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8/31 夏休みは遊んでから宿題する子の行く末

「さくらちゃーん!あーそぼー!」
玄関のピンポンの音すら弾んだように聞こえる近所の子の誘いを力無く断った、あの8月31日の夕焼けを覚えている。
確か、同じ漢字を40回ずつ書くという、悟りでも開くかのような修行じみた漢字の練習帳をはじめ、いろんな宿題を中途半端に残したまま夏休みの最終日を迎えていたのだった。小学校の宿題の量って絶妙で、毎日やればすぐ終わるのに、すぐ巻き返せると思って油断すると後悔する。宿題は遊んでからやるタイプか、先に宿題してから遊ぶタイプか、それを強いられる環境下かどうかによって、後々の人生の歩み方に何らかの影響を及ぼすんじゃないか。数秘術より血液型より、唐揚げにレモン搾っていいかとかより、相手のことを知るための重要な質問項目だと思う。誰かデータを取っていたら教えてほしい。

北アイルランド・ホーリークロス男子小学校で、必須科目としている哲学の授業。哲学を通して互いに向き合う生徒たちと校長先生の姿を2年間追ったドキュメンタリ映画「ぼくたちの哲学教室」を劇場で見てきた感想。本編を先に見てもらう方がいいかも。

アイルランドで制作された、学校を舞台にした映画といえば、「シングストリート」を真っ先に思い浮かべる。
不況と混乱の80年代のダブリンで、男子校に通う主人公の少年コナーは、モデル志望の女の子、ラフィナとの出会いをきっかけに、自分も音楽の道を歩むことを決意する。ロックンロールをBGMに、新しい世界への希望と不安、青春の葛藤の美しさに心動かされた。映画の中では、校則指定の黒ではなく茶色の靴を履いて、当時のバンドマンのように派手な化粧をして登校するコナーに対して、校長先生がしつこく嫌がらせするシーンがある。私の中で校長先生って、全校集会で登壇してみんなを眠らせる催眠術を持っているくらいだから、きっと万国共通で穏やかなものかと思っていた。生徒に手をあげるのはもってのほか、逆に親しみを持って接するイメージもないし、クラスの先生やそれ以上に生徒より近い距離にいる光景がピンとこない。「校則を遵守させる」という名目で、自分の権威をふりかざしたり、思い通りに相手を動かしたいという姿を、「学校の校長先生」という立場に置き換えて、何かに重ね合わせている意図も読み取れる。カトリックとロックンロールのそれぞれの色の濃さが、見事に対比されている。

「ぼくたちの哲学教室」に登場する少年たちもまた、「シングストリート」のコナーや他のバンドメンバーのようにそれぞれの悩みを抱えながら、言葉にしたり、言葉に出来なくて拳でぶつかってしまったり、時に涙を流しながら教わって、考えて成長していく。マカリーヴィー校長が対話を通して生徒たちと接する時間は、時に放課後まで続くことも。生徒の自宅を訪ねて、親子と3者でコミュニケーションをはかるシーンもある。親との擦り合わせにも余念がない。

「アイルランド共和国」として島ごと独立したいカトリックと、もし独立してしまうと、宗教的マイノリティになってしまうプロテスタントが混在する北アイルランド。その長い対立は2000年代に入ってやっと落ち着いたばかり。市中にはまだ、武装派への加入を促すような壁の落書きや、薬物を誘い文句にした、反社会組織の勧誘も残っているようすが描かれていた。若者の自殺率が高いというところにも、かつての紛争が今でも人々の心に、特に戦争当事者の子や孫の世代にも大きなわだかまりを残していることが伺える。
 
自分達の宗教、言語や慣習を押さえつけられたり、改変させられてしまった歴史は世界的に見るとこれまでにもたくさんあって、それに対して反抗心をたぎらせ、クーデターを成功させて一気に世の中を覆した、という歴史も同じくらいある。というか、歴史の教科書をめくるとそんなことばかりの繰り返しでここまでやってきてしまったように思う。暴力とそのおそれで生まれた世界は、それをくつがえす時に、さらに大きな暴力が必要になる。
暴力をふるわれる方、振りかざす方、両方の痛みを知ってきたマカリーヴィー校長が、まだ傷の癒えないこのまちで生きる子どもたちと一緒に作る教室。生徒たちにとってクラスは、その場にいる全員と自由な視点で正解を探っていきながら、同時に自分の中の自分と対話を深めていく場所。先生たちは彼らの思いもよらない発言も、脱線してしまったかに思えるやりとりすらも、決して遮らず問い続ける。
哲学の授業は、正解と決められたただ一つの価値観に向かって答え合わせをする作業じゃない。どんな意見も等しく聞いて等しい目線で広げていく。誰かの優しさやその意図に気づく、思考の幹を育てる活動は、英会話やタブレットの授業では、しばしばスワイプしてすっ飛ばされてしまうだろう。

ハリウッドでもボリウッドでもディズニーもジブリも、世の中に対してアクションを起こして問題提起をしてくる作品が増えていて、時代のニーズというのもあるのだろうか。太古の昔から現代の社会活動家に至るまで、自らの置かれた現状を変えたくてアクションを起こしてきた、というと、ドラマチックでヒロイックで、聞こえはいい。けれど、混乱のさなかに生まれた子たちが生きるため、これからの道標となるものを育む活動は、草の根よりもずっと地道な土づくりで、上手に編集してカッコよく見せられるようなものでもない。だからこそ、「ぼくたちの哲学教室」は先生と生徒と親とが一緒になって未来を描く小さな積み重ねの過程の中に、平和への希望が詰まった作品だった。

ちなみに夏休み最終日の話には続きがある。「夏休み最後にせっかくみんなで遊びたいなと思ったのに、さくらちゃんまだ宿題終わってないの?ざんねん!夏休みは年に一度しかこないのに!」の一言で、意志の弱い私は漢字プリントをほったらかし、裏口から飛び出して、思う存分鬼ごっこをして笑い転げた。あの頃の自分では思いもよらなかっただろうけど、今では自分の裁量次第でいつでも好きなだけ夏休みを作り出せる方法を知っている。他人の夏休みを羨ましがってもいけないし、自分の夏休みをためらってもいけない。立ち止まったり考えない時間をとっても、最後には逃げられないように、世の中はうまいことできてると思う。どんなにきつい日々の中でも、誰でも夏休みを生成する方法を、これからも色んな人と一緒に考えていきたい。

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