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2つの対話篇 佐々木敦『「教授」と呼ばれた男—坂本龍一とその時代』を巡って ①

それぞれの当事者、それぞれの坂本龍一

佐々木敦『「教授」と呼ばれた男—坂本龍一とその時代』(筑摩書房刊)の出版に際して、佐々木氏をホストに、2つのトークイベントが行われた。

このトークイベントは、佐々木氏がホストを務め、ゲストには、異なる時期、異なる分野での当事者がそれぞれ招かれた。

一人はYMOデビュー以前より、坂本龍一と付き合いのあった牧村憲一氏。そして、もう一人は『坂本龍一トリビュート展 音楽/アート/メディア』でキュレーションを手がけたICCの畠中実氏である。

佐々木氏、牧村氏、畠中氏、この三者は坂本との仕事に深く携わりながらも、それぞれの射程の範囲は重複していないように思える。

直裁的にいえば、この三者は、坂本龍一という媒介がなければ互いに無関係であるようにも考えられるのである。

しかしこのような関係性こそが、坂本の広範なクリエイティビティを支えてきたと捉えることもできる。
それはある意味で「マルチチュード」とも表現できる、坂本龍一の多義的な態様を象徴しているのではないだろうか。

このイベントの意義は、坂本の活動にコミットしてきた人を通じて、坂本龍一という人物の多面性を前景化することにあったと、わたしは思う。

そして、クリシェとしての「教授」ではなく、当事者を介することで、坂本龍一という人物を浮き彫りにするというアプローチは、ファクトチェックを経由して坂本の活動を網羅的に批評した佐々木氏の著作とも、当然に接続するものだ。

まずは牧村氏とのイベントの考察を踏まえ、以前に記した佐々木氏の坂本龍一に関する著書へのレビューをさらに深く掘り下げていく。
そうすることで、このテクストを拙書評の続編とすることを本稿の目的としたい。

互いに補完する二人の当事者

一つ目の対話は、4月9日に本屋B&Bで行われた「“坂本さん”と“坂本龍一”のあいだ」と題された、『「教授」と呼ばれた男――坂本龍一とその時代』(筑摩書房)の刊行記念イベントである。

牧村と坂本の関係性を考察するにあたって、まずは牧村の経歴を紹介する必要があるだろう。

ゲストの牧村は、学生時代より音楽業界に足を踏み入れ、ユイ音楽出版でかぐや姫らのレコーディングに携わるなどフォークミュージックの制作現場にいた。その後は、CM制作会社(ON・アソシエイツ)代表の大森昭男から声を掛けられ、CM音楽制作のサポートをする。

そこでは、大森に三ツ矢サイダーのCMソングを大滝詠一へ依頼するようアドバイスし「サイダー’73」が生まれることになる。正式にON・アソシエイツへ籍を移してからは、好評だった「サイダー’73」に続くかたちで、「サイダー’74」を大滝と制作。

その際にコーラスに参加していたのが、当時シュガーベイブを結成していた山下達郎や大貫妙子であり、この出会いをきっかけとして、牧村は山下へもCM楽曲を依頼することになる。

しかし、牧村はCM音楽制作の世界から離れ、シュガーベイブ解散後に、大貫妙子や山下達郎のソロデビューに尽力する。山下のデビューアルバムでは、洋楽ファンにアプローチするという戦略から、海外プロデューサーを招いて、海外でレコーディングすることを提案したという。

結果的に、山下はRVCレコードと契約、チャーリー・カレロをプロデューサーに迎え入れて、1979年の夏にニューヨークでのレコーディングが実現したのである。(レコードの片面のみ、ニューヨークでレコーディングし、もう片面は別のプロデューサーによって、ロサンゼルスで制作)

シュガーベイブの初代マネージャーを務めていた、長門芳郎より坂本を紹介されていた山下は、坂本のピアノ伴奏によってデモテープを制作、そのテープを、レコーディングにさきがけて、ニューヨークのチャーリー・カレロへ送る。

牧村によれば、簡単な打ち合わせとコード譜だけで、デモテープはワンテイクで制作されたという。

ニューヨークでのレコーディング後、チャーリー・カレロが牧村に言い放った言葉は実に印象深い。

何でピアニストを連れてこなかったんだ。
あんなピアニスト、ニューヨークにいないぞ。

牧村憲一 X 佐々木敦「"坂本さん"と"坂本龍一"のあいだ」
『「教授」と呼ばれた男――坂本龍一とその時代』(筑摩書房)刊行記念(2024年4月9日)

牧村は帰国後、坂本にチャーリー・カレロのエピソードを伝えたところ、満更でもなかったという。この一件によって、牧村は坂本の才能を確信したのではないだろうか。

坂本と海外進出

話は逸れるが、ここで坂本がニューヨークのレコーディングに参加し、チャーリー・カレロから絶賛されていたら、坂本の未来はどうなっていたのだろうか。
(デモテープ制作に携わっただけであり、坂本が海外に行くという想定は現実的ではないだろうが)

