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GEISHA GIRLS論③ ーー30年後の少年たち

GEISHA GIRLSが蒔いた種

考えてみれば、セリアズはその死によって実のなる種をヨノイの中に蒔いたのです

『戦場のメリークリスマス』

上記引用は、坂本龍一が出演した、映画『戦場のメリークリスマス』からラストシーンでのローレンスのセリフである。

戦場のメリークリスマスのメリークリスマスのワンシーンが示唆するように、GEISHA GIRLSは種を蒔いたのではないだろうか。それはその後の坂本の音楽活動で実を結ぶことになる貴重な種である。

前章が坂本と松本の動機を軸に、当時の音楽シーンを参照しながら、GEISHA GIRLSと世間との距離感を明らかにした。あらためて結論を言えば、H Jungle with t(GEISHA GIRLSがアルバムリリースした1995年デビュー)に比べれば、GEISHA GIRLSは目立った商業的成功はおさめていない。とはいえ、アルバムはオリコン初登場1位となっており、失敗したとまでは言えないだろう。

ここで重要なのは、GEISHA GIRLSを契機に、坂本の音楽活動のフィールドが拡張し、その後の方向性に大きな影響を与えたという点である。

次章では、まずGEISHA GIRLSのプロモーション戦略の難しさについて補足し、続いて、GEISHA GIRLSに参加したミュージシャンを取り上げながら、本稿の核となる、その後の坂本龍一の作品に与えた影響について具体的に論じることとする。

リリース戦略の難しさ

本章では、坂本龍一とダウンタウンという組み合わせによって、スケジュール調整が難しかったことが躓きとなり、リリースのスケジュールがかならずしも万全ではなかったことを記したい。

1994年7月21日に、1stシングル『Grandma Is Still Alive』がリリースされた後、8月19日には、リミックスアルバムとして『Geisha "Remix" Girls』がリリースされる。1ヵ月という短いスパンでのリリースが、2ndシングルではなく、リミックスアルバムであったという点は、意外であったようにも思える。
しかしながら内容について、1stシングルの3曲をそのまま収録したものに、森俊彦がリミックスした『Kick & Loud』と『Grandma Is Still Alive (T.Mori's Flying Phat Mix)』の2曲を追加した計5曲という、新鮮味のない構成に留まる。
テイトウワのアルバムにも参加していた森俊彦は、GEISHA GIRLSの1stアルバムにも大きく貢献する重要な人物であるが、アルバム制作者がリミックスアルバムの曲を担当するというのは、珍しいことであったようにも思う。

それはリミックスアルバムといえば、アルバムの制作に携わっていないミュージシャンが担当することで、意外性を楽しむ要素が期待されるものであったからだ。リミックスを担当するミュージシャンの顔ぶれで、「豪華なリミックス・アルバム」であるかどうかといったことが話題になっていたのである。

たとえば、テイ・トウワのつながりで、A Tribe Called QuestのQ-TIPがリミックスに参加していれば、もっとも話題になっていたであろうことは想像に難くない。(なお、後にテイ・トウワのソロで、Q-TIPはリミックスを担当している)

翌1995年5月19日にリリースされた『THE GEISHA GIRLS SHOW - 炎の おっさんアワー』についてはどうだろうか。1stシングルの2曲を収録しなかった点は意見が分かれるだろうが、収録曲の『少年』を2ndシングルとして、同時発売してしまった点は、勿体ないとしか言いようがないだろう。

リリースされたタイミングについても、1stシングルリリースから、およそ10ヵ月後であり、その間に新曲がリリースされなかったことや、すでにH jungle with tがデビュー(3月15日)しており、世間の関心もそちらに移っていたことを考えると、難しいタイミングであったように思える。しかしそれであっても、チャートで1位を獲得しているのは、それだけ人気が高かったことの裏付けになっていると考えてもよいだろう。

およそ1ヵ月後に、GEISHA GIRLSとして最後のリリース(6月21)になったリミックス・アルバム『THE GEISHA "Remix" GIRLS SHOW - 続・炎のおっさん』については、U.N.K.L.E.やMasters At WorkのKenny Dopeが参加しており、さすがのラインナップである。

