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はじめに ——いま時間が傾いて

いま時間が傾いて

不存在ゆえに、存在感が鮮明になる。

坂本龍一が旅立ってから経った1年は、そのような時間であったように思う。そして、坂本がいなくなってからの1年は、私たちには、非常に短く感じられたのではないか。

なぜだろうか。

晩年に坂本は次のような言葉を残している。

「芸術は長く、人生は短し」

この1年が短く感じられるのは、坂本をめぐる時間の在り方が、坂本という主体を離れ、歴史的なものへと変容していったからではないだろうか。

つまり、坂本の作品を、歴史的な時間軸に置いて振り返ってみれば、それは刹那の出来事に過ぎないのだ。そう考えると、この1年を短く感じるのは当然である。

2020年、坂本は自身が監督を務める東北ユースオーケストラのために、『いま時間が傾いて』という曲を書き下ろしている。

さらに高谷史郎と制作した、シアターピース「TIME」が公開されるなど、最晩年の坂本は時間に対する思考を深めっていったように思う。

このことは何を意味し、坂本はどう考えたのだろうか。

もしかしたら、残された人生のなかで坂本は、自分自身をとりまく時間が、主体的なものから、自身の作品を通じた歴史的なものへと移り変わっていく様子を感じとっていたのではないだろうか。

そして、そのような時間性の変化を、坂本は「時間が傾く」と表現したと思いを巡らせることが出来るのだ。

『いま時間が傾いて』を聴くたびに、そのような坂本の思いが込められていると、私には思えてならないのである。

種子と種を蒔く人

坂本は『戦場のメリークリスマス』のサウンドトラック、『The Seed and the Sower』をピアノで演奏し、『Playing the Piano 1212202』に収録している。共演者のデビッド・ボウイに捧げるかのように。

しかしそれは、今となっては別の意味を持っているように思える。

それは坂本の不在によって、先に引用した『戦場のメリークリスマス』のワンシーンのように、坂本の作品が種として蒔かれていく様子が、音楽で表現されているようにイメージできるからである。

ところで、坂本が愛読した、フランスの哲学者ジャック・デリダ(なお、デリダのドキュメント映画の音楽を坂本は担当している)は「散種」という概念を提起した。

哲学者の東浩紀は、これを以下のように解説している。

彼の主張によれば、パロール(声)はつねに現前的な主体、つまり今ここにある主体と結びついているが、エクリチュール(文字)には「自らのコンテクストとの断絶力」が宿っている。書かれた文字は話された声とは異なり、それを発した主体の不在、極端な場合死んだのちにおいても残り続ける。したがってエクリチュールはつねに、主体の統御を完全に離れたところで自由に引用され、解釈されうるだろう。

東浩紀, 『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』, 新潮社, 1998年, 15P

もちろん、デリダの議論は、パロールとエクリチュールを念頭に置いたものではあるが、解釈の幅を広げれば、現在の坂本を取り巻く状況について象徴的に示しているように、私には思えるのだ。

つまり、坂本の作品は「散種」され、「坂本龍一」という主体的なコンテクストから解き放たれた結果、自由に解釈 / 引用され、残り続けるようになったのである。

この1年間で立て続けに開催された、各種イベントはまさにそのような状況を体現したものであるし、まもなく公開予定のコンサート映画『Opus』にも、同様のメッセージが込められていると想像できる。

偶然の出会いに

2007年、坂本は森林を保護するために「more trees」というNPO法人を立ち上げている。そこには自然保護というだけでなく、種を育み、次世代に引き継ぐという願いも込められていたのではないだろうか。

いま私たちの前には、坂本の蒔いた種が残されている。私たちにできることは、それを育てて、未来へ繋いでいくことである。しかしそれは、森を育てるように地道な作業である。

ご覧いただいているテクストは、その長い道のりの第一歩になることだろう。

ここで一度、「skmt arhiv」と題された本書の成り立ちについて、説明させていただきたい。

まず「skmt」とは、1999年に出版された後藤繁雄による坂本龍一のドキュメンタリーから拝借している。同書は90年代の坂本の活動を追った内容になっており、「坂本龍一」という主語は、「skmt」として表されている。母音が取り除かれたこの四文字を、後藤は「ドメイン名表記」であると説明する。

執筆開始当初は、インターネットが普及し始め、坂本も強い興味を持っていた頃であるから、そのような時代を反映するのとして、採用されたものと想像できる。

しかし、母音が失われ、発音が分からなくなってしまった「skmt」という四文字は、ヘブライ語で神を示す「YHWH」のようなテトラグラマトン(古代ギリシャ語で「4つの文字」の意)であり、容易に理解できない存在である。そして同時に、デリダの議論を援用すれば、パロールに還元できないことによって、無限に解釈可能なエクリチュールでもある。

じっさい90年代の坂本龍一を取り巻く状況を考えてみると、サブスクリプションによる音楽配信がないのは当然のこととして、本人が過去の作品について言及する機会もほとんどなく、この時期から坂本の音楽に触れた人間にとっては、考古学のように、未知の領域との戦いであったのだ。

もっとも、「skmt」という言葉を拝借した理由はそれだけでない。
坂本の発言を断片化、ときに時系列を操作してテクスト化する後藤の手法からの影響を示すものであり、後藤に対する敬意でもある。

したがって本書では、過去の書籍や雑誌などから坂本や関係者の発言を引用し、ナラティブなアプローチで、膨大な作品群を解説していく。

もっとも、類書におおく見られるように、YMOデビューの以前からクロニクルに坂本を追っていくのではなく、断片的に、そして不連続に作品を考察していく。それは再生YMO以降に坂本龍一の音楽を聴き始めた世代にとって、必ずしも坂本龍一はYMOとの連続線上に存在しないからである。したがって新しい世代に向けて、新しい坂本龍一像を提示するというのが本書の目的でもある。

理由については別稿で詳述するが、まずは90年代の活動を取り上げるところから、本章をスタートさせる予定である。

続いて「archiv」という言葉は、生涯にわたってコラボレーションの続いた、カールステン・ニコライが自身のレーベル「Raster-Noton」リリースしたコンピレーション「A1. Raster-Noton. Archiv 1」より引用している。

このように「skmt archiv」は、未来に向けて、坂本龍一の活動をアーカイブすることを目的として始まったのである。

実のところ、以前より本書の執筆については計画していたのだが、とある偶然の出会いがそれを実現に導いてくれた。そのようなチャンスをくださった坂本龍一さんに感謝の気持ちを捧げたい。

既に種は蒔かれているーー
未来へ向けて森林を育てる旅は、いま始まったのだ。

坂本が出演した、映画『戦場のメリークリスマス』からのセリフを引用し、序章の終わりとしよう。

セリアズは、その死によって実のなる種をヨノイの中に蒔いたのです。

映画『戦場のメリークリスマス』

【了】


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