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かみなりのいしを探していました(上)

スタッフの真知子さんはよくその接客シーンで、ポルトのお客さんを幾度となく感動させて、新規からリピーターへ、常連からほぼスタッフのような関わりをしてくれる人たちを増やしてきた。真知子さんの先天性の気配り上手と、お茶目すぎてもう許すしかない隙のバランスに、見事に心を打たれた人たちは、たいてい次の予約を入れてチェックアウトしてくれる。

また来たくなる宿って、何だろう。これは私にとって永遠のテーマだけれど、「新規→感動体験→リピーター」のロールモデルはごく身近にいた。
私は通年に渡って菊池研究・西方研究を重ねてきたが、今年度の研究対象に新しく真知子を増やそうと思う。みんな手強いので、一生かけても終わらないだろうな。「一生をかけて研究したい!」という対象ばかりに囲まれている私の人生は、彼らといる限り多分一生楽しい。

ポルトは、うら若き10代から上は80代まで、カップルにも格別のご支持を賜りがちだ。このご時世か最近は特に、東京とこっちとで遠距離だとか、1年ぶりに再会して旅行してるんです!という方々も少なくない。

彼らが、たとえば1週間前に予約をしてくれたとしたら、
私がその予約を受けて、どこを案内しようかと考えながら部屋を掃除して待ちわびるその1週間の前に、
お二人にとってのこの1年間はどんなだっただろうか。
忙しくてあっという間だっただろうか、それとも持て余していただろうか。
想像力が共感であり、共感がその接し方にあらわれる。
会話や素ぶりで相手を察することも大切だけれど
たった1泊といえど、大切な夜と朝をお預かりする人たちと、やはり最後は互いの気持ちを共有できるかどうかにかかっている。

リピーターだったり、ファンだったり、どういう形であれポルトの名前を愛しく呼んでくれる方々にとって、感動のポイントは、この建物自体かもしれないし、挽きたてコーヒーの淹れ放題かもしれない。または、ご近所にお得な割引プランかもしれない。もちろん、真知子さんの存在が大きいのは言うまでもない。
その感動の物差しも沸点も、人それぞれ全く異なることを前提に、備え付けのホスピタリティ、金額に相当するサービスの部分を差し引いてみる。
そこに残った、私なりの「接客における感動」を押し付けてもいいとしたらそれは、相手への共感を通り越した、圧倒的な感情移入だと思う。昔訪れたあのまちで、夕方の早い時間から夜明けまで、ひとしきり話し込んだあのバーカウンターを思い出すと、私の心は一瞬で温まる。そしてその中には、私の話を聞きながら私よりも泣いたり、怒ったり、ときに「しょうもな!」と笑い飛ばしてくれたりした人たちの存在があった。

浅瀬に立つ私が、こうしたらいいとか、それはつまりこうだ、とか人様の人生に意見をするのは、まだまだ身に余ると思っているし、できればこの先も求められたくない。人それぞれ異なる文脈の中で、言葉だけで通じ合うことは難しい。私にとっては言葉は無色透明の盾であり、割れたら互いを傷つけ得るガラスのように置き場に困るときがある。悩んだり迷ったりしたら、人生経験豊かな女将やマスターたちの、有無を言わせぬパワープレーが即効性としては優れているだろう。でも言語化できないところでなら、私もきっと他人の苦しみに少しでも寄り添える気がする。

というわけでひらがなの「おかみ」とは便宜上いただいた身分であり、私は今後「女将」へ昇進したいわけじゃない。むしろ何かの肩書きに行き着いてしまっては困る。
でも、ここに来る人びとと、ここに漂う空気のことを一心不乱に思っていたいので、門司港の名だたる女将や人生のマスターたちにまだまだ教えてもらいたいことがたくさんある。だから「女将」になりたくないわけでもない。めんどくさいやつだと自分でも思う。でも、このめんどさの先に、カウンターに立つ人としての「勘定」と「感情」のボーダーが見える気がする。

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