な人は、熱々のヒナタメに包丁を入れて身をとりだしてもいい。ザルにあけて冷水につけてもいいけれど、その分の出汁は冷水に流れていってしまう。
包丁を動かして、殻を縦半分にギコギコと引いたり押したりしながら開けていく。余熱で茹で過ぎてしまわないように、この作業にはスピードが必要だけれど、大きい貝だと開くのに力がいるし、小さい貝ばかりだと気が遠くなってなかなか進まない。今夜は結局、牡蠣の身を力づくで叩き割るまでは手が回らなかった。

さて、このヒナタメをどうするかだけれど。
このあたりで、「醤油ご飯」とか「炊き込みご飯」というと、「魚貝の炊き込みご飯」を指すことが多い。ヒナタメも例に及ばず、早速ご飯と炊き込まれて夕食の主役を飾ることもできるのだが、採取の一連の流れを見届けて疲れ切った今日という今日は、申し訳ないが、彼らの今後について考える余裕はなかった。とにかく食卓に登場させてしまうのは勿体無く感じて、冷凍庫に突っ込んでおいた。

近所のじいちゃんばあちゃんから教わって、自分でやって感覚が掴めた、総合知みたいな貝しごと。ちなみに、世界の大部分の人々は、この黒い2枚貝のことを総称して「ムール貝」と呼んでいるんじゃないだろうか。ヒナタメやら瀬戸貝やら細かく呼び分けようとする人びとを、ここの場所以外に聞いたことがない。

雨は結局8日の夜には降りはじめ、そのまま止むことなく9日になった。夕方になって、お米の配達に来た砂本さんが「とうとう、梅雨入りしましたね」と半袖の腕をさすった。
海水をたっぷり含んだ軍手と土のう袋は、しばらく乾きそうにない。

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