もっとも坂本が海外へ行く話は、今回だけではない。当時、坂本と親交があり、「学習団」というユニットを組んで、坂本とイベントを開催していた竹田賢一はこう述べている。

フランスのピーター・ブルック・カンパニーに属する日本人俳優、笈田ヨシ(笈田勝弘)が、日本人の武道家を集めて『般若心経』という演劇を計画し、その音楽の依頼が父親経由で坂本のところにやってきた。しかし、長期に日本を離れることより、いろいろ広がり始めた国内での音楽活動を選び、むしろこの仕事は土取に向いているのでは、と代わりに紹介したのだ。

竹田賢一『ディスアポイントメント-ハテルマ ライナーノーツ』

坂本は同時期にフリージャズやインプロビゼージョンの前衛音楽系の人たちと付き合いがあり、海外で公演することを打診されているからだ。坂本はこのオファーを断っているが、これは重要な決断であったようにあったように思う。

土取利行が海外に行く前の1975年夏、竹田は坂本と土取のデュオによる『ディスアポイントメント-ハテルマ』をプロデュースするが、その後の坂本は、大滝詠一のレコーディングに参加したり、シュガーベイブのサポートをするなど、前衛音楽ではなく、山下らが志向していた洗練されたポップスに、活動の重心を置くことになるからだ。

一方、坂本の推薦によって海外に渡った土取は、ミルフォード・グレイブスの知己を得た他、ピーター・ブルック国際劇団の音楽を担当するなど、海外での音楽活動に軸足を移すことになる。

学生時代より演劇にも興味を示していた坂本が海外に行っていたらと考えると、感慨深いものがある。

この時は海外公演のオファーを断っているものの、坂本が海外での活動に関心がなかったわけではない。1994年の小沢健二との対談で、坂本はこのように語っている。

小学校のころから、黙っていても日本だけじゃなくて海外でも仕事をするようになるだろうと思ってたのは、多分、その本(引用者注:小澤征爾『僕の音楽武者修行』)の影響だと思う。だから大学(東京芸術大学)を出た時に、親に「あなたもっと勉強しなさい、海外にも出してあげるから留学でもしたら」って言われたんだけど、親のお金つかってなんてとんでもないっていう感じだった。あと何年かしたら、いやでも仕事で行くんだからって。

坂本龍一、小沢健二「特別対談 世界の肌ざわり」『月刊カドカワ』(1993年8月号)

坂本は幼少期より、海外で活動すると確信していたようだが、YMOのワールドツアーでそれが実現するというのは、何か運命的なものを感じずにはいられない。

クリエイティビティの先験性

話を本題に戻そう。

牧村による坂本とのエピソードトークは続く。牧村の著作でも紹介されている忌野清志郎とのコラボレーションがさらにディープに語られる。

ここで興味深いのは、タフな交渉を経て、坂本と忌野は、初めてスタジオで対面するが、何をやったらいいのか当人らにも分からないという事態になってしまったという逸話である。

牧村はとっさに、リファレンスとしてT-REXの名前をあげるが、坂本はバンド名程度しか知らないという。

参考資料として、坂本にレコードを渡した瞬間、牧村は成功を確信したという。その理由について、牧村はこう語る。

牧村 坂本さんがレコードを聴くということに対する信頼性はものすごく高かった。つまり彼はそこにある音を一晩で分析して、組み立てなおして、坂本龍一流の新しいものを作る能力を持っている。
それを100%信じていたんで、「レコードを持ってきて」って言った瞬間、もうこれは大丈夫、もう間違いない、と。それで翌日行ったら、もう音が鳴っている。

牧村憲一 X 佐々木敦「"坂本さん"と"坂本龍一"のあいだ」
『「教授」と呼ばれた男――坂本龍一とその時代』(筑摩書房)刊行記念(2024年4月9日)

どんな音楽でも「坂本龍一」というフィルターにかけて、坂本の音楽になるというのである。このようなプロセスは、換骨奪胎とでもいうべきだろう。

それは坂本の特徴は、あるジャンルからの影響は指摘はできるが、そうかといって、なにか特定のジャンルに属している音楽という印象を、リスナーに与えないという点にある。噛み砕いていえば、坂本の音楽は坂本の音楽でしかないということである。

