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『現代短歌の鑑賞101』を読む 第九回 高安国世

高安国世については、書物でまとまったことを読んだ記憶がない。短歌結社『塔』を創刊したとのことで、塔に所属する歌人から、何かしら教えてもらったことがあるかもしれないが覚えていない。

そういうわけで、実質初めての短歌鑑賞となる。初めて知る歌人を読むのも、詞華集の楽しみの一つである。

かきくらし雪ふりしきり降りしづみ我は真実を生きたかりけり

『Vorfrühling』

「かきくらす」は古語辞典で調べると、「あたり一面を暗くする」という意味の他動詞だそうである。あまり文法的なことを明確にせずに読むと、こんな意味だろうか。あたり一面を暗くして雪がしきりに空から降り、地に降り、そのなかで自分は真実を生きたいと感じていた。

雪が降りしきって、美しくも前が見えない状態になると、人はこんなことを思いがちだ。その思いがちなことも、言葉をすがたよく整えると胸に迫って感じられる。短歌のリズムが生きているように思った。

虹の下くぐり行くとは知るはずもなき遥かなる車見て居り

『朝から朝』

自動車が虹の下をくぐっていくようにこちらからは見えているが、遠く離れた自動車自身はそれを知るはずもない。

そもそもこういう場合に、自動車側からは虹は上空に見えないような気がする。虹の下をくぐるというのは作者側から見た場合の真実に過ぎないが、それを断定したことに可笑しみがある。美しい題材に滑稽な真実という組み合わせだ。

短歌に直接関係ないが、『朝から朝』という歌集名がよいと思った。

焼き棄ててくればよかりしもろもろも恐らくは単純に火にくべられん

『光の春』


死後を想像した一首だと思う。人の目に触れないよう焼き捨てておけばよかったものがある。一方で、人々はそういうものも特に区別せず、気にかけず、火にくべてしまうであろう。
気にしているのは自分ばかりである。

深読みすると、焼き捨ててくればよかったものとは紙のたぐいに限らないのかも知れない。自分がおかした小さな過ちのようなものも、とむらわれてやがては消えて忘れられてしまう。

この短歌には先程の虹の短歌と共通点がある。自分から見た世界と他人から見た世界の違いの話である。自分が感じている美醜が他人からは大した話でもないという話が書かれている。高安国世は自分と他人で見え方が違うということに敏感だったのだろうか。

参考:
『現代短歌の鑑賞101』小高賢・編著

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