「やねこい」から考えてみた「まん防」~今、必要なのは「説明」する力~

コロナ禍は収束を見せず「まん防」なんて言葉遊びも始まるなか、それでもそこから多少の教訓を引き出したい。キーワードは広島弁の「やねこい」。よろしければご一読ください。

■「あんた、やねこい人じゃねぇ」

2010年から5年ほど、広島で働いていたことがある。

よく訪れた流川のスタンドのママさんに、「あんた、やねこい人じゃねぇ」と何度もいわれたことを思い出す。

「やねこい」とは、広島弁で「面倒な、難儀な」という意味である。

それ以来、個人的に「やねこい」というフレーズが気に入っているのだが、関東では残念ながら、まったく使う機会に恵まれない。

なので、今回はこの「やねこい」をたくさん使ってみることにする。

■ 小学校で起こった「やねこい」状況

昨年小学校を卒業した長男は、満足に卒業式を迎えることができなかった。

家族で校庭に赴き写真だけは残したが、本人にとっては少なからず悲しみの記憶して心に刻まれるだろう。

そして今年、保護者を入れての卒業式が行われた。

世の中の状況はむしろ今の方がはるかに「やねこい」と思うのだが、決定の理由はよくわからない。

少なくとも長男は、そのことでかなり「やねこい」気分になっている。

■ 減っていく配慮と増えていく「やねこい」

もちろん、決定の是非を問いたいわけではまったくない。

このようなとき(でなくてもそうだけれど)、「誰もが等しく満足できる」などといった夢物語は、決して想像してはいけないもののひとつだ。

とはいえ、不満=「やねこい」気分を抱く人ができるだけ少なくなる配慮を心がけることは、誰にだってできるように思っている。

にもかかわらず、そんな配慮がどんどんと減っているように感じる。

そのことに私は、ひどく「やねこい」気持ちにさせられている。

■「昔の天気予報じゃないんだからさ……」

たとえば、「GO TO」の問題や「まん防」にしたってそう。

まさか年末の流行語大賞を狙っているわけではないと信じたいが、印象的なフレーズばかりが先行して肝心の中身がついてこない状況はもはや、悲劇を通り越して喜劇としても三流と評せざるをえない。

少なくとも、「ヤン坊、マー坊、天気予報」にはかなり失礼だ。
(これで年代が明らかになるが、若い人にはスミマセン。)
あるいは、海を泳ぐ「マンボウ」にも相当程度に失礼だ。

他の方はどうかわからないが、私が求めているのは「説明」である。
世界中の英知が結集しても簡単には収拾できない問題に、すぐに「解決」を求めるなんて下品な真似をするつもりはまったくない。

そして「やねこい」気分の人が増えている背景にあるのは、圧倒的なまでの説明不足なのだと感じている。

■「共犯者」が多い状況だからこそ「やねこい」

根拠が不確かであるにもかかわらず、「さもありなん」のような説明もどきをくり返す政府や与党。

無理だとわかっているくせに解決を強要する野党やマスコミ。

みんな状況を「やねこい」ものにしている「共犯者」にしか見えない。

それに引きずられて冷静さを欠いていく人々は、被害者であるのだろうとは理解するものの、全面的に許容する気持ちにはなれない。

私自身を含め、現状への責任は誰もが受け止めるべきなのだろうから。

ちなみに『共犯者』を歌った矢沢永吉も、広島県広島市の出身である。

■ だからこそ、「説明」の力を意識する

この「やねこい」状況から教訓を引き出すならば、「説明」の力を意識するということに尽きるだろう。

事実は時として人を傷つけるが、それは嘘であっても変わらない。

事実を丹念に/誠実に/真摯に/熱意と共に説明する。その言葉に宿る力を他者への配慮に変えて、「やねこい」を少しでも減らしていく。

それは仕事や学び、すべてのシチュエーションに当てはまることだろう。

もっとも、この駄文が「説明」の力を欠いた「やねこい」ものだとすれば、ただひたすら伏してお詫びする以外にはない。




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