リリースの内容やタイミングが不自然なのは、やはり坂本龍一のソロアルバムのレコーディングが同時に行われていたことが原因であると想像される。

そこでリリースを時系列で列挙してみると以下のようになる。

  • 1994年6月17日       坂本龍一『Sweet Revenge』

  • 1994年7月21日       GEISHA GIRLS『Grandma Is Still Alive』

  • 1994年8月19日       GEISHA GIRLS『Geisha "Remix" Girls』

  • 1994年9月27日       坂本龍一『Sweet Revenge』(海外盤)

  • 1994年11月18日     坂本龍一 featuring 今井美樹 『二人の果て』

  • 1994年12月16日     坂本龍一『Hard Revenge』

  • 1995年1月20日       坂本龍一『sweet revenge Tour 1994』

  • 1995年5月19日       GEISHA GIRLS『THE GEISHA GIRLS SHOW - 炎の おっさんアワー』

  • 1995年5月19日  GEISHA GIRLS『少年』

  • 1995年6月21日  GEISHA GIRLS『THE GEISHA "Remix" GIRLS SHOW - 続・炎のおっさん』

  • 1995年10月20日  坂本龍一『Smoochy』

締め切りがタイトな『Sweet Revenge』の政策を一時的に中断して、GEISHA GIRLSの1stシングルをレコーディングし、その後に『Sweet Revenge』をレコーディングしリリース。その後は同アルバムツアーがあり、その後は、次のアルバムのレコーディングが控えていたのである。

むしろ、そのようなスケジュールのなかで、大人気のダウンタウンをスケジュールを合わせて、アルバムのリリースにこぎつけたということが奇跡と言えるのかもしれない。

プロモーションに時間をかけて、シングルを定期的にリリースし、それらを収録したアルバムを作成し、その後にリミックスアルバムが出ていれば、更なるセールスが見込めたと考えられるが、それはあまりにも非現実的であったのである。

坂本龍一オールスターズ

GEISHA GIRLSのレコーディングでは、90年代の坂本龍一を支えたミュージシャンや作家が一堂に集結しており、テイトウワ、冨家哲、森俊彦、佐橋佳幸、そして、作詞家の売野雅勇など、オールスターメンバーといえるような豪華な顔ぶれになっている。

本章では、これらの参加者を紹介するともに、坂本の作品に与えた影響について考察していく。

あらかじめ結論をいえば、GEISHA GIRLSの前後で坂本龍一をサポートする主要ミュージシャンが入れ替わるほか、2ndシングル『少年』をきっかけとして、最晩年まで演奏された『美貌の青空』が生まれているのである。

まずは冒頭でも登場したテイトウワについて紹介しよう。

坂本龍一の右腕といえるような重要な役目を果たしたテイトウワは、1stシングル収録の『Kick & Loud』や、アルバム収録の『Blow Your Mind ―森オッサン チョイチョイ キリキリまい』など、GEISHA GIRLSの中核をなすHIP HOPの楽曲を坂本龍一と共同でプロデュースしている。

テイトウワと坂本龍一の付き合いは長い。かつて坂本は『サウンドストリート』(NHK-FMで1978~1987年の毎週月~金の22時台に放送)というのラジオ番組で、火曜日のDJを1982年~1986年まで担当していた。

不定期で放送されていた「デモテープ特集」が話題となっており、テイトウワは優秀作品としてオンエアされる番組の常連投稿者であったのだ。高校生の時から番組に投稿し、予備校生のときにオンエアされたということから、その早熟ぶりには驚嘆するほかない。(槇原敬之も常連投稿者であり、トイトウワの楽曲とあわせて、CD『DEMO TAPE‐1』に収録されている)

武蔵野美術短期大学に進学したテイトウワは、大学が募集していた、ナムジュン・パイクと坂本龍一のコラボレーションイベント(東京都美術館で開催)のボランティアに参加したことで、坂本と再会を果たす。

テイはその時のエピソードをこう語っている。

TOWA TEI:あるとき韓国のナム・ジュン・パイクというビデオアーティストの方と教授がコラボすることになって。美大でそのコラボのボランティアを募集していたので参加したんです。そうしたらプロデューサーの人に「あなたすごい才能があるんだってね。さっき教授が言っていたよ」って声をかけられたんです。そこに教授が来て、「あれ今度レコードになるから」と言われて。

https://doda.jp/guide/quusoomedia/005/

さらには坂本の依頼により、同レコードのジャケットデザインも手掛けているのである。

TOWA TEI:そうですよね。しかもいつも送っているカセットに絵を描いていたことから、教授に「君が(レコード)ジャケットを作りなさい」と言われて。絵を描いたといってもコラージュみたいな感じで、今とやっていることはあまり変わらないんですけどね。

