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ワイルドスピード長浜ツアー (上) 海なし県はブルーオーシャンの巻

時代の混沌も、東西文化の分かれ目も静観してきた滋賀のことを、琵琶湖に触れずに説明するとしたら、海のない港、と表現すればいいか。または、この国を取り巻く文化と文明がぽちゃんと落ちてかき混ざったため池と呼ぶのが早いか。歴史の教科書で見覚えのあるおどろおどろしい地名の標識をたどりながら、奥深い山が囲む近江盆地をつらぬくと、なぜかだんだん見慣れた景色が迫ってくる。なだらかな勾配すらも懐かしく、眼下にあらわれたその青を見て、「海や!」と私たちが指差した先は琵琶湖でした。

初めて滋賀に来たのは大学最後の冬で、前回訪ねたのは今年の5月。やっぱり何度来ても琵琶湖を海と呼び間違えてしまう。滋賀県民は一生涯に一体何回「湖やで」というツッコミを入れて、何回目で「まあ海でええわ」となるんだろうか。他所から来た人とのそんな一連のやり取りを想像して、この地に暮らす人の気質は、必然的におおらかになるしかないとみた。


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けさ台風を見送ったばかりの琵琶湖は濃い青。青空の下でごうごうと唸る湖のそばは、山陰の海岸線をドライブしているような気さえして、どうしてもケツメイシを流したくなる。

荒波の湖を背にして15分も進めば、眼前もはるか向こうも、私たちを迎えているのは、見渡す限りの緑。収穫を待つもの、季節に沿って色褪せるもの、濃淡の対照と絶妙な混色を間近にすると、私の知り得る緑の色数はゆうに超える。コンバインも軽トラもいない隙に、道のはたで止まって降りて吸った空気は、当たり前だけど九州とは違う味がした。

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「このへんは気の通りが違うの、なんとなくわかるでしょ?」
今回の旅を計画してくれた我らが師匠(写真上)は、山へと上がっていく道の途中、車窓からほろほろと流れる集落の景色を「抜け感」と話すが、海なし県のデータベースが少なすぎるのか、私にはどうもピンとこない。
初夏のファッション誌の表紙にしばしば見受ける、白抜き文字の「抜け感」でもないし、インスタの美容アカウントのハッシュタグによくある #抜け感 とは違うし。
山と川に沿って構成される集落は、自然と同化するように息をして、厳かに伝統文化を醸成している。立派な家々、水路とあぜ道、歩いてるとぶつかってきた羽虫一匹...どれを取っても、「どっからでもかかってきいや」と言わんばかりの殺気のような生命力がある。師匠の言う「抜け感」って、俗世も人智も飛び抜けた、って意味のこんな境地のことですか。

山を上がっては下り、琵琶湖に向かっては離れて、土地感覚も平衡感覚もすっかり麻痺した状態で、たどり着いたのは伊吹山。その山のふもとで暮らし、ガラス工房「YANEURA」を営む林さん夫妻を紹介していただいた。ガラス作家の旦那さん、カズさんがほぼご自身で改装された古民家は、住居が1階、工房兼ショールームは2階。火を扱う工程はお隣の蔵で。住居スペースをくぐり、上のショールームへ通してもらうと、ガラス作品が窓際で光を取り入れて、部屋全体を明るく彩っている。

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最近は「お話し会」の場所としても利用されているそう。移住を考えている人にアドバイスをしたり、授業の一環で地元の高校生と進路や仕事の話をしたり、市の議員さんと意見を交わしたり、地元の人にとってのコミュニティスペースとしても開かれている。

ところで、伊吹山と聞いて真っ先にピンときたのは、先月、戸畑の図書室カフェITOHさんでお聞きした、写真家の大西暢夫さんのお話。
久留米の和ろうそくを1本作るのに、原料となる櫨(はぜ)があり、櫨をしぼる蝋燭職人がいて、その絞りかすを必要とする徳島の藍職人がいる。
また、ろうそくの先に巻きつける真綿を作る滋賀の職人がいて、真綿の繭を作る蚕がいて、桑の葉で蚕を育てる愛媛の養蚕農家がいて...幾重にも自然界と人の手が合わさっている、というところで、伊吹山の名前を聞いたばかりだ。
 江戸時代は、それぞれの土壌を生かしたものづくりの中で、いらなくなった上澄み部分が、また別のどこかのものづくりに使われるために行き来している、という横軸、それが時代を経ていつの間にかそのまちの伝統産業となった、という縦軸で説明づけられる。現代の大量生産の仕組みと比べると、今も昔も、それぞれ「もの」の行き着く先はもちろん人間の元だ。ただ、人間がその自然の轍の上にいるか、いないかの違いが時代を分ける、という話だった。

「作る」と「まわる」が同時並行していた江戸までさかのぼり、縦と横の座標の交点を探る旅(大西さんの心の向くままの旅?)を聞いて思ったことには、近ごろの「暮らし」には、丁寧な、とかサステナブルな、とかの修飾語をつけられているけれど、そもそも人々にとって暮らしとは循環するもの。
私たちはどんなに文明が発展しようと、依然として体一つで全てをこなすことはできない。お米一粒も作れないし、雨風をしのぐ屋根も建てられない。そのくせに、消費と生産という単発的で一回きりの行為の連続を、暮らすという意味にすり替えて満足してしまっている。
畑も外壁も内装も全部お一人でこなしたというのに、まだまだやりたいこと、作りたいものがあるようなカズさん。山に背中を預ける暮らしに完成なんて見えなさそうだ。

文字数が多いせいか画像が反映されなくなったので、止むを得ず二本立てになってしまった...。次の投稿に続きます。

ガラス工房YANEURAのHPです。無垢の木や素朴な草花と調和した作品に惚れ惚れします...
https://www.kazuw.com/








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