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雑草と言う名の草はない

「どの草にも名前はあるんです。そしてどの植物にも名前があって、それぞれ自分の好きな場所を選んで生を営んでいるんです。人間の一方的な考えで、これを切って掃除してはいけませんよ」

という昭和天皇のお言葉が、『宮中侍従物語』の中にあるとネットで見ました。もう一方では、タイトルの「雑草と言う名の草はない」の名言は牧野富太郎氏の言葉であるとの記事も読みました。

制作中の絵本の解説に~学名をめぐる攻防~と題して、牧野富太郎氏のことに少し触れています、あまりにも数々の偉業を成し遂げた彼のことについて私の薄い本の中ですべてを語れるはずもないのですが、唯一、彼の生涯の偉業の中で、台湾と関わりのあった時期があり、その部分を少しだけ書いています。noteには本に書ききれなかったことについて書きとめておこうと思います。

日本の夜明け、明治から昭和にかけて、広く世界に通じる大国にならんと大志を抱いた若者がいました。植物学の世界もそうでした。

当時の日本の植物学研究は、欧米よりとても遅れていて、新種を発見しても外国にお伺いをたてて学名を付けてもらうといった立場だったようです。

発見者の名前が付けられ、世界で通じるラテン語による「学名」、この魔法のような学問上の名前を、なんとしても日本に生える草木に日本人の名前を! そんな思いがあったのだと思います。

私が今回制作した絵本の主人公、「愛玉子」(オーギョーチ)にも学名がついているのですが、その学名に「Makino」とあるご縁で、こうして書くことになったわけです。 でもなぜ台湾にしか生えない樹の学名に?それは日本が台湾を統治していた時代とリンクするからです。

「牧野富太郎 植物採集行動録」明治・大正編 (編者:山本正江・田中伸幸)によると、当時植物採集のため台湾に出張を命じられた富太郎氏は、ピストルの弾薬50発を火薬免許商金丸謙次郎より買い、横浜の砲店で護身用のピストルを購入したとあります。当時の台湾は日本の統治が始まったばかりで、原住民や地元の人たちの蜂起が各地で頻発していた時期です。そんな時期に見知らぬ土地に入り、黙々と植物採取をしていたというのは、身の危険の恐怖よりも、どんな草木があるのだろう?という探求心のほうが勝っていたということでしょうか、決して嫌々行ったのではないのだろうと推測しています。その証拠と言えるかどうかわかりませんが、学名の中に「awkeotsang」というラテン語があります、これはどういう意味なのかな?と思っていたのですが、台湾の人によると「愛玉欉」(オーギョーチの樹の意)の閔喃語発音からきているとの説があります。その土地に生えている植物にその土地の言葉で名前を付ける、これは富太郎氏の植物への愛情表現の一つなのではと私は感じました。

牧野富太郎氏は明治の始まる少し前の文久2年生まれ、明治元年になるまでに両親、祖父に次々と他界されるのですが、そもそも生家は酒造と雑貨商を営む裕福な商家に生まれた富太郎氏、祖母に伸び伸びと育てられ植物の大好きな少年時代を過ごすわけですが、その後の人生もそれはそれは自由な精神で植物を愛し、お金の苦労は絶えずあったにも関わらず、記録に残る晩年の写真などはどれも満面の笑みの絶えない素晴らしい存在感で、その人間味に圧倒されます。最初に植物に魅了されたきっかけはいったいなんだったのか?13人の子供を抱え、家計が困窮の一途を辿り、家賃が払えず転居を30回も繰り返しながらも、その精力的な植物研究と書物の発行、日本の植物学を世界レベルまで引き上げた行動力の源はなんだったのか?94歳までの生涯は、その命の限り植物に対して愛情を注ぎ続け、晩年病状が悪化し、危篤を脱するも再び重体となったとき、当時の天皇(昭和天皇)よりお見舞いのアイスクリームが届いたというエピソードがあります。一般市民への植物の普及活動を60歳後半から益々盛んに行っていた富太郎氏の様子を昭和天皇も見守られていたのではと思います。

日本の台湾統治時代、日本人が建てた博物館に魅入られ、自分も大きくなったら立派な博物館を作りたいと大志をいだいた台湾の名実業家、許文龍氏が幼いころ経験した台南の博物館のバイオリンの音色の美しさは、のちに台南に壮大な「奇美博物館」を作り、コレクションとなる名作のバイオリンの数々を、音楽を志す学生に貸し出しをしていると聞いています。台湾と日本とのこんなエピソードを知り、「愛玉」にまつわるエピソードとして、植物を愛した富太郎氏が、その土地で生きる植物に残した愛玉の学名を、台湾の人たちに少なからずアイデンティティの一つとして誇りに思ってもらえたらいいなと思いました。

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