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あゝ私のライチュウたち

飛べなくなったら?とキキに聞かれたウルスラは、
「描くのをやめる、何もしない。」と答えたけれど。
書けない時や生み出せない時はたいてい考えすぎている。思想と言動と行動がかみ合っていないか、精密度が極端に下がっている。そんな時はもう一度自分の震源に近づきたい。怒り、喜び、悲しみ、恐れ... 自分という容器に注がれた感動は、溢れたら自動的に言葉に置き換わってくれる。そうは言っても、書けない時はトランス状態に陥って考えすぎちゃって床に突っ伏して朝が来る。

「人という字は人と人とが...」と昭和の学園ドラマでよく聞くように、
「人は誰しも最後はひとり...」とどこかの誰かが言うように、
私たちのスタンダードを孤独とするか、集合体とするかについて、
アウストラロピテクスからアウグスティヌスの時代、限界集落の寄合でもEU連合でも、諸派に分かれいろんな議論がなされてきた。思考する星屑である私たちは、個体と集合体と、どちらの骨組みがしっかりしていて、どちらが早く飛ぶかではなく、その両翼にぶら下がって生き存えている。また誰しも精神の沼で、それぞれの融点を持って孤独と集合体をいったりきたりしている。

アイルランドからインド、万葉集からヒップホップ、地元の幼馴染から大学の同期まで、これまでたくさんの事物に影響を受けてきた。けれど自己形成は、自分が自分と向き合う独りの時間の中でのみ起こる出来事だと思う。
私は人が集まる場所が好きだしこれからもずっと目の当たりにしていたい。でもやっぱり、孤独こそが自分を浮かび上がらせるものだと思っているから、集合場所を作りながら一人一人の持つ孤独に寄り添い続けていきたい。
ここでいう孤独は、「個体差」とか、「他者との違い」というニュアンスに近い。みんなと幸せを相乗するより、一人一人の心の何処かに残る小数点の孤独を感じて欲しい。迎合せずに共存をはかる。はからずとも融合して新しい種が生まれる。パプアニューギニアの熱帯雨林にも負けずとも劣らない、そんな多様性のホットスポットを見てみたい。
だから人間が人間たるべく生きるためには、究極な話本当は何重ものコミュニティなんていらなくて、作るべきものはただ一点、一箇所、中継場所になる箱だけなのでは、と思ったりしている。
物理的隙間、または時間の余白を埋めるための箱ではなく、
この世にたったひとりしかいないあなたを認識してもらうための集合場所を作りたい。話したくなければ話さなくていい。泣いても、怒っても、好きに描いても、歌ってもいい。来たい時に来て、集まりたい時に集まればいい。何をしてもいいし、何もしなくていい。誰のものでもないけど、一人一人はその記憶を確実に所有する。ここまで書いてから、そんな場所を私は知っている気がする、なんて思って、よく考えてみるとその場所は、私が18年過ごした地元の海だった。
一輪車を練習した場所、幼馴染と何回もケンカした場所、その10年後くらいには缶ビールを片手に笑いあった場所。親戚のおいちゃんが勝手に作った堤防の見晴台(今考えると強度的にも法的にも問題があったのではないか)でバーベキューしたこと。そのおいちゃんの葬式の日の見晴台にはいつもと違う風が吹いていたこと。近くにある消防署のお兄さんたちが100m間を往復でジョギングしていて、私が100mを歩き切る間に大体3回くらいすれ違うので3回とも挨拶をする。女子中学生はTikTokをやってて、ノラ猫が邪魔をして、原付がブルルと追い越す。昔っからある近所の縫製工場で働く外国人の男女4人グループが、きらきら光る海を笑いながら見ている。
夕暮れ時には、おじいちゃんおばあちゃんは手ぶらで堤防にあがる。彼らは夕日に黄昏る時、もはや夕日を見ない。ただ何もしない、うつむいて座っているだけだ。答えあわせをする人はいないけど、生物学的な話と理屈とロマンをひっくるめて、海は私のルーツであり、最後に帰る場所なのは確かみたいだ。

ところで先日、村上さんに「(物語を)終わらせたくないんでしょ」とズバリ言い当てられて目覚めた。
「それでも何かを世に生み出したいなら、覚悟を決めて終わらせなさい。それは姿勢が悪い」と。
強情な私の投球を半笑い?呆れ笑い?で受け止めてくれる村上さんをはじめとした錚々たるライチュウ達が、こうして、なんの見返りも求めず私のペースに付き合って、ああでもない、こうでもないと一緒にグダグダしてくれることが本当にありがたい。でも彼らの背中を見ていると、自分の中の「あゝ終わった、やりきった」という達成感のレベルがしょうもなく感じるようにもなった。一つ言い訳をさせてもらうとすれば、達成した後、歓喜する間も振り返る間も無く次のステージがやってきて、気づいたらクリボーが押し寄せていたり、いきなりクッパと対峙したりしてるからだと思うけれど...。今日はもう無理!って床で寝て後悔する朝も、寝るのがもったいないくらい思考がフル稼働の夜を通しても、きっと言動と行動の精密度を上げていくという仕事は終わりがない。やはりそういう面では、各ジャンルのライチュウたちは時代の変容にも適応しながら絶えず自分と向き合い、それでいて世界に必要とされ続けている。洗顔や歯磨きの感覚で、仕事をルーティーンと思えばそれほど苦痛に思うことはないけれど、私の日々は、小学校の図工の時間と違って、始まりのチャイムも終わりの合図も全部自分が鳴らさなくてはいけない。「おかみ修業」ってこの部分にあると思う。


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