前掲Webサイト

さらに興味深いのは、この時点でテイがソロデビューする可能性があったという以下のエピソードである。

TOWA TEI:でも当時の坂本さんやディレクターの方に「ソロで出してみない?」って言われたけど、「ニューヨークに留学に行くことが決まっているので」って断ったんです。

前掲Webサイト

もし実現されていれば、坂本が設立に携わり、当時所属していたミディレコードよりデビューしていた可能性があったのだ。

結局、テイはアメリカの名門美術大学であるパーソンズに留学し、グラフィックデザインを学びながら、DJ活動を通じて、Jungle BrothersやA Tribe Called Questらと親交を深める。その後はDeee-Liteへ加入し、デビュー曲『Groove Is In the Heart』(1990年)で、全米ポップチャート4位のヒットになり、デビューアルバム『World Clique』(1990年)も、ゴールドディスクを獲得している。

しかし、2ndアルバム『Infinity Within』(1992)も好調であったが、人気絶頂期にブラジルで行われたフェスでの落下事故を契機に、Deee-Liteを離れることになる。

Deee-Liteに所属していた当時の状況と坂本との再会について、『Sound & Recordings』の坂本龍一の追悼企画に参加したテイはこう述懐している。

ニューヨークの街中で「グルーヴ・イズーイン・ザ・ハート」がかかっていたので、たぶん、教授も聴かされていたと思いますけど、僕から”デビューしました~”とあいさつに行ったりはしませんでした。ディー・ライトのツアーやら何やらで本当に忙殺されていたんです。大好きだったクラブでのDJもできなくなって、いろいろなことがストレスになっていったとき、ブラジルの『Rock in Rio』っていう15万人も集まるフェスで僕はステージから落ちたんです。今思うとそれは潜在意識か守護霊……なんでしょうね。自分にとってはそこからがニューチャープター。そんなタイミングで教授と再会したんです。ハジメさんと『BAMBI』っていうアルバムを作っていたとき、次のアルバムに参加しないかって声をかけてくれたんです。

『Sound & Recordings』(2024年5月号)

一方、アルバム『Heartbeat』(1991年)発売当時のインタビューで坂本はテイが参加した経緯についてこう語っている。

トーワくんには前から手伝ってもらおうと思ってたし、彼が忙しくてできない部分はベーストメントボーイズというバンドに頼むつもりが「シーズ・ホームレス」のビッグ・ヒットで、売れっ子になっちゃって。で、トーワくんを通じて冨家(哲)くんに。YMOフォロワーたちが…なんて意識なかったですよ。

『ぴあ muisc complex』(1991年11月20日号)

テイはサンプリング素材の提供という、ハウスミュージックのビートを構成するうえでの重要な役割を果たしていたようだ。

で、ビートの存在。ほんと1小節とか2小節のビートを詰め込んだDATが1本あるんだけど、これはテイ(・トウワ)くんとふたりで彼の持ってるレコードとかCDとか片っ端からサンプリングしていったのね。

前掲書

『Heartbeat』以降も両者の交流は続き、1993年のYMO再生では、リミックスアルバム『TECHNODON REMIXES I』(1993年)を制作し、『TECHNODON』(1993年)より、4曲中3曲のリミックスを担当(残りの1曲は、その後に"güt"レーベル時代に坂本龍一や中谷美紀の作品でミックスを担当することになるGOH HOTODAと、70年代よりNYのダンスシーンに携わり、ジョークラウゼルやダニー・クリヴィットとの『Body & Soul』の活動でも知られる、フランソワ・ケヴォーキアンが共同でリミックス。)

GEISHA GIRLSの1stシングルのために一時制作が中断された、gütレーベルでの初アルバム『Sweet Revenge』にも携わっており、テイがGEISHA GIRLSへ参加することは自然の流れであったと考えることができる。

ビートの作成で3曲に参加した『Sweet Revenge』について、テイは次のようにコメントを寄せている。

そのころの僕は家でレコードをかけて、いいなって思ったビートをひたすらDATに録っていました……(・・・)あとでDATにコピーして教授に渡す。"Break for Ryucihi"みたいな感じでね。その後、2000年代にYMOが再活動したときだったと思いますけど、教授のコンピューターの中に、"TOWA Breaks"って名付けられたフォルダーがあるのを見つけて、まだ使ってくださったんだ!ってうれしかったですね。

