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『現代短歌の鑑賞101』を読む 第一五回 田谷鋭

田谷鋭の作品三十首は、面白いものがないわけではないが、心を打たれなかった。

罪犯さぬ頃は小麦粉がりしといふ中国のふるき物語「雪」

『乳鏡』

罪を犯さなかった頃には小麦粉が空から降っていたという。そんな古い物語がある。
と、書きながらためらいがあって、この短歌が面白いのは元の物語が面白いからではないかという思いと、それでもいいではないかという思いの両方がある。面白い題材に出会うのも才能とどこかで聞いた。

ところで、私は「中国」を大陸の中国と読んでいるが、中国地方の中国の可能性もあるかもしれない。古い物語が似合うということで大陸側の中国だと思って読むことにした。

茶の粉の青微かにて不可思議の耀ひに充つ茶筒のうちは

『母恋』

空っぽの茶筒を覗いたことが確かにある。茶など普段煎れないのに不思議なものだ。金色で、こちらが映っているような映っていないような微妙な色合いだったように思う。いやそれは海苔の缶か? だんだんわからなくなってきたが、そういう記憶を呼び起こす短歌だ。

よいとまけの綱ひく声す余剰の思想もたざる清く充ちしこゑ

『乳鏡』

「よいとまけ」、聞いたことはあるものの意味を知らないので調べた。私は何かしら肉体労働の掛け声だと想像して、それ自体は当たっていた。滑車で重いものを上げ下げする際の掛け声だということだ。

主に女性の掛け声を指すものだそうである。そう知ると「清く充ちしこゑ」も、野太い声ではないようだ。

さてこの短歌は面白いからということではなく、古びているという観点で取り上げる。
意味としては、肉体労働の綱を引く「よいとまけ」の声が聞こえたが、余分な思想を持たない清らかで充実した声だということであろう。

肉体労働者が「余剰の思想もたざる」という言い方には、オリエンタリズム批判のような批判が可能だ。

オリエンタリズムとは西洋での東洋趣味を指す言葉だが、東洋を珍重するものの見方に、西洋中心主義が隠れているという点で批判される。肉体労働者の掛け声が「余剰の思想もたざる」だという話も、そういう批判が可能だろう。

可能だろうとは書いたのだが、私自身はそういう批判を苛烈に行いたいわけではない。何となく現代の目から見てこの短歌は古びて見えるということだ。今述べたような価値観の問題なのかも知れないが、批判的でない読み方をすれば、この頃の現実として知識人と肉体労働者には隔絶があったのかもしれない。

田谷鋭の三十首を読んでみて、どことなくこのような古びた印象を持ったので一例として取り上げた。今と異なるのは時代背景なのか価値観なのか、あるいはその両方ともか。

参考:
『現代短歌の鑑賞101』小高賢・編著

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