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思考の淵で崖っぷち

「センスってさあ、どう教えたらいいんだろうね」
昔バイトしていたとあるお店のカウンターで、ため息と共に漏れた言葉を、私は聞き逃すことができなかった。
「技術は教えられるけど、じゃあ一人で任せられるか、っていうと、センスの問題になってくるんだけど、こればかりは教えられないのよ」
ワインを手酌で継ぎ足す彼女はただのお客さんじゃない。
休みの日にたまたま立ち寄っていた、お店のキッチンのシェフだった。
当時彼女が経営に携わった店舗は他にもいくつかあって、周辺の飲食店との横のつながりも広い人だ。誰のセンスについて話しているのかはわからないが、その時キッチンに入っていたその場の全員が耳をそば立てていたことは間違いない。水を汲みに行く時くらいしかキッチンに入らない私は、賄いを作ってもらうばかりで彼女から料理の技術を教わることはなかったが、センスをめぐるその呟きは時々私の中で反芻していて、今となっては私の思想に錨をおろして土台の一部にまでなっている。

自分で自由に決められることが増えると、考えなくてはいけないことも増えてくる。今や、普段の仕事や生活、着るもの一つ、言葉選び、何につけてもセンスである。近頃は誰かに仕事をお願いすることも増えてきて、こちら側が相手にセンスを問うようになって、気付かされることもたくさんある。

そもそも、センス=感覚は、危険に気づくとか、相手を察するとか、人間社会で生きていく上で標準装備として備わっているものだから、あるなしの話では片付けられない。「自分にはセンスがないから」とパッと両手を離してしまう人もいるが、大体は「その特定の分野と向き合う余裕がない」だけの問題で、立ち向かうものの規模にかかわらず、相手のことを深く汲み取ったり、自分を囲む状況を正確に把握する感覚を持っていないと進めない。そういう時は自分の代わりに、または一緒に、否が応でも感覚と向き合ってくれる人がいると良さそうだ。そこに対価を生み出すのがデザイナーの仕事の一つかもしれない。

センスが必要なのはデザイナーだけじゃない。(しかも、残念ながらセンスさえあればデザイナーになれるわけではないみたい。)同じ形のものを毎日同じ数ずつ作る仕事にしても、効率化や均一化には創意工夫が必要で、定型文を述べてデフォルトの動きを繰り返す仕事にしても、言い方や所作で伝わらなかったり忘れられないほど突き刺さったりする。何をするかより、どう向き合うかもまた、センスが問われる。
センス。それは確かに言葉にしづらいし、たとえ「こんな感じで」って伝えることができたとしても、言葉にすることで失われるジレンマもある。
だから私は最近思う。伝えるべきものはセンスじゃないのかもしれない。

一緒に活動したり何かを作ったりする時、量も質も、やる気も、後からなんとでも編集できるし、ずっとやっていたら多少は追いついてくるもの。
しかし、その人の中にある「思考」だけはごまかしが効かない。
行動の理由を聞いてみたり、逆に「どうしてやらないのか、できないのか」を注意深く観察すると見えてくるものがある。
網でサッとすくえる水面上の情報よりも、その人の深海で静かに横たわる思考に行き着きたい。理解できない時こそ、伝え合う時間と心の余裕を持っていたい。キャンバスの共有は無理でも、思考を表現することで、目の前の相手と限りなく同じ絵を描きあうことができるかもしれない。
今まで私の人生のほとんどは、伝えるよりも察することばかりだったように思う。けれど、自分のセンスを頼りに作っているはずの空間が、どう言うわけかホームでもありアウェイでもある奇妙な日々の中で、自分を一番的確に表現できるのはやっぱり自分だけだと思い知らされている。
そんなこんなで、まだまだページの途中である。今日も明日も、思考の淵で崖っぷち。

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