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10/8 それだけが郷土愛のしるし

一縷の望みを託して、閉店の10分前に駆け込んだマルナカの地元野菜コーナーには「インゲン豆 190円」ってシールを貼られた割高のリーフレタスしか残っていなかった。結局決まらなかった、明日の献立の最後の一品。肩を落として店を後にすると、営業終了のメロディが漏れる駐車場に滑り込む、黒のアルファードとすれ違う。私より進退窮まった状態で駆け込もうとする猛者だろうか。街灯の下では、シフト終わりと思しき男の子が2人暗がりの中で何やらウケている。静かな夜だ。4日間にわたる風早秋祭りを過ぎたはまには、本当に人がいない。誰もいない。何しろ、この穏やかな港町が、4日4晩(練習や準備の時期から数えると2週間くらい)非日常に染まるのだ。それぞれ、こなさないといけない日常を巻きで終わらせたり、はたまた、終わらないと放り投げて飲み明かしたりする。
祭りのメイン舞台であるはま地区のだんじりは、いつも最後まで残って、参道をダッシュで何往復もするのが恒例行事だ。最後はゆっくりと鳥居をくぐり、その年の役目を終えただんじりをそっと置くと、どこからともなくフォークリフトが現れて、手慣れたハンドル捌きで解体されていく。ものの30分後には、それまで漁港をあたたかく照らしていた電球の明かりはふっと消えて、みんなそれぞれの日常に戻っていく。翌日の早朝、解体されただんじりは倉庫にしまわれ、カラフルな旗は一度綺麗に干された後にさっさと畳まれ、祭りの時期だけ灯される漁港の電球も、商店街につけられる紙手も撤去される。唯一、だんじりを飾り付ける無数の日の丸が散って、それを地面に見つけるときにだけ、昨日のあれは確かに現実だったのかもって、一度拾ってまたすぐに元の道に戻す。

「私はよそから来た人間だけど、北条って、秋祭りを基点に1年が回ってますよね。本当すごいことだと思うんです」
駅前のカレー屋さんも、祭りの翌日に来店したお客さんは本当に少なかったらしい。それを聞いて一瞬胸を撫でおろそうとする自分の気持ちを逆立てる。向かい風が強すぎて気が狂いそうな風早の冬は、まだ始まってもいない。

私が物心ついた時から今までずっと、「地元」と呼んできた景色は紛れもなく北条なのだけれど、正確に言うと、ここはじいちゃんばあちゃんにとっての地元。じいちゃんの仕事の都合で、ずっと岡山で暮らしてきた母にとっては、北条は夏休みだけ遊びに行く田舎。…だったけど、私が生まれる頃に北条に再び引っ越してきた。当然母の交友関係は岡山がほとんどで、家では岡山弁が飛び交っていたので、小さい頃の私の小さな世界には、北条の文化的素地はそれほど多くなかった。
そのせいだろうか。この地域で生まれ育ってきた同級生たちとは違う、かといって転校生とも違う、どちらの感覚もなんとなくわかるようなわからないような、「地元」の感覚が先天的に欠けた、ふらついたアイデンティティを片手に27年あまりを過ごしてきた。どっちかというと小さい頃は、「家族ぐるみの付き合い」とか「幼稚園からの幼馴染」を持つ生粋の北条っ子たちに対して少しの憧憬もあったかもしれない。それでも、祭りになると近所の子とお揃いの鯉口を作ったり、大学生になっても、「今年も一緒に祭りしようよ」って法被を借りて朝まで祭りに参加した。社会人になって世の中が広くなると、見える世界も一丁前に広くなった気になって、「田舎の小さな祭りなんて」とすっかり遠のいてしまったけれど、こうしていま北条に帰ってきて、7年ぶりくらいに祭りを間近で見ている。今の立場で、祭りの意味とか一つ一つの山車の起源とかをお客さんに説明するようになって、改めて、北条のお祭りって普遍的に美しいと思う。
はまのおいさんに借りた法被で、大工さんと一緒に祭りに参加させてくれた去年に引き続き、今年も近所の子に法被を借りて、東京から越してきた友人とだんじりをかいた(「運ぶ」ことを、この辺では「かく」と言います)。思えば小さい頃からそうだ。祭りにいる先輩や地域のおいちゃんはなんの屈託もない様子で「一人でもいるだけで全然違うから、一緒にかこや!」ってずっと声をかけてくれて、「私のこと、地元の子って見てもらえてないんじゃないか」って僅かな引け目をかっさらってくれた。

もしかしたら母の中で、岡山に住み続けるって選択肢があったかもしれないと思うと、北条で生まれ、瀬戸内の風を浴びて育ててもらえたことが何かの偶然みたいで今はすごく感謝してる。生ぬるい同調圧力にイライラしたり、風が強過ぎて本気で息ができない時とか、1時間に1本の電車を逃した時とか、ああ中途半端な片田舎と叫びたくなる夜はそれはもちろん幾度もあったけれど。他にどんな人生があったとて、この場所が育んでくれた今の自分が、絶対的に好きだって言える。PUFFYが流れる店内は10月の色濃い海をスイスイと越えてゆく。

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