『Sound & Recordings』(2024年5月号)

坂本がテイをいかに信頼していたかが伺えるエピソードである。

テイは坂本のアルバムへの参加を経て、gutレーベルでソロデビューを果たし、1stアルバム『Future Listening!』(1994年)をリリースする。一度は断っていたソロデビューが、NYのDeee-liteでの活動を経由することで、実現したのだ。
なお、『Future Listening!』には4曲で坂本が主にエレピの演奏で参加し、ミックスは、gut時代のほとんど作品を担当したゴウホトダや、gut以降に長きにわたって坂本を支えてきたフェイルナンド・アポンテが参加している。

特に収録曲の『Luv Connection』では、細野晴臣がベース、ピアノを演奏するなど、YMOの再生プロジェクトが終わり、ふたたび距離が出来たように思われる両者が、間接的であれば共演を果たしていることは注目すべきポイントである。
さらに同曲では『Sweet Revenge』でギターで演奏し、同ツアーにも同行した高野寛が参加している他、『Sweet Revenge』収録の『Moving on』や『Smoochy』(1995年)収録の『A Day In The Park』でボーカルを務め、ツアーにも同行したヴィヴィアン・セッソムズが参加している。
このように、この時期における坂本の周辺のミュージシャンをフルに活用して、アルバムが制作されているのである。

さっきも言った『Rock in Rio』でステージがら落ちた事件の後、ニューヨークに帰って養生してたときにディー・ライトとは違う路線のデモが出来たんです。「TECHNOVA」と「I WANT TO RELAX, PLEASE!」の2曲かな。(・・・)教授に「gutっていうレーベルをやるからデモを聴かせて」って言われて渡したら、「すごいいいからソロアルバムを出さないか」って言われたんです。

『Sound & Recordings』(2024年5月号)

GEISHA GIRLSへの参加をきっかけとして、テイは吉本興業に所属し、今田耕司をKOJI-1200としてプロデュースする。

GEISHA GIRLSにも参加した構成作家の高須光聖との対談で、テイが以下のように語っていることからも、GEISHA GIRLSがKOJI-1200に繋がったことは明らかだ。

TOWA TEI:そうかもしれないですね。あのとき、どうレコーディングをしていこうかという話になって、松ちゃんに「うちらは音楽のことは分からないし、テイさんもうちらのお笑いを100%理解できるわけでもないと思うから、それぞれ思うようにやったほうがいいんじゃないか」って言われたんですよね。

高須:ええ? そうでしたっけ?

TOWA TEI:それで「もうちょっと一緒にいろいろ考えたいな」という寂しさがちょっとあったんですよね。で、その寂しいなぁっていう感覚からKOJI1200を作ったわけです。

https://doda.jp/guide/quusoomedia/005/

テイはKOJI1200の1stシングル『ナウ ロマンティック』(1995年)をフォーライフ・レコードからリリース、その後も松本人志が監督した映画『大日本人』(2007年)の音楽を担当するなど、GEISHA GIRLSを起点に、テイは吉本興業との関係を深めていくことになる。

なお、KOJI1200の1stアルバム『アメリカ大好き』(1996年)に収録されている『ブロウ ヤ マインド ~ アメリカ大好き』は、テイがトラックを担当した、GEISHA GIRLSの『Blow Your Mind - 森オッサン チョイチョイ キリキリまい』の派生形ともいえる楽曲になっている。

『ブロウ ヤ マインド ~ アメリカ大好き』については、tofubeatsが『水星』(2011年)でサンプリングしたことにより、若い世代の音楽ファンを中心に話題となった。

また、2017年にはダウンタウンが司会を務める『水曜日のダウンタウン』のDVD-BOXに初回限定として、若い世代を中心に支持を集める新時代トラックメイカー PUNPEEが、GEISHA GIRLSの『Kick & Loud』をリミックスした音源を収録したCDが同梱されるなど、近年になっても、若者を中心にGEISHA GIRLSが再発掘されているのである。

これらの現象は、GEISHA GIRLSの蒔いた種が、世代を超えて花開いた結果といえるだろう。

【続く】

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