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根底的罪悪感を背負って、底なしの愛を抱いて


世の中の、数奇でいて必然で残酷な部分は、
平家物語をはじめとする母の本棚から教えてもらった気がする。

勝つ人の後ろに負ける人がいて、影があるから光があって、
「幸せの背後には必ず誰かの不幸が潜んでいること」という名前の槍に
小さい頃から今もまだ少し怯えて生きている。
不幸せはどん底にきついが、幸せを両手で受け取ることも恐ろしいので
「根底的罪悪感」を感じながらサバイブした私の学生時代は安定に不安定だった。

今となっては、極端に二元的な価値観の行き来をしていた自分を哀れにも思う。もう四半世紀もこの世界を生きてしまった私は、私の等身大のスケールで感じる幸せをたっぷり享受しておくべきだ、という新しい見方で物を見れるようにもなった。

そしてこれからは、
「現代における幸せとは?」という水かけ論はすっ飛ばして、
私が健やかに生きている姿が、めぐりめぐりてどこかの誰かを健やかにさせることもある。という話をしたい。

アイルランドで一時期一緒に暮らしていたルームメイトのデイジーは、

「あなたが一度手放したその温かさを、恋しく思うのは勝手だけれど、
実は、彼らはあなた無しで回る世界を受け入れようと頑張っているところかもしれないよ。」と教えてくれた。

母国では、仕事の傍ら、兄弟のために家事もこなしていたというデイジー。
弟たちは、彼女がいない世界になって初めてそのありがたみに気づき
兄は家を出て仕事を探しはじめ、自分の道を歩もうとしているらしい。

自分の夢の実現と、故郷へ置いて来たものへの恋しさをテーマにした映画、ボリウッドにもあったなあ。歌って踊って、やっぱり最後は忌々しくも愛しい故郷へ帰っていった。
この映画に私は、実家に帰るべきかどうかというより、どちらかというと
散々歌って踊ったらあとは、向いたつま先の指し示す方角に進めという見方をさせてもらっている。

「幸せと不幸」、「労働者と雇用主」、「消費と生産」、「東京とそれ以外」といった二択に疑問を持っていた私に、
マークシートをはみ出したところに、自分の最近ハマってるパスタのレシピを勝手に記述し始めるような門司港の人たちがいつも非言語でヒントをくれる。まずは一人一人に愛を持って、盾とライトセーバー、両方で迎えることもここで教わった。湯水のようにあふれる愛は、振りかざさずとも気づいてくれる人に行き渡る。

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