イベントでの終盤、二人は坂本の音楽をこう論じている。

佐々木 ミュージシャンの中にも音楽性が変化していく人がいる。一貫性がある人もいるけれど。(中略)
そうすると新しいスタイルになると、前のスタイルを捨てたみたいに思われる。そういう場合もあるかもしれないけど、多くの場合、本当はもともと色々な可能性があって、それがいろいろな条件の中で、ある一つのものが発現していくんだけど、違う条件が揃ってくると他のものが出てくる。
かといって、前にあったものが消えてるわけじゃなくて――それは何かが顔を出しているかということで、ずっとある。(中略)
メロディ的なものから音の響きの方に、重心が移ったようにみえた時代が最後の10年くらいはあって――でもそれは変わったんじゃなくて、元々もっていたものが、ある時代、ある段階に出てくるということが起きて――。

前掲

たしかに、坂本はアルバムごとに音楽のスタイルを変化させる。作風が変化する予兆は前作からも感じ取れるが、佐々木がいう通り、すでに若い時から、あらゆる音楽の可能性が、坂本のなかに潜在しており、ある種の条件でそれが発現していたと考えることもできる。

佐々木の議論に、牧村もこう応答する。

牧村 今の音楽的な話だけではなくて、若い時に思ったある動機をその時代その時代で違う形で、何度も表出していく。

前掲

資料を整理していた時に、坂本が設立した出版社、本本堂より刊行されていた『週刊本』を見つけた牧村は、この頃よりスコラのようなことを繰り返していたことに気づかされたとコメントしている。

牧村の指摘は正鵠を得ている。坂本と共同で『B2-UNIT』をプロデュースした後藤美考が、インタビューでこのような発言を残しているからだ。

後藤 その頃、僕の知り合いが、吉祥寺のミュージシャンたちと音楽事務所みたいなものを作ったんです。そこでもよく彼と音楽談義をしたりしていた。そしてそんな中から音楽の本を作ってみようかという話なんかもあって、音楽の原初の形から、中世、近代、現代、あらゆる音楽の歴史を網羅するような本を、という気宇壮大な構想で。

田山三樹『NICE AGE YMOとその時代―1978‐1984』、148P-149P

本本堂の設立よりも遥か前に、坂本は世界中のあらゆる時代の音楽を記述するというスコラで実現したコンセプトを構想している。

つまり、牧村の発言どおり、音楽だけではなく、クリエイティビティの表出に関するあらゆる分野で、坂本は先験的に、つまり経験に先立つ形で、あらゆる表現の可能性を持っていたのである。

さらに言及すれば、21世紀以降、坂本は社会的・政治的な活動へのコミットの割合が大きくなっていくが、新宿高校で1年生の頃よりデモに参加していたことを考えると、何の違和感もない。ある種の条件によって、ポリティカルな一面が発露したに過ぎないのだ。

デモには1年生のころから行っていたと思います。入学して間もなく、ジャズ喫茶通いをしていたころに、砂川の闘争でけがをして頭に包帯をして帰ってきた先輩がいて「スティーヴ・マックイーンみたいなでかっこいい!」なんて憧れて、自分もやってみたいと思った。

坂本龍一『音楽は自由にする』

そのようなことを踏まえると、多様な音楽のスタイルだけでなく、社会活動や海外進出への意思についても、坂本は先験的にもっていたように思えてならないのである。

つまり、坂本という自我は、その本質を変えないまま、幼少の頃より在りつづけている。
そうであれば、佐々木が言うように、やはり「教授」も、もともと存在していた坂本龍一という自我の一部に過ぎないと考えられるのだ。

そしてそれは時代や条件により、「教授」を取り巻く表層が変容したように、私たちには感じられるということでもある。

牧村と佐々木が対話を進めるほど、佐々木の著書にタイトルになっている、「教授と呼ばれた男」の意味するところが、より鮮明になってくるようであった。

オーラルヒストリーのゆくえ

細野晴臣が設立したノン・スタンダードに移籍した経緯、commmonsレーベル設立前に交わした坂本とのやり取り、2015年リリースの『音楽図鑑』リイシューに携わった経緯(リイシュー時のブックレットにも、cooperationとしてクレジットされている)など、当事者の牧村から、このイベントでしか聞けないエピソードが明かされる。貴重なオーラルヒストリーと言うほかない。

もっとも本稿では、そのエピソードについて詳述することは差し控えたい。これらのオーラルヒストリーが、参照可能な形でアーカイヴされるかどうかは、関係者に委ねられるべき問題だからである。

そうであったとしても、当事者による貴重な話は、坂本龍一をより深く理解するうえで、後世に残すべき重要な史料になる。この対話がテクストとしてアーカイヴされることを願ってやまない。

二人の当事者による対話によって、「教授と呼ばれた男」の輪郭が一層シャープに描写されたように思う。坂本龍一の深層に迫る、よい手がかりになったのではないだろうか。

こうして「教授と呼ばれた男」をめぐる対話は、ICCで坂本龍一トリビュート展をキュレートした畠中実氏へと接続する――

